10月に台湾を訪問した際に行った「日本統治時代を訪ねる旅」が、とても興味深く、学びが大きかったので、同様の旅をソウルでも行う事にした。
注.コラム参照:日本統治時代の台湾を巡る旅
~1)台北の風景、
~2)台南・八田ダム・高雄の風景
先ず向かった先が、南山にある朝鮮神社の跡地だ。統治時代の象徴でもある神社跡地を訪問しようと思い、訪ねてみることにした。びっくりしたのは、今そこにあるのは、安重根義士記念館だったことだ。あの伊藤博文を殺害した人の記念館であった。殺害者つまり、「テロリスト」とも称されることがある人を「義士」と呼びヒーロー扱いにし、神社跡地に記念館を建てているのである。最近、建て替えられたと言う通り、モダンな造りであった。南山の高台にあるその地からは、ソウルの街が一望にできた。
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次に向かったのは、ソウル駅だ。東京駅とそっくりのオレンジ色のれんが作りだ。形も似ている。東京駅は、ドームが二つあったが、ソウル駅はドームが一つだ。改築された東京駅に似たドームだが、東京駅の方が横に長い感じだ。「ここから、南は釜山まで、北は満州まで繋がる一大鉄道ネットワークを、日本統治時代に築いた」と韓国人ガイドさんの説明。
そして、市庁舎前だ。日本統治時代は、警視庁があった場所を、今は市役所として使っている。新市役所が後方に建てられたので、移転後は図書館として使われる予定だ。その前の広場で様々なイベントが開かれる。サッカーの韓国代表の応援にも使われている著名な場所でもある。「応援の聖地」とガイドさんは、説明してくれた。
暫くして、ソウルの西方に位置するソウル国立大学の医学部を訪問した。台湾でもそうだったが、日本の統治時代は、先ず医療に力を入れたと言う。疫病等が発生し、衛生状態が悪かったので、日本から先端の医療を導入したのだ。だからか、国立大学の中でも医学部は、台北でもソウルでも比較的街の中心に位置する。
1905年に日本が実質的な統治に乗り出した際に、都心部に1907年に病院が作られた。日本の洋風建築の特徴であるオレンジ色のレンガに白い時計台が映える。だが、日本が建てたとは、どこにも明記されていない。歴史年表を見ると、「過去にあった3つの病院を合併して創った」とのみ記されていた。だが、どう見ても日本の洋風建築だ。今は、医学博物館となったその建物の中に入ってみることにした。展示物の中に初代院長が、藤田嗣章氏と書いてあった。あの画家の藤田嗣治氏の父親であった。
移動中に車の中で、iPadを使い韓国の近代史を必死に調べ学ぶことにした。何度か韓国の歴史を読み、学んだことがあったが、実際に史跡を訪問し、間近に触れ、韓国人ガイドさんに説明を受け、疑問に思ったことを調べてみると、理解が格段に促進される。とても知的に充足されるプロセスだ。
明治維新後、日本が李氏朝鮮と接触するが、鎖国中の朝鮮国は、日本が「天皇」や「勅」と言う言葉を使っていることに抵抗し(清国への配慮もあり)、交渉に応じようとしなかったことを学ぶ。その間、日本は急速に近代化を進め、日清戦争、日露戦争を経て1905年に、平和的な条約に基づき、実質的に日本が韓国の統治を始めたことを知る。それまでの間、朝鮮側とは、殆ど交戦していない。1910年の併合は、あくまでも形式的なもので、併合前に既に初代総統の伊藤博文が就任していたことが理解できた。
併合に向けたプロセスでは、清国、ロシア、米国を含めどの国も反対しなかった。国際法に則った妥当な手続きであったことも理解できた。「侵略」という言葉がこの事例に当てはまるかは、疑問が残るのではと考えてしまった。
西大門刑務所歴史館を訪問する。日本統治時代に、日本が行った悪行が記録されていた。拷問している姿が蝋人形の姿で残されていた。ここには、韓国人の子どもや若者が数多く訪問していた。ああいう残酷なものを小さい頃から見ると、反日的になり「日本人は何て残酷なのだろう」と刷り込まれていくであろう。とても残念な気持ちになる。
