会議が終わり、車に乗りこみ、スーツを脱ぎ、ネクタイをとり、シャツのボタンを外す。短パンとポロシャツに着替え、カジュアルな靴に履き替えた。昨日のダル・エス・サラーム空港から世界経済フォーラムの移動時とは、真逆の着替えのパターンだ。パネルがうまくいき、カジュアルな服装になると、達成感と解放感が重なり、ついつい、「終わった! 良かった!! 褒められた!!! 嬉しい!!!!」と呟いてしまっていた。
車の目的地は、インド洋に面したバガモヨである。ちょっと不思議な語感があるこの地は、19世紀までアラブ人による黒人奴隷貿易の集積地だったところである。「我心ここに残す」を意味するこの言葉「バガモヨ」を叫び、黒人の奴隷たちは、近くのザンジバル島経由で、アラブ各地に売られていったと言う。その奴隷たちのその後の人生を思うと、暗澹たる気持ちになる。
アラブ人が開拓したこの地に、19世紀後半にドイツ人が総統府を築き、第一次世界大戦中の1916年に英国人が引き継いだ。1964年のタンザニアの独立後、バガモヨは現地人の手に戻った。ドイツ時代の税関跡地の横に、アラブ時代の奴隷集積地の遺跡が海に面して残っていた。浜辺では、100年以上も変っていないようなハシケの様な古い船から、現地人が積み荷の上げ下げをしている姿が目に映った。現地人が服装のまま、遠浅の海を荷物を持ち行き来する姿が、昔の姿と重なり、暗い気持ちになる。
グルッと散策するが、他には観光客は見当たらない。現地人の目線が気になる。車に戻り、バガモヨのメインストリート(とは言え、車が一台やっと通れるほどの道)を走る。ドイツ時代の総統府の遺跡が残るその道は、「カイザー・ストリート」、「キング・ストリート」と宗主国が変わるたびに名前を変え、今は海の名前を取り、「インド・ストリート」と呼ばれている。
車は、インド・ストリートをゆっくりと走り、海岸方向にハンドルを切った。そこに、小洒落たリゾートホテルがあったので、車を止め中に入ってみた。
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ホテルマンと交渉し、そのホテルで気分転換のために、泳ぐことにした。水着に着替え、インド洋に足を踏み入れた。水は温かいが、透明度は意外に低かった。遠浅だったので、遠方に行かないと、泳ぐことができない。一方、一人で泳ぐとなると、何となく怖いので、遠方の深いところに行けない。そこで、浅瀬でクロールを泳ぐことになる。だが、手を曲げながらしか、掻く事ができない。多少窮屈だが、そのまま泳ぎ続けた。息つきの度に、アフリカの水色の空が目に入ってきて、気持ちが良い。
ふと周りを見渡すと近くの浜辺では、積荷の上げ下ろしの作業が行われており、古代からあるような帆船が、波間に揺られていた。18世紀の風景画を見ているような錯覚に陥る。
僕は、ひたすら泳ぎ続けた。当たり前だが、海はどのプールよりも広い。だが、怖いので、浅瀬を浜辺と平行に行ったりきたりして泳いでいた。7月のマスターズの水泳大会に備えて、一応全種目のルーチンの練習を済ませた。プールで塩分を取り、ホテルを後にした。束の間のリゾート気分を堪能した。
車は、そのままダル・エス・サラームに向かった。20世紀の初頭に、植民地の首都をバガモヨからダル・エス・サラームに遷都する意思決定がされた。やはり、港が欲しかったのであろう。渋滞に巻き込まれて時間がかかったが、港に面した高級ホテルであるキリマンジャロ・ホテルに車が到着した。
翌朝、チェックアウト後、国立博物館に向かった。そこには、360万年前から始まるタンザニア、いや人類の歴史が展示されるとともに、奴隷時代・植民地時代の写真、さらにはタンザニアの部族の文化が展示されていた。
