思いがけず家族旅行することが決まった。
昨年の囲碁団体戦小学校の部で長男、次男、三男の3兄弟チームが日本一となった。その副賞として、全日空より無料航空券をいただいた。3月中旬にふとその券を見たら、「有効期限2010年3月末搭乗」と記載されていた。トマムでのG1サミットに使おうかと思ったが3連休で適用除外日だった。
そこで急遽スケジュールをみると、空いているのが唯一3月26-28日のみであった。どこに行こうかと思案した。北海道には、G1で行く予定だったし、沖縄で泳ぐにはまだ寒い。そこで、結局、愛媛県新居浜市の祖母を訪ねることにした。『坂の上の雲』の松山観光後、道後温泉に泊まり、新居浜に陸路移動し、曾孫5人を祖母に会わせる旅の構想だった。四男、五男の二人は初めての新居浜だ。
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そして、3月26日の朝、皆、朝寝坊したが、幸いにも一つ遅れの便に搭乗することができた。松山空港でレンタカーをして、松山城の麓で昼食をとる。そして、松山城へと徒歩で登った。ロープウェイもあったのだが、食後の運動ということで、神社に参拝した後に、山頂を目指して歩いていった。
松山城の本丸に着いた。40年ぶりの松山城であった。今回も同じ、桜の季節である。僕は、小学生の時に兄、姉と撮った写真の背景にあった桜の木を自然と探していた。樹齢を40年積み重ねると櫻の木も成長する。同様に僕も40年経って、父親となって5人の息子を連れて戻ってきた。そして、40年後には、子供達が成長して、彼らの子供達を連れて来るのであろう。
天守閣から見える景色は、雄大だ。北と西は青の瀬戸内海、東と南は緑の山々だ。東の遠方に白い雪を冠する山が見える。石鎚山だ。明日は、あの山の麓にある新居浜に向かう予定だ。
記念写真を家族で撮ろうと思ったら、五男がいない。勝手に一人で下山したのである。下山ルートがいくつかに分かれていたので、手分けして捜索した。「見つけた」という携帯電話を受けたので、僕は一つの下山ルートを再度登り、五男を見つけたルートに降りていった。五男は、石の上で正座をさせられていた。僕は、五男のほっぺたに、ビンタを2発くらわせた。泣き叫んでも、悪いことは悪いと言い聞かせなければならないのだ。
そして、道後温泉へ。僕は、この地に初めて泊まる。「千と千尋の神隠し」の湯婆婆(ゆばーば)の宿のモデルになった「道後温泉本館」の近くの古い安宿に泊まった。
安宿にチェックインし、大部屋に入る。旅行中に棋力を落とさないようにと、携帯用の囲碁盤を持参していた。宿からもう一つ碁盤を借りて、兄弟4人による囲碁のリーグ戦を始めた。一人最低3局打つことが要求された。
その後5兄弟で、桜咲く公園へ。しばらく遊んだ後、宿に戻り、冷えた体を風呂で暖める。カラオケの舞台が設置された大広間で食事を頂く。食後に5兄弟がステージでマイクを片手にふざけている。
この兄弟のじゃれ合いも、長男が中学に入ると、もう見られなくなるのであろう。卒業式の後に、同級生が同じ気持ちで会うことが無いように、5兄弟がふざけ合っているこの瞬間も、過ぎ去っていく。 そう思うと、その姿を見つめる僕の視線が自ずと強くなる。あたかもビデオを撮っているかのように。
翌朝、朝食の後、4兄弟で囲碁のリーグ戦が始まった。畳の上で正座をしての対局だ。6歳の四男のみが、棋力が劣るのでハンディを得て対局。4歳の五男は、まだリーグ戦に参戦できない。このリーグ戦が終わってから、松山空港に母を迎えに行き、そのまま高速を東に一路新居浜へ向かった。新居浜は、母の実家であり僕の生地でもある場所だ。
山間を貫く高速を走るワゴン車の中は、定員8名がぎっしりとひしめいていた。一つ手前の西条インターチェンジで降りて、讃岐うどんの美味しいチェーン店へ。6人席に8人が座った。相変わらずとても賑やかな食卓だ。讃岐うどんを平らげたあと、相談した結果、祖母に会う前に、「東洋のマチュピチュ」に向かうことにした。
新居浜と言えば、「住友発祥の地」、つまり、別子銅山である。その銅山で栄えた山頂近くの街が、東平(とうなる)である。平地から30分ほど細い山道を車で登る。行きかう車も少なく、不安に思う。標高750Mの山奥に、忽然と現れる廃墟となった炭鉱町。これが、「東洋のマチュピチュ」こと東平だ。
この地に最盛期に5000人が暮らしていたのである。資料館や廃坑跡を1時間半ほどのんびりと散策した。空気は肌寒いが、天気は良い。遊具があり、そこで子供達が思い思いに遊んでいた。「この銅山から精錬が始まり、産業が始まった」と子供達に説明した。長男は中学受験を終えたばかりで、関心が高い。
