最後の5日目の朝を迎えた。いつものように、朝6時に起床した。外はまだ暗く、空気は冷たい。日本時間は、月曜日の午後4時だ。僕は、この束の間を活用し、仕事をすることにした。通信状況は相変わらず悪い。メールを送り、コラムをひたすら書き続けた。朝7時30分に集合し、チーム分けとなった。
昨晩、5男が蜘蛛に刺されたようで、顔が腫れあがっていた。5男以外は、かすり傷程度で、皆幸い元気であった。僕らは、テニス・コートとバスケット・コートの修復チームにアサインされた。初めてペンキ塗り以外の仕事へのアサインだ。
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復興プロジェクトの進捗状況は、予想をはるかに超えるスピードで進んでいた。献身的に皆働いてきたこともあり、また最後の日ということもあり、このチームでやり残した仕事は殆ど無くなっていた。地面にヒビが入り、デコボコだった、テニス・コート3面ともが見事に修復され、1面はバスケットボール・コートに転換されていた。僕らは、フェンスの横に針金を使ってバナーを貼る仕事を完遂し、仕上げの掃除に勤しんだ。
コート修復作業の仕事が思ったより早く完了したので、このチームは時間前に解散となった。今日が最後の日なので、労働奉仕の経済的価値などを考えずに、僕は僕なりに貢献できることを、全うしようと考えた。早めに終わったので、屋外のオープンエアの教室のお手伝いをしに回った。ここでは、ひたすら肉体労働だ。周辺にある瓦礫や小石をシャベルで掬い、除去する作業だ。暫くその作業に取り組んだのちに、熟練労働者の中に割って入り、積極的に仕事をもらい、見よう見まねで黒板の黒いペンキ塗り、しっくいを練る作業をし、しっくいを壁に塗りつける作業を行った。
その役割を終えたので、図書室と職員室チームにもジョインした。ここでも、肉体労働が待っていた。シャベルを使って大きな瓦礫を除去する作業だ。シャベルを瓦礫の下に入れ、持ち上げ、台車に載せる。この作業の繰り返しだった。知らぬ間に右手の親指の付け根に豆ができ、つぶれていた。
サイレンが鳴り、全ての奉仕活動を終えた。終わった!、という達成感に浸りながらぐるっと校内を一回りしてみる。僕がペンキを塗った教室も、トイレも、テニスコート・バスケットコート、幼稚園、そして図書室や職員室、屋外教室も全て作業か完了し、綺麗になっていた。壊れた机も椅子も、修復され、白くペンキ塗りがされていた。
バスに乗り、宿舎に戻り、ランチを摂った。食事を早く済ませ、子供達はプールで遊んでいた。僕は、無線LANのかすかな電波を頼りにメールを拾い、仕事をしながら、このコラムを書き続けていた。午後2時45分にホテルの玄関で集合して、バスで小学校に戻った。これから引き渡し式(HandOver Ceremony)に参加するのだ。
小学校の中庭の芝生の上には、現地の子供達が既に数百人静かに座っていた。皆、青い制服を身に纏っていた。大きな木が数本聳え立ち、快適な木陰をつくっていた。その横に僕ら、海外からの奉仕労働者が、皆オレンジ色の帽子とオレンジ色のTシャツの「制服」を着て陣取った。目の前に1メートルほど高くなっている場所があり、そこがステージとして使われていた。初日に僕らを向かい入れてくれた合唱団が弧の字に並び、歓迎の歌を歌い続けていた。
そして、いよいよ引き渡し式が始まった。冒頭主催者が趣旨を説明する。途中何回か労働奉仕者の参加者の出身国が紹介された。一番参加人数が多い米国の次に、常に日本が呼ばれていた。日本代表、アジア代表として参加している気持ちを強く持つ瞬間である。
引き渡し式は、スピーチの間に、合唱団の歌が披露される式次第で進行してった。校長先生、市長のスピーチがあり、引き渡すもののプレゼンテーションがあった。我が3男を含む14人の子供たちが、サッカーボール、テニスラケット、クリケット、文具、図書館などの目録や象徴的な品物を、現地の子供達に手渡し、握手をしていく。これらの物品は、僕らを含む多くの人たちが寄付したお金をもとに購入した品々だ。僕らは、ノート800冊と塗り絵セット600冊を寄付した。