360万年前の人類の祖先の足跡は、人類が初めて二足歩行した最古の記録である。175万年前のアウストラロピテクスの頭骨は、人類の祖先の軌跡を知る手がかりになる。そしてその後の人類の進化の歴史が、ピテカントロプス、ネアンデルタール、ホモサピエンスなど記載されていた。現代人のところには、「進化の歴史の中で、現代人は文化の力で、地球の動物の頂点に立つ事ができた。ただし、世界の直面している問題の対処を誤ると、その地位も安泰ではない」と書かれていたのが印象的だった。
中庭には、Hulukaというアーティストが制作したマコンデ彫刻(黒檀の木彫)が、おみやげものとして売られていた。そこで、男女の対のマコンデ彫刻を購入した。ペアで700円という破格値であった。
博物館を出て、空港に向かった。道中色んな事が頭に浮かんできた。先ずは、ホテルマンから聞いた話を思い出していた。欧米人も多いけれど、最近は中国人の来客が増えてきているらしい。車は殆ど日本車であるが、電気機器は韓国製が多い。中韓の戦いに、中国企業が猛烈に迫っているのである。遠いこのアフリカの地においても、東アジア企業の経済戦争が繰り広げられている。
会議のバスの中で聞いたのだが、タンザニアは、アフリカの中で例外的に政府が安定している。建国の父である初代大統領のニエレレ氏が、言語をスワヒリ語に統一させ、部族の一員であること以上にタンザニア人としての意識を植え付けたのが功を奏したのである。隣のウガンダでは部族間の殺戮があり、ルワンダやケニアも政治が不安定だ。一方、タンザニアは、内戦などとは無縁で、とても平和的だ。
タンザニアは、子供が多い国だが、平均寿命は45歳程度という人口構成。エイズの問題も深刻だ。国立博物館に、エイズに関する展示があったのが、印象的だった。識字率が70%程度で、一人当たりGDPが500ドル以下であるという。教育・経済環境の現実についても考えさせられた。
でも、人々の暖かさは、他に類を見ないほどだ。「ジャンボ」と挨拶をして、「アサンテ」と御礼をする。片言のスワヒリ語でのコミュニケーションは、タンザニア人の心に直に触れる機会を与えてくれる。
アフリカ人とは、過去にあまり接点は無かったが、いや僕自身があまり関心を持ってこなかったが、この地に来ることによって、初めてアフリカ人を理解し、感じる事ができるようになった。アフリカ諸国の地理的関係、アフリカ全体の経済・政治的状況、アフリカの多様性、そしてアフリカの可能性と課題も理解する事ができつつあった。
ンゴロンゴロやセレンゲティの大自然に抱かれた感覚。ゾウやカバとの対話。バガモヨで見た奴隷貿易の歴史。インド洋での一泳ぎ。そして、何よりも、アフリカ経済会議でのパネル。それらの思い出とともに、僕は、ダル・エス・サラーム空港から一路東京に飛び立った。
(追記)
僕は、写真を撮らない主義である。写真を撮る瞬間に、観光客気分となり、主体と客体との分離が生まれる気がするからだ。僕は、常にその場に一体化したい。そして、自分の五感でその場を感じ取り、自分の中に生まれてくる情感を楽しみたいのだ。
僕は、写真を撮る代わりに、旅行記を書くことにしている。自分の脳裏にその景色を刻み込み、印象に残った情景や出来事を書き記し、感情を言葉化するようにしている。僕にとっての写真が、この旅行記だ。
今回の旅からは、ツイッターをメモ代わりに、使わせてもらった。感動する風景や強く湧き上がる感情をその場で、思いつくままに言葉にして、携帯で呟く。パソコンの前に座り、その呟きをつなげる形で、風景や感情を、印象に残ったままコラムとして仕上げていくのだ。風景のスケッチを現地で描き、アトリエで印象に残ったものを、キャンバスに描いていく画家の感覚に近いのであろうか。
いずれにせよ、最後まで僕のタンザニア旅行にお付き合いいただき感謝です。次のコラムでまた会いましょう。
2010年5月9日
関空に向かう機内にて執筆
堀義人