水戸、いわきと続いた被災地でのKIBOWミーティングだが、震災後2カ月の5月11日にKIBOW仙台を開催することになった。ツイッターで綴ったものをたどりながら報告をすることにしよう。
仙台に到着。あたりまえのことだが、震災後に来た水戸、いわきと比べて、がぜん都会だ(水戸、いわきの皆さま、ゴメンナサイ)。高速バスで入った水戸、車で向かったいわきに比べ、新幹線で到着したからなのか、余計にその印象を強くした。仙台駅でビジネスマンが多く降車し、賑わいを見せていた。
仙台駅で、日経新聞の三宅編集委員、グロービスの仙台、石巻出身の二人である齋藤麻理子、高橋直子と合流した。他にグロービスの梶屋拓朗が、2トントラックをレンタルして東京より野菜を運んで来ていた。駅から降りて、地元のNPO法人ファイブブリッジの畠山さん、岡島さん、石巻で魚店を営業する津田さんと待ち合わせた。
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仙台駅から、8人が車とトラックに分かれて乗り込み、石巻経由で牡鹿半島に向かった。現地でボランティアしてきた梶屋の情報によると、牡鹿半島には行政の手が届いていないので、野菜が足りないのだと言う。だから自分が野菜を届けるのだと言う。熱血漢だ。
確かに、報道で「牡鹿半島」と言う名前をあまり聞いたことがない。牡鹿町は、5、6年前に平成の大合併で、石巻市に吸収されたのだと言う。牡鹿は、伝統的にクジラ漁で有名なところだ。
石巻のニーハオ亭で、チンジャオ飯を食し、NPO法人フェアトレード東北の事務所に到着した。ここから牡鹿半島の集落の在宅避難所に、2トントラック満載の野菜を届けに行く予定だ。フェアトレード東北から、阿部副代表と名古屋からボランティア参加している塚田さんが、合流した。
フェアトレード東北は、もともと海外フェアトレードから始まり、社会的弱者の自立支援へと発展したNPOだ。震災後に独居老人、行政の手が届かない在宅避難所や、学校給食(おもに特殊学校など)に、食料や生活用品を届ける活動をしている。ネットで有志を募り、物資を集めているのだという。
塚田さんは、ボランティア9日目だ。ツイッターでフェアトレード東北の理事長と繋がり、ボランティアに来ることになった。車が、石巻の市街地を通過した。屋根まですっぽり津波に呑まれたという石ノ森萬画館が見えた。鹿妻地区には、10Mの津波が襲ったらしい。その後が、凄まじい。未だガレキや車が放置されたままだ。
牡鹿半島の入口、女川湾を越えて、牡鹿郡女川町に入った。女川は壊滅的だったが、原発は残った。周辺の住民は、女川原発に避難していたらしい。石巻の蛤浜(はまぐりはま)在宅避難所に今向かっている。20ぐらい集落のうち残っているのが7戸。そこに在宅避難所があるのだという。
蛤浜で、2トントラックから野菜を降ろす。避難所の人々の笑顔が、眩しい。レトルト、乾パン、おにぎりばかりでの食生活だったので、とても喜んでくれていた。肉と野菜が全く手に入らない。なぜならば、その地区の車が全滅したからだ。家もほぼ全滅。奥にあった集会所に肩を寄せ合い生活している。
蛤浜の生活は、海の幸によって成り立っている。静かな海で、牡蠣(かき)の養殖をしている。養殖に使う浮きが無惨にも、海岸に散らばっていた。港のテトラポットは防波堤に食い込み、その防波堤も破壊されていた。地盤が3メートルほど沈下したので、満潮になると道路が冠水するのだという。
石巻では、失業率はほぼ50%であろうとの話だ。元々、原発、日本製紙、工業港、漁業港の4つがメインの雇用主だった。日本製紙は壊滅、港は工業用も農業用とも壊滅。唯一残る原発も今操業をしていないので、下請けの雇用も余り無いと言う。経済を回すことの重要性を痛感する。
蛤浜の住民と言葉を交わす。綺麗な、優しげな目がとても印象的だ。写真を一緒にとり、次の目的地の折浜(おりはま)に向かった。この地域にとっての命綱である海沿いの道路が、ところどころに落ちていて、危険な状態だ。折浜の避難所は、高台にあるお寺であった。2トントラックを下に止め、軽トラックを横付けして、野菜を軽トラックに移し、上まで運んだ。僕らは、階段を上がり、お寺の境内に入った。避難所から老若男女が出て来て、「お、野菜だ」と喜びながら、率先して荷物を運んでいた。
