上野駅からスーパーひたちに乗車し、東京から水戸に戻る。久慈川を越えると田園風景が続く。一時間ほど揺られると、車内でアナウンスが鳴り響き、最初の到着駅である水戸駅に近づく。
窓の外を見る。右手に桜山の緑が映り、左手に偕楽園の白い標識と緑の崖が目に飛び込む。そして右の車窓一面に千波湖の静かな青い水が、ゆったりと横たわっているのが見える。その湖の奥に緑の高台があり、僕が高校まで過ごした自宅の屋根を思わず探してしまう。右左とキョロキョロしている間にスーパーひたちは、ゆっくりと水戸駅に滑りこんでいった。この車窓から見える風景は、何度見てもワクワクするものである。
個人的偏見ではあるが、水戸市は地方都市の中で、最も美しい街の一つだと思っている。歴史的面白みは豊富にあるし、文化的価値も高い。日本三大藩校の弘道館、日本三大名園の偕楽園。おまけに、名古屋、仙台の大都市に並び日本三大ブスにも任命されているほどの存在感だ。(笑)
僕は、小学校6年の時に東海村から引っ越して来た時から、高校卒業までこの地で過ごした。期間にすると7年弱と短いが、人生で最も多感な時期を過ごしたので、僕にとっては掛け替えのない思い出の地となっている。大学時代に父親の転勤があり、自宅をそのまま水戸に残したまま、両親が東京に移った。その日から、僕が水戸に帰る機会が、滅法少なくなってしまったのだ。
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京都の大学を出て、東京で商社に勤め、ボストンに留学をして、起業をした。遊びに、仕事に、学びに全力投球をしてきたので、その間、水戸に帰る機会があまり無かった。子供を連れた二人旅に水戸に来るのと(コラム:「嬉しかったこと(子供編)」、「四男との父子二人旅」参照)、頼まれてスピーチをする目的以外には、来なくなってしまった。
だからこそ、逆に水戸への思いが強くなっていった。僕は、水戸に帰るたびに、史跡や美術館・歴史館などを、観光客の様に訪問し、水戸の歴史と水戸学を勉強した。今回も、肌寒い雨の中、徳川光圀公が、隠居して『大日本史』を編纂した「西山荘」と、水戸徳川家の代々のお墓がある瑞竜山を訪問することにしたのだ。吉田松陰も訪問したと言う西山荘は、日本の美徳である質素・倹約を体現するものであった。
水戸には、徳川光圀公による『大日本史』編纂事業から始まる水戸学の系譜がある。その水戸学の延長線上に、尊王攘夷の思想が生まれ、桜田門外の変、そして明治維新へと繋がるのだ。
僕は、30歳を前に起業した後に、世界を舞台にして飛び回り、欧米のファンドと合弁をつくり、海外投資家を訪問し、ダボス会議等にも参加した。世界の要人と対峙する度に、自分のアイデンティティの重要性を認識する。世界次元で活躍しようと思えば思うほど、国際感覚や英語以上に、自らの思想の基盤となる哲学やアイデンティティが重要になることを痛感していた。逆説的ではあるが、世界に旅立つためには、日本人であることを強く意識するのだ。日本そして、最後に到達するのは、自らの故郷の思想や原風景なのだ。そして、自分は何者で、何をするために生まれてきたのか、を問い続けるのだ。
僕の人生において、水戸の思想は、僕の思想と行動のバックボーンとなるものになった。次の文章は、拙書『創造と変革の志士達へ』の「はじめに」を加筆修正したものである。
「通った小学校は、水戸城の三の丸に位置する三の丸小学校である。水戸藩の藩校である弘道館が建てられていた跡地に位置する。かの藤田東湖が、徳川斉昭公に命ぜられて創り、最後の将軍となった徳川慶喜公が学んだという藩校である。
通った中学は、水戸城の二の丸に位置する水戸二中である。徳川光圀公が水戸にて『大日本史』を編纂した場所である。つまり、幕末の尊王攘夷の思想に繋がる、水戸学の発祥の地でもあるのだ。
