昨秋、ベトナムで建設工事中の橋が崩落し、多数の死傷者を出す事故があった。この工事を受注したのは、新日鉄エンジニアリングで“社内ベンチャーのカリスマ”と呼ばれる人物だった――。会社組織の中で夢に向かって邁進するビジネスパーソンを追うインタビュー企画、嶋田淑之の「この人に逢いたい!」。今回から3回にわたっては、先進国における架橋に専心する、新日鉄エンジニアリング海洋橋りょう・ケーブル営業室長、浅井信司氏の物語を紹介する(この記事は、アイティメディア「Business Media 誠」に2008年2月15日に掲載された内容をGLOBIS.JPの読者向けに再掲載したものです)。
2007年9月26日の早朝。日本のODA(政府開発援助)の一環として、大成建設、鹿島建設、新日鉄エンジニアリングが、ベトナムの南部、メコン川の支流ハウ川(Song Hau)に建設中だった「カントー橋」が崩落した。
地上25メートルの高さから、容積2000立方メートル、重量3000トンに上るコンクリート塊や鉄筋、建設資材が、橋げたの上で作業中だった技術者・労働者(150人)の頭上に落下したのだ。ベトナム人134人の死傷者(死者54人、負傷者80人)を出す大惨事となった。
ベトナム特有の灼熱の気候、激しい降雨で2次災害の発生が懸念される中、コンクリート塊や鉄筋の下敷きになった人々の救出は困難を極めた。また救出に成功しても現地の医療技術は決して高いと言えず、必ずしも適切な治療を行えないのが実情だった。
しかし、そんなことは言っていられない。血まみれで絶叫する負傷者たち、すでに絶命し物言わぬ人々・・・日本人もベトナム人も一体となり、必死の救出作業が昼夜を問わず続けられた。現場には、生き埋め者の発見のために救助犬が導入されたほか、ベトナム政府関係者や地元カントー大学の学生たちによる献血活動が始まり、ベトナムの日本人コミュニティでも直ちに募金活動が開始された。
ODAに託された、熱く切実な想い
ベトナム南部最大の都市ホーチミン市から南方に向けて、メコンデルタの中心都市カントー市へと国道1号線が走っている。幹線道路だけあって交通量も多く、まさに同国南部の大動脈と言っていい。
しかし、国道1号線の路線上に位置するハウ川には橋がなく、フェリーボートがピストン輸送によって大量の車両を渡河させるという状況だった。川を渡るトラックは1日当たり約1万台。これだけの車両が2時間かけてフェリーで橋を渡るのである。ベトナム南部の経済発展にとって、橋がないことが大きなボトルネックとなっていた。
このボトルネックを解消すべく、日本の資金力と技術力を活用してカントーに橋を建設しよう。ベトナムの経済発展に貢献しよう――それこそが今回のカントー橋プロジェクトだった。
カントー市の人口は約100万人。ベトナム南部の要所だ。ホーチミン市から近い。国道1号線は川の上を通っているが、橋がないために乗用車もトラックもフェリーで川を渡っていた(Google mapsより)
工事は2004年10月に着工。順調に行けば、2008年12月には開通予定だった。フランス植民地支配、第2次大戦、対仏独立戦争、ベトナム戦争・・・長期にわたる被支配や戦乱の歴史を克服し、ベトナムは今ようやく発展軌道に乗り始めている。それだけに、1日も早くインフラ(社会基盤)を整備し、生活を少しでも豊かにしたいという現地の人々の“願い”は切実だ。
一方、日本サイドはどうだろう。もちろん背景には、中国へのリスク分散を目的とする日本からベトナムへの投資熱や進出熱があっただろう。しかしより長期的・大局的には、そうした途上国の経済発展のために自分たちの強みを生かして何とか力になりたいという日本人企業戦士たちの熱い“想い”が込められていた。
それは、何もベトナムのカントー橋に限ったことではない。実は、アジアを中心に途上国に架けられたODA案件の橋には、等しくそういう“願い”や“想い”が込められているのである。
その一例が、日本がカンボジアのプノンペン郊外に架けたチュルイチョンバー橋だ。この橋は、「日本橋」として現地の人々に長く愛され、同国の紙幣にも印刷されている。
カンボジアの紙幣に印刷されたチュルイチョンバー橋。今も現地の人々に「日本橋」と呼ばれ愛されている
前置きが長くなったが、そろそろ今回の主役に登場してもらおう。カンボジアの「日本橋」を受注した本人であるとともに、崩落したベトナム・カントー橋を受注した本人でもある、新日鉄エンジニアリング株式会社で海洋橋りょう・ケーブル営業室長を務める浅井信司氏(48歳)である。
「2007年9月26日・・・あの日は、私にとって一生忘れられない日です。朝出社して会議をしているとメモが回ってきました。そこには、私の父が脳溢血で倒れ、病院に搬送されて危険な状態だと書いてあったんです。それで取るものも取りあえず病院に向かおうとしたら、会社の同僚が私を呼び止め、『大変なことになったな!』と言うんですよ。てっきり父のことを言っているんだと思った私は思わず、『いやぁ、そうなんだよ!』と答えたんですが、どうも相手の様子がおかしい。そこで問い質してみたら『カントー橋が崩落して死傷者が多数出ているらしい』というではありませんか。父の脳溢血と、私が受注したカントー橋の崩落が同時に起きたわけで、あのときはさすがに気が動転しましたね・・・」
崩落したのは、第2工区のスイス系国際企業が主に施工を担当した区間であり、実際には新日鉄エンジニアリングの担当区間からは離れていた。しかし何年間にもわたって自らの情熱を傾け、2008年末の開通を心待ちにしていた浅井氏にとって、崩落は耐え難い心痛だったはずだ。
あれから4カ月。少しは落ち着いたのだろうか?