東京にいたころは、「震災後2カ月も経つので、隅々まで物資が行きとどいているだろう」と思っていた。だが、現実は、取り残されている地域がまだまだあることが判明した。
区長(地域の代表)に質問してみた。「何に一番困っていますか?」、と。答えは、「お金だ」、とストレートに返って来た。ここの避難民も生活の糧が奪われてしまっていた。車も殆ど流された。職も無い。家も半壊もしくは全壊で、仕事も無い。どれから手を付けていいかがわからない状況だ。
帰り道に石巻市街を通り、商工会議所の会議を傍聴する。何かが生まれる雰囲気が感じられない。「行政が入ると、法律でできないと言われるので、行政を入れないで復興プランを描きたい。スピードが遅すぎる」と参加者の一人が厳しい口調で言う。
今回の震災で改めてわかったことは、日本は現場が強いけれど、リーダーが弱いと言うことだ。現場の会議参加者も皆真面目だし、やる気がある。如何せんリーダーが不在なのだ。行政に頼りたくないけれど、課題が大きすぎて行政を絡めなければならない。そこにジレンマがある。
今仙台の若林区に入った。ガレキや車、根こそぎ流された木々が、畑に散乱する。ガレキを見た後に、川沿いに咲く黄色い菜の花を見つける。ふと癒される。ガレキの散乱する田畑の横を、親子が歩く。少女の目に何が映り、何が残るのだろうか。
そして、KIBOW仙台の会場に到着。19時からスタートだ。100名近くが参加する予定だ。ワクワクしてきた。
KIBOW仙台が始まった。僕の冒頭の挨拶を終えて、今は楽天球団のオーナーの島田さんのスピーチ。僕の隣は、経済産業省大臣政務官の田嶋要氏。個人の立場で仙台まで応援に来てくれた。東京からは、他には楠本修二郎氏(カフェ・カンパニー社長)、高島宏平氏(オイシックス社長)、宮城治男氏(ETIC.代表理事)等だ。
東北イノベーションキャピタル、地場でのカフェ経営者が発表した。その間、僕は、地場のお酒である「一ノ蔵」を飲み続けている。すると、司会の畠山さんが、一ノ蔵の浅見さんを指名された。宮城のお酒は、「浦霞」を含めて、とても美味しい。僕は、ほろ酔い気分になりつつあった。
KINOW仙台が成功裏に終了した。参加者100名で大盛り上がりだった。多くの事を学び、気づき、多くの出会いを得た。参加者に感謝だ。その後二次会に参加した。参加者も50名近く残り、深夜12時過ぎまで続いた。仙台は、東京ほど交通手段は無い。なのにこの人数、凄いパワーだ。
二次会中に衝撃的数字を見て一瞬凍りついた。石巻の死者・不明者が5800名近くいる。それがなんと宮城県全体の死者・不明者の約60%を占めるのだ。「津波てんでんこ」(津波が来たら、自分の責任で早く高台に逃げろという意味)と教育されてきた三陸海岸と違い、過去に津波の被害が無かったからか、一切津波避難訓練をしていなかったのだと言う。
そして、たまたま前に座った若者と話をした。彼は、僕に津波に流された体験を話し始めた。
石巻港にある自宅兼職場で仕事をしているときに大地震が来た。取り急ぎ社員を帰して、2階でご両親と地震の後片付けをしていた。そこに津波が押し寄せてきた。水は、すぐに2階まで入り込んできた。とっさに母親の手をつかみ、2人は父親とは別方向に流されていった。その瞬間に「どっちかは生き残れないだろう」と直感的に思ったと言う。
2人が流された方向のすぐ後ろに比較的大きな建物があり、水が同じ場所をグルグルと滞留し始めた。その時に手を伸ばしたら建物のベランダを掴むことができ、母親の手を握り締めながら、必死になって建物に這い込んだ。そのままその夜は、ベランダで過ごした。雪が降る寒い夜だった。
翌日水が引いてから、街中を歩きまわり父親を探し求めた。二日後に、父親を発見した。家の近くだったと言う。流されて、引き潮で戻り、近くに帰ってきたのだろう。母親と2人で父親を葬ったと言う。今は、仕事も無いし、家も無い。「前向きに生きて行くしかないでしょう」、と明るく僕に笑いかけてくれた。
その日は、深夜まで二次会に参加したが、ホテルに戻ると疲れきっていたのか、お風呂にも入らないで、床につきすぐに眠りについた。
2011年5月23日
二番町のグロービスにて執筆
堀義人