そして、通った高校が、水戸城の本丸に位置する水戸一高である。天狗党の乱では、天狗党がこの水戸城を攻めあぐねたことにより、茨城県の北西に位置する大子(だいご)から京都に向かい、最終的には敦賀の鰊蔵に閉じ込められて、最期を遂げたのである。僕は、その水戸学の発祥の地の空気を吸いながら、育ったことになる。
水戸は、桜田門外の変や水戸学を通して明治維新の骨格となる思想を作る先駆けとなりながら、江戸に地理的に近すぎた不利と、最後の将軍を水戸から輩出していたという事実も手伝い、維新を自らの手では成し遂げられなかったのである。水戸の思想や意思は、薩摩、長州や土佐の志士に伝播することになる。
吉田松陰は、水戸の地に遊学してその思想に触れ、日本をおおいに憂いて、長州に帰国後松下村塾を作った。松陰は、その松下村塾を通して、「勤皇の志士」を育成し、明治維新を成し遂げ、日本の近代化に寄与したのである」。
僕は、水戸への故郷を再発見する心の旅を重ねるたびに、水戸の先人達が持っていた気概や志に負けないで生きていきたいと、いつしか強く思うようになっていた。
一方、水戸は、過去の文化遺産や歴史のみでは発展はしない。モータリゼーションの波を受けて、街中の目抜き通りは閑散とし、街からは活気が奪われていった。ジャスコ、ダイエー、西武、伊勢甚などの大手デパートやスーパーがのきなみ撤退していった。その跡地は、空き地か幽霊ビルとなっていた。歩行者も減っていた。街のど真ん中がこの様である。この悪循環は、市役所、そして県庁の移転にも起因すると思う。悪政による自業自得の面もあると思っている。
今回の水戸の訪問は、弱冠32歳の市議である川崎アツシ氏(以後親しみを込めて敬称を省く)を応援するためのものだ。彼を来年4月の市長選で立候補させ、市長に当選させるために来たのだ。これから水戸は変わらなければならない。そのためにも、一切しがらみや癒着の無い、若い市長が必要だと思い、彼を市長に出馬するようにけしかけ、応援に来た次第だ。
川崎アツシとの出会いは、水戸選出の現衆議院議員である福島のぶゆき氏の応援演説に2,3度来水した際の送り迎えの車の中だった。毎回、水戸駅に車で迎えに来ていたので、親しくなり、ついつい「おまえが市長になれ、可能性を信じよ、起業家精神だ」とけしかけてしまっていたのだ。衆議院選挙もとっくの昔に終わり、僕はそのことを忘れかけていたのだが、2カ月ほど前に、川崎アツシから連絡が入り、来年4月の市長選が近づいてきたとの報告を受けた。
僕は、けしかけた手前、応援に行くよと即答で伝え、今回の水戸訪問となった次第だ。弱冠32歳のアツシが出馬できるかどかは不明だが、千葉市長は彼と同い年だ。千葉の方が、水戸よりも圧倒的に規模が大きい。千葉にできることは、水戸にもできるはずだ。アツシは、高校の後輩で、大学も京都だ。何とかしてあげたい。
本日のスピーチのテーマは、「水戸の可能性と戦略」である。雨の中、西山荘を訪問した後に、水戸駅まで迎えの車が来た。今度は、川崎アツシ本人ではなく、彼のボランティアスタッフだ。会場である水戸市民会館にすぐに着いた。雨の中にも拘わらず、予想を大幅に上回る200名近くの市民が、その場に結集していた。俄然やる気が出てきた。
僕のスピーチの根幹は、「戦略」だった。「戦略とは、何か? それは、捨てることである。それと同時に、選ぶことだ。あれも、これも、それも、どれもでは戦略にならない。水戸市長となり、一つしか政策を選べなかったら何をするか? 改善レベルでなく、劇的な改革をするとしたら何をするのか?」、これがスピーチの題目であった。
僕は、題目をもらってからずっと考えていた。「何が一番良い政策なのか?」。そして、川崎アツシとのディスカッションの中で生まれてきた一つのアイディアを想起し、膨らませた。あの水戸の中心街を復興すべきだと思った。中心が寂れているとどんな組織も活気が生まれない。たとえ周辺が流行っても、ど真ん中が廃れていると、都市の活気は生まれないものだ。水戸は、台地に位置し、一本の目抜き通りが通っている。そこに路面電車を敷き、歩行者天国にして、毎日が「黄門祭り」の盛況をつくろうという提案だ。通りを「黄門通り」と名付けたらもっと集客できそうだ。