この刑務所は、1907年から1987年まで使われていた。つまり、戦後は民主運動家の弾圧に使われたのだと言う。韓国人の手による韓国人への弾圧・拷問の方が、数多かったとさえ伝え聞く。だが、日本のことがクローズアップされている。日本でも同時代に官憲が活動し、日本人左翼主義者を含め数多くの運動家を取り締まった時期があった。そういう時代背景だったのだ。
韓国の史跡を訪問しているが、日本が行った良い事は、かき消され、日本が行った悪い行いが、過度に誇張されている印象を持つ。刑務所も、「日本の悪者」対「韓国の良い独立運動家」の構図だ。日本の統治時代に、朝鮮半島の人口が倍増した。識字率も一桁しかなかったのが、統治時代にほぼ国民皆教育となった。小学校、中学校、高校、そして旧帝国大学まで創った。衛生状態も格段と上がり、鉄道等のネットワークも整備された。近代工業も導入された。もっと良い点が紹介されてもいいのではと思う。
京福宮の近くのサムゲタン専門店で、食前に人参酒を飲みながら、鳥骨と格闘した。あの蝋人形を観たあとでは、あまり食が進まない。
ガイドさんにお願いし、京福宮近くの日本大使館前にある従軍慰安婦の銅像を見せてもらった。大使館に向かってベンチに真っすぐに座っている少女の銅像は服を着せられて、ベンチの上には花束も置かれていた。「あんな銅像は許可が無いと建てられないでしょう」というのが、僕の印象だ。警備が厳しくてすぐに通り過ぎてしまったが、何か嫌な気持ちになってしまった。
そもそも従軍慰安婦を日本軍が強制的に連行された証拠が無く、あくまでも自主的募集によるものだというのが通説だ。貧しさにより家族を代表して稼ぎに行った事例があるかもしれない。だが、あくまでも自主的な応募だ。しかも慰安婦には、日本人女性も数多く含まれており、多額の報酬を得ていたのだ。従軍慰安婦=「高級売春婦」と見なされる場合があるのにも拘わらず、わざわざ日本大使館前にその銅像を立てるとは、趣味が悪いとしか思えない。またまた気分が落ち込んだ。
市内を車で移動した。日本時代の建物としては、東亜日報ビル、そして、韓国電力の本社ビル(旧京城電気ビル)等を見学した。双方ともがっしりとした威厳のある建物である。
韓国銀行の本社ビルの中に入った。昔は、京城銀行があった建物だ。二階まで吹き抜けになっていて、とても気持ちがよい。今は、貨幣金融博物館として活用されている。韓国銀行(旧朝鮮銀行)の中は、白亜の殿堂という雰囲気だ。大理石をふんだんに使い、吹き抜けの大ホールの天井からは大きなシャンデリアが3つもぶら下がっていた。螺旋状の階段を昇り2階へ。2階の廊下は、アーチ型の柱が並んでいた。昔の日本の洋風建築の粋を余すことなく、韓国に持ってきた感じだ。だが、どこにも日本時代の事が書かれていない。
銀行のトイレの前にいたら、目の前をピンク色の服を着たデモの人々が行き来する。労働組合だという。女性のデモ参加者も意外に多い。ピンク色のジャンパーを着た中年女性が、男子トイレに堂々と入り、用を足して出て行った。
旧朝鮮銀行の目の前は、新世界デパートだ。統治時代は、三越デパートだったと言う。ソウルを訪問しているうちに、気がついたのだが、台湾と違い日本時代を肯定しているものは、全くみつからない。日本を褒めているものも殆ど無い。何か面白くないのだ。
韓国人ガイドさんに、「何か面白くない。日本のことは悪く言われ続け、肯定的なものは殆ど消されている」と率直に言ったら、浅川巧氏と柳宗悦氏のことを話してくれた。「今年の春、浅川巧に関する映画があった。それを見に行った」と、韓国人ガイドさん。浅川巧氏は、韓国のハゲ山の植林に尽力した方だと言う。僕は帰り次第、その映画「白磁の人」を見ることを心に決めた。
ツイッターからは、「田内千鶴子さんが生誕100周年です。御参考です」と言う紹介があった。日本人でありながら「韓国孤児の母」と慕われた田内千鶴子さんのサイトを韓国人ガイドさんに見せると 「韓国人のために命を捧げた日本人もいる。そういうのを韓国は、もっと紹介すべきだ」、と。
予定の全ての旅程を14時過ぎには終えてしまった。僕は、「韓国で、日本のことを好きになれる場所は無いのか」と聞いてみたが、ガイドさんが考えあぐねてしまった。あまり思いつかないようだった。日本は韓国に、悪い事をしたのであろうが、戦後を含め良い貢献もしてきたのに、とても残念な気持ちになる。