そして、最後に教育省の局長クラスの人が挨拶をした。彼女は、首都のハラレ市からわざわざこの式典に参加するため、500キロもの距離を超えて来られた。彼女のメッセージは、強烈であった。
「教師よ、物品をドルと交換するな。親たちよ、ここの施設を使うときには、必ず子供達と一緒に使うこと。コミュニティ全体で、この施設や与えられたものをしっかりと維持し、教育レベルを上げること」。
「親達は、お金を出すことで満足していたけど、一緒に手を汚すことによってのみ、子供達が学ぶのだ。与えることにより幸せになる。死海は、与えないで得てばっかりいるから死んでいるのだ」。
そうなのだ。ボランティアはただの労働力ではないのだ。1時間1ドルの経済的価値しか生み出さないが、労働を通して愛情を与えることができる。ただ単に、金品を寄付するのではなくて、僕らが自らの手を汚す労働奉仕を行うことによってのみ、多くの人の感情を揺さぶり、多くの人に影響を与えられるのだ。与えることによって初めて幸せになれるのだ。この式典では、それを多くの人に教えていた。
テーマソングの“Isikolo Infundo”を皆で歌った。「我が学校、我が知識」という意味だ。繰り返し繰り返し、このテーマソングを歌い、その後音楽がかかり、皆が立ちあがって踊り始めた。そして、主催者に導かれるように、校内を走り始めた。青色の制服とオレンジ色のTシャツが交わり合っていき、群となって動いていった。
僕らが、修復したテニスコート・バスケットボールコートを超えて、子供たちがペンキを塗った幼稚園の前を右に曲がる。そして、オープンエアの屋外の教室を右手に見ながら回り、修復された教室の前を通る。子供達が教室の中を覗きこんで、「ワーオ」と喜んでいるのを見ながら、僕は走り続けた。綺麗になったトイレと新設された職員室・図書室の手前を右に回り、中庭に戻った。そして、そこで思い思いの交流が始まった。
息子達は、孤児チームの一員として働いたときに、親しくなった現地の孤児達と電話番号を交換していた。息子達は、かぶっていたIsikolo Projectのオレンジ色の帽子を友達に差し上げ、付けているバッチなど思い出になるものを全て、現地の友達に差し出した。現地の友達は、思い出にジンバブエのローカル通貨の一ドル紙幣を次男に手渡していた(ハイパーインフレーションのため、0.00001円ほどの価値も無い)。
そして、別れの時が来た。子供達全員が、孤児の友達と、なごり惜しみながら、別れを告げて、バスに乗った。孤児たちは、バスの近くまで見送りに来てくれた。
バスが出て、小学校の端に位置する幼稚園の敷地を曲がるときに、現地の子供たちが、新しく作られた遊具で楽しそうに遊んでいるのが見えた。あの遊具は、我が子供たちが一生懸命にペンキを塗っていたものだ。ブランコに乗り楽しそうに漕いでいる青い制服の子供たちを目で追いかけている間に、バスが右に曲がり、視界から消えた。そして目に入ってきたのが、広大なグランドである。そのサッカーゴールも白いペンキで綺麗に染め上がっていた。
「電話かかってくるかな?」と長男が、楽しそうに僕に話しかけてきた。僕は、「かかってきても、英語を喋れないでしょ。先ずは英語を勉強しなくちゃね。そして、大きくなってから、またジンバブエに会いに来たらどう?」と伝えた。「そうだね」と笑顔で答える長男、そして同調する次男。
この労働奉仕を通して、子供達は何を得たのであろうか。それは、与えることにより、幸せが得られることであろうか。それとも、日本の恵まれた環境を改めてありがたいと思う気持ちであろうか。
窓の外に目をやると、快晴の透き通るように青い空のもと、雄大なアフリカの大平原が続いていた。
2010年8月10日
ジンバブエのホテルにて執筆
堀義人
<番外編:執筆中の風景> このコラムを引き渡し式を終えた後、ホテルのプールサイドで書いている。子供達はプールで交流し、大人達はバーでビールを飲みながら交流をしている。そこから見える夕陽が美しい。僕は、一人パソコンを叩きながら、溶け込んでいる夕陽に見とれている。地平線に落ちていく夕日を見ながら、思わず両手を合わせ、合掌する。最後の太陽の光が、地平線に落ちていくのを確認し、再度パソコンを叩き始めた。