「楽市楽座」の様に、ドン・キホーテからユニクロまで外部からありとあらゆる店舗を誘致し、一方では可能性を信じる起業家が小さな店舗を開店できるようにするのだ。市街地で買い物する人には、何らかのインセンティブを与えるべきだ。駐車場を完備させて、人を集めるのだ。当然、市役所を街中に再度移設し、芸術館や学校などを有機的に結合させるのだ。この一点に全ての資源を集中する。当然そのためには、お金が必要だ。その財源は、「捨てること」によって生み出すのだ。つまり、二宮尊徳翁の精神にのっとり、金銭的下付を与えている政策を減らすことによって生み出すのだ(コラム:「格差社会?〜二宮尊徳翁の精神から何を学ぶのか」)を参照)。
皆で多少の我慢をして、将来の水戸の繁栄に活かそうという発想だ。これは、夢があるし、現実味がある話だ。これを川崎アツシとともに、やり抜こうと言う戦略なのだ。
スピーチで僕が指摘したもう一つの点は、「水戸は、優秀な人間が戻ってこない」、だ。水戸を離れて大学に行くと、過半数の優秀な人材は、もう水戸に戻ってこないのだ。無理も無い、地元には、先生、県庁、地銀以外は、日立と原子力しか知的雇用の受け皿がないからだ。
一方では、それは悪いことではない。中国から飛び出した華僑が、中国の復興に寄与したように、水戸を出た人材のネットワークを活用できるはずだ。僕は、それを「水僑」(華僑をもじった命名)と呼び、水戸の発展に活かそうと考えた次第だ。「酔狂」と響きが一緒なので、面白い。
先ずはできることからやろう、ということで、「水僑(酔狂?)の会」を創り、ふるさと納税を勧めることから行いたい。ふるさと納税でうまくいけば4,5億円程度収入が増えるかもしれない。一方、出し手の水僑は一切損をしない。税金を取られる額は一緒だからだ。どうせ税金を払うならば、東京よりも水戸に納税しようと思う人が圧倒的に多いのは、当然であろう。
その「水僑の会」の初代会長を僕がリーダーシップをとってやろうかと思う。そして、その水僑のネットワークを、水戸復興のパワーに活かそうという魂胆だ。
これで、水戸復興の青写真ができた。200名の参加者も夢を持って、帰られたと思う。あとは、川崎アツシに立候補して、市長になってもらうことだ。これから4月まで、水戸に帰る機会が増えることになろう。
その会合に、橘川栄作という僕の高校の同級生が来ていた。彼は、僕と同様、高校時代に相当「やんちゃ」だったのだが、大学卒業後に母校水戸一高の先生になった。「おいおい、あいつが先生かよ」、という印象だ。そして、県の教育委員会に入り、今や知事の企画室で活躍しているのだ。その橘川が何と、一地方公務員のブンザイで、映画『桜田門外ノ変』を企画、プロデュースしたのだ。
その『桜田門外ノ変』は、今上映中なので、是非とも観て欲しい。僕も実は、水戸訪問に向けて、事前予習をしようと思い、多忙な日々を縫って、映画を観てきた一人だ。井伊直弼大老の専横政治に立ち向かう18人の桜田烈士達。西郷隆盛の3000人上京の約束が実行されずに見捨てられる水戸浪士、そしてその行く末は如何に。桜田門外の変がもたらす歴史的意味とは何か。明治維新の先駆けとして散っていった水戸の志士達。彼らの意志は、結局「辺境」の地である薩摩、長州、土佐によって実現する。
一公務員がこの映画を企画したかと思うと、笑えてしまう。それこそ「可能性を信じる」の起業家精神だ。実際、映画の最後の字幕には、「企画」として橘川栄作の名前が出て来ている。更に、俳優として出演までしているのだ。こういう志は、大好きだ。スピーチの後に、皆で飲みに行き、水戸出身の俳優である渡辺裕之氏(映画『桜田門外ノ変』にも出演)に電話して盛り上がった。
たまには郷土愛もいいことだ。ついつい夜中の3時まで水戸の街中で飲み明かしてしまった、水僑が水戸で散在するのは、いいことだ。最後は、言葉も茨城弁に戻り、本当の意味での「酔狂」となった次第だ。
2010年10月31日
伊豆の旅館にて執筆
堀義人