思案にくれて、結局日本とはあまり関係は無いが、歴史を学ぶ目的で、戦争博物館に向かうことにした。土曜日にもかかわらず、交通渋滞がヒドい。どうしてかと思ったら、デモが多いからだ。街路樹は紅葉で黄色く染まり、青い空の下美しく映えていた。天気は快晴なので、デモ日和でもある。前回はピンクだったが、今度は紺色のデモ隊だ。蛍光色のベストの警察官が車道側を歩き、気持ち良さそうに整然と行進していた。
「国民と共に、歴史を語り継ぎ、感動を伝える戦争記念館」を訪問した。1994年に作られたこの記念館は、とてつもなく大きい。米軍キャンプ場だった場所が半分返還され、記念館を建てたのだ。記念館には主に朝鮮戦争のことが展示されていた。日本は一切出てこない。だが朝鮮戦争のことが学べて、興味深かった。
日本では戦争がタブー視されているので、記念館すらない。だが、韓国では、朝鮮戦争が語られ、参戦した国を「友達」として感謝し、戦死した方々を弔う。唯一日本にあるとしたら靖国神社とその記念館程度であろうか。平和を維持するためには、強い軍事力が必要だ。その認識を持ち続けないとならないと強く思い、その地を離れた。
その後サムスンの創業家が建てた近代美術館を訪問し、ホテルに戻った。あまり気分が晴れないツアーだった。日本がやってきた良い事は殆ど無視され、かき消され、一方では悪い事は、誇張され、喧伝されている。従軍慰安婦に至っては、「性の奴隷」と歪められて認識され、国際問題にしている。もう既に戦後70年近くも経とうと言うのにだ。その韓国政府の姿勢には、台湾を訪問した後だからか余計に強く違和感をおぼえる。台湾では、良い点を肯定的に評価している。八田與一氏の銅像が立てられ、後藤新平・児玉源太郎の銅像も飾られていた。台湾と朝鮮半島とでは、統治手法が違うと言われるが、余りにもその後の違いは歴然としていた。
僕自身、韓国訪問回数は、20回を超えている。友達も多数いるし、個人でも韓国のベンチャー企業にかなりの額を出資していた(グロービス以外で、世界で唯一の投資先企業が韓国にある。個人としては日本企業には一切出資をしていないのだ)。韓国人の友達と歴史問題に関して、何度も腹を割って飲み明かしてきた。日韓で草の根レベルで個人では分かり合えることは、その経験からも明白だ。だが、その分かり合えた点を、彼らはオープンな場では言えないのだと言う。僕が、今回指摘するのは、あくまでも政府の姿勢の問題だ。日本の首相が、韓国を訪問するたびに、過去の行為に関しては謝罪を重ねてきた。韓国政府が反日を煽ることを問題視しているのだ。
この姿勢が、本当に日韓の友好になるのだろうか、疑問に残る。子供達の世代のことを考えたら、韓国政府はもっと日本の貢献を積極的に認めても良いのではないだろうか。その疑問を抱きながら、上海行きの機内でこのコラムを執筆している。フライトアテンダントが、慌ただしく到着準備をしている。僕も、もうそろそろパソコンを閉じることにしよう。
2012年11月4日
ソウルから上海行きの機内にて
堀義人
追記「ソウル訪問に至るまで」
時は11月。翌年4月に福岡にグロービスを開校することが決まり、たびたび福岡を訪問していた。福岡からソウルは、本当にひとっ飛びだ。福岡―東京よりも近い。ソウルの次は、上海に向かう予定だ。今、グロービスのフルタイムの学生を集めるツアーを実施しており、そのMBAツアーに合わせてアジアの各都市を歴訪し、各地でスピーチしているのだ。
アジアの重点10都市のうち、僕がスピーチするのは、5都市。ソウル、上海以外には、香港、シンガポール、クアラルンプール(KL)だ。僕がスピーチ行脚するのは、今年で最後だ。来年からは、他の教員の方々にお願いする予定だ。今年から始まったフルタイムの英語MBAは、とても順調に滑り出しており、僕が行脚しなくても良い学生が集まる見込みが立ってきたからだ。
僕は、11月2日の金曜日の午前中に福岡からソウルに入り、ソウルにあるビジネススクール(経営大学院)を一件訪問し、その晩ソウルで、グロービスのスピーチを実施した。そして翌土曜日の朝9時に、漢河を見下ろす南山に位置するホテルを出て、この「日本統治時代のソウルを訪ねる旅」を始めたのだ。