「いやあ、とんでもない! カントー橋の崩落の件は、事故原因の究明を含めて、今なお関係者全員で懸命に取り組んでいます」
高温多湿の厳しい気候条件の下、事故現場でまさに命がけで救出作業に当たってきた日本人技術者の中には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんでいる人々がいるとも聞く。苦しんでいる人々へのアフターケアも含め、関係者の真摯な取り組みは今後も当分続くことだろう。ちなみに、浅井氏のお父様は、辛うじて一命は取り留めた。
鉄鋼衰退を経て、架橋を年商100億円のビジネスに
浅井氏の所属する新日鉄エンジニアリングは、新日鉄(新日本製鐵)の両輪だった「鉄鋼」部門と「エンジニアリング」部門のうち、「エンジニアリング」部門を完全子会社として独立させることで2006年7月に発足した会社である。
戦後の復興期から高度成長期にかけての新日鉄は、「鉄は国家なり」と豪語するほどの日本産業界の代表企業であり、経団連会長も新日鉄のトップが選出された。
しかし、そうした世界に冠たる大企業もやがて環境変化の荒波にさらされ、「構造不況業種」に指定されるほどの不振に陥る。「ついにはレイオフ(一時帰休)が実施されましてね。私なんて、平日はやることがないのでゴルフばっかりしていましたよ」と浅井氏は振り返る。さらに1990年代には、ポスコなど韓国新興企業の台頭などもあり、経営環境はいよいよ厳しさを増したかに見えた。
鉄鋼部門に関して言えば、ミッタル・スチール(本社オランダ・ロッテルダム)、アルセロール(ルクセンブルク)、ポスコ(韓国・浦項)、宝山鋼鉄(中国・上海)、新日鉄などが世界の覇権を賭けてしのぎを削る状況が続いた。
しかし、21世紀に入る頃から、そうした状況は一変する。「まず、インドの大富豪ラクシュミー・ミッタル率いるミッタル・スチールがアルセロールを買収することによって、世界市場がそれまでの激烈な競争状態から比較的安定した状態へとシフトしたんです。さらに中国での鉄需要が急増したため、世界的な鉄不足に陥った。その結果、鉄鋼価格が急騰し、経営環境は一挙に好転しました」(浅井氏)
新日鉄自身の世界戦略も良好で、アルセロールとの「技術開発ならびに流通に関するアライアンス」締結などが功を奏し、経営状態は絶好調へと転じたのである。
そうした環境変化を受けて、2006年、新日鉄はエンジニアリング部門を分離独立(子会社化)。「新日鉄エンジニアリング」が誕生した。
ところでエンジニアリングと聞くと、我々部外者は、ともすれば、石油プラントのようなものばかりを連想しがちだ。しかし実際にはエンジニアリング会社はさまざまな建造物を造っている。
例えば「製鉄プラント」「環境プラント(産廃、土壌・地下水浄化など)」「海外石油・天然ガス開発」「エネルギープラント(天然ガス、地熱、風力、バイオマスほか)」「国内海洋鋼構造物/沿岸開発・港湾施設」「パイプライン」「橋りょう・ケーブル」などだ。
日本のエンジニアリング業界としては、専業3社といわれる日揮、千代田化工、東洋エンジニアリングのほかに、IHIや三菱重工、新日鉄エンジニアリングなどの会社が名を連ねている。
浅井氏の担当は、この中の「橋りょう・ケーブル」であり、彼はその海外営業部門の責任者を務めている。分かりやすく言えば、アジアや旧ソ連邦内の発展途上国を主なターゲットにして、ODA関連を中心に、橋の建設工事案件の営業を行う仕事だ。橋りょう業界の主要企業は以下の通りだ。
国内橋りょうは、製品ライフサイクル曲線で言えば衰退期に当たり、国内公共工事の激減や、2006年の橋りょう談合事件などもあって縮小の一途を辿っており、今では、海外橋りょうが橋りょう部門の主力となっている。
浅井氏はこの海外橋りょう部門を、新日鉄の“社内ベンチャー”としてゼロから立ち上げた。その後、海外橋りょう部門は正式な部門として認められ、今は責任者として新日鉄エンジニアリングで年商100億円を叩き出している。
「新日鉄本体が年商3兆円以上、新日鉄エンジニアリングでも年商3000億円ある中での100億円ですから小さなビジネスですよ」と浅井氏は謙遜するが、ただでさえ成功確率の低い社内ベンチャーを自らのリスクテイクでここまで育てた情熱と手腕は並大抵のものではない。新日鉄が誇る社内ベンチャーの伝説的カリスマと呼んで彼を慕う人々がいることもうなずけよう。
新日鉄のような伝統的大企業の中で、この浅井信司氏は、一体どのようにして“社内ベンチャーのカリスマ”と呼ばれるような存在になったのだろうか? その秘密は次回、明らかにしたい。
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