平地に戻り、祖父のお墓参りをした。祖父が寄付した100本の桜の木が咲き誇っていた。祖父は、僕が19歳の時に他界した。京大の一回生だった僕は頻繁に祖父の病院にお見舞いに来ていた。水戸からは遠いが、京都からは近いからだ。それでもその当時は、宇高連絡船の時代だった。
政治家であった祖父は、市と県会議員を通算7期勤めた。「酒と女癖さえなければ国政に出られてもっと大成した」とよく言われる。祖母や母は、「お前も遺伝子を引き継いでいるから気をつけなさい」と、事あるごとに僕に忠告する。
祖父の墓地を後にして、祖母の病院に向かった。祖父が入院していたのと同じ病院だ。97歳となった祖母がちょこんと病室のベッドに寝転がっていた。僕らが行くと嬉しそうに起き上がった。
僕にとっては、生まれてからずっと世話になってきた祖母だが、子供達にとっては、「皺くちゃで染みだらけの病気のお婆ちゃん」、なのであろう。四男、五男にとっては、まさに初めて見る曾祖母だ。どことなく引いている感じがしたが、僕とか母が親しげに話しているのを聞き、少しは親近感を持ち始めているようだった。皆で祖母とともに写真を撮り、病室を後にした。
夕方であったが、新居浜という地方都市を堪能することにした。都会に無くて地方都市にあるもの。それは、先ずはモールである。お買い物をして、アイスを食べて、本屋さんに行って、夕食をとる。ホテルにチェックインしてすぐに、スーパー銭湯に向かった。これも都会には無い。子供達は、思いっきり堪能していた。
翌朝、朝食後、祖母の病室へ向かった。別れを告げるのが辛いが、「長生きしてね」、と明るく新居浜の病室を出る。僕は、この新居浜の地には、小さい頃から春、夏、冬と休みの度に来ていた。幼少の頃は列車・船を乗り継いで17時間かけてきたが、今や岡山乗り換えで一本である。高速も出来て空路松山からも便利だ。 便利になったが、その分忙しくなり、来る回数が減ってきた。
だが、子供達を可能な限りこの地に連れてきたいと思っている。僕には、東海村・水戸市という故郷があり、新居浜という生地がある。子供達は、東京生まれの東京育ちだ。祖母が生きている間にふるさとの香りがする場所に、連れてきたいものだ。祖母も喜んでくれるし、一石二鳥だ。
ワゴン車は、来た道を松山に戻る。松山では、『坂の上の雲』見学ツアーである。子供達と一緒に、昨年末テレビにかじり付きながら『坂の上の雲』のドラマを見ていた。先ずは、秋山兄弟の生誕地訪問だ。松山では、「5兄弟ですか?」とよく声をかけられる。どうしてかと不思議に思ったのだが、秋山兄弟も5兄弟だからだ、と後でわかった。
秋山好古は三男で、真之は五男だ。我が5兄弟も日本のため、世界のために貢献して欲しい。そのための教育だ。この家族旅行も堀家の修学旅行みたいなものだ。大街道で釜飯を食して、明治の洋館の萬翠(ばんすい)荘と、正岡子規と夏目漱石が居候した愚陀仏(ぐだぶつ)庵を訪問。天気も良く、桜が美しい。家族で何枚か写真を撮る。
そして、「坂の上の雲ミュージアム」を訪問した。安藤忠雄氏の特徴あるコンクリート打ちっぱなしの建物が、松山城の麓に立地することから、松山市民の秋山兄弟に対する誇りを感じ取ることができる。司馬遼太郎氏の世界が広がるそのミュージアムを回ると、明治時代の日本の気概を感じるとることができた。
松山から上京した秋山兄弟と正岡子規。その年表を辿る僕。子供達も子供達なりに、楽しんでいた。ドラマの影響は甚大だ。普段は、興味を示さないが、ドラマのお陰で、関心が高い。そのミュージアムは、坂のような階段を上りながら展示室を回れる仕組みになっていた。最上階に昇る。
大きなガラスの窓から松山城の緑の坂(山)が見える。ところどころに桜のピンク。青い空をバックに、坂の上に白い雲がたなびいていた。僕は、その美しい光景にしばらく見とれていた。まさに坂の上の雲だ。今の時代でも、昔の気持ちと同じように、坂の上の雲を追い求めることは可能であろう。
子供達にせかされるように、ミュージアムを後にした。「坂の上の雲」を堀5兄弟にも追いかけて欲しいと思いながら。
そして来た道を逆に戻った。松山空港でレンタカーを返して、飛行機に搭乗し、羽田経由で帰宅した。今回の家族旅行は、長男・次男・三男の囲碁団体戦日本一の副賞により実現したものだ。だが、今年はメンバーが代わる。長男が小学校を卒業する代わりに四男が入学だ。次男・三男・四男の新3兄弟で、日本一連覇なるかが、今年の我が家の一大関心事だ。3人には、旅中、何度か「来年も是非行こうね。優勝期待しているよ」とさりげなくプレシャーをかけていた。
帰宅後、ドラマ「龍馬伝」を見た後に、僕の誕生会が開かれた。年男の48歳、気力ますます充実だ。
2010年3月28日
ツイッターのつぶやきに加筆修正して執筆
堀義人