先週、G1カレッジのアルムナイ(卒業生)との会合を夜9時に終えてから、羽田空港へ直行した。行先はシドニー。翌朝到着して12時間滞在したのち、夜行便で帰って来る強行日程だ。とてもハードだけど、どうしても行かなければならない、行きたい用事ができてしまったのだ。
僕は、高校2年を終えた17歳のとき(40年前!)、シドニーに留学した。ロータリークラブの交換留学生として、この地に1年間住み、ホームステイして、徹底的に英語を学び、新たな文化を吸収した。
僕が過ごした場所は、シドニー北西の郊外だ。通った高校は、シドニー湾西端のパラマタの北に位置するカーリングフォードのカンバランド公立高校。ホストファミリーは3家族いて、4ヶ月ごとに交代した。当時は1ドル360円時代。オーストラリア全体の人口が約1400万人で、現在の東京都と同程度だった。今や1ドル100円未満で人口は倍増だ。
英語は、喋れなかったがなんとかついていった。勉強もそれほど難しくなった。数学の全豪共通試験では、計算機を持ち込まず(持ち込み可とは知らなかった)、辞書を引きながらも全豪で17位になって表彰された。
スポーツも活発に楽しんだ。高校のクラブはシーズン制で水球、バスケ、ラグビー(リーグ)を楽しんだ。ラグビー(ユニオン)の地域クラブチームにも入った。これが本当にタフだったけど、楽しかった。なぜだかこの体型でスクラムの最前列のプロップをやらされ、必死になってスクラムを組み、戦い続けたのが良い思い出だ。
もちろん、大変なこともあった。特に苦労したのが、ホストファミリーとの関係だ。見も知らずの人を「Mum」「Dad」と呼ぶのである。最初のホストファミリーは子供が小さかったので子守りをしている感じだった。2番目のホストファミリーは、逆に子供が大きくて既に2人とも家を出ていたので、老夫婦水入らずを邪魔している感じだった。
だが、3番目にホームステイしたホストファミリーは僕の両親と同世代(若干若い)だが、子供がいなかったこともあり、僕のことを実の子供のように可愛がってくれた。ホームステイした4ヶ月間は、本当に楽しかった。最後は数多くの友達が豪州の両親とともに、空港まで見送りにきてくれた。別れるのが辛くて、泣きじゃくったことをよく覚えている。
この17歳の1年間の留学が、3つの点で僕を成長させてくれた。
1つ目が、英語が流暢になったことだ。1年間を通して日本語をほとんど使わなかったこともあり、英語で考え、英語で夢を見るまでになっていた。
2つ目が、異文化コミュニケーション能力が高くなったことだ。留学前に「文化に良し悪しは無い。ただ違いがあるだけだ」と叩き込まれてきた。その教えが幸いしてか、「日本が良い、豪州が良い」ではなく、ただ違う文化をそのまま受け入れ、異文化への許容度を高めることができた。その後もどんな異文化との遭遇においてもさほど驚かなくなり、適応できるようになってきた。
3つ目が、国際的な視野と日本人としてのアイデンティティが醸成されたことだ。日本から世界を見る視点から豪州から世界を見る複眼的な視点を得るとともに、他国から日本をみることにより日本を客観視する国際的な視野を手に入れた。また、日本のことを質問される機会も多かったので、「日本(人)とは」を理解し説明する必要が生じ、自らのアイデンティティが明確になった。
その3点以上に実は大きかったのが、僕の人生観が変わったことだ。「人生は楽しむものだ」ということを、オージー(豪州人)のライフスタイルを謳歌することから体感した。僕のお別れパーティを高校の友人が企画して、みんなでビーチサイドに車で向かい、水着姿でBBQしながら、楽しんだことは忘れられない。高校の地学の授業で泊まり込みでビーチキャンプをして、休み時間に女子生徒がトップレスになってビーチで寝ころんで会話をしたことも強烈なイメージとして残っている。
帰国後に僕は高校3年生に戻り、大学受験を経て京大入学、住友商事入社、ハーバードMBA取得、そしてグロービス起業へと人生を徹底的に楽しみながら、突っ走った。
豪州の両親とは、帰国後も日本で一緒に旅行したり、オーストラリアで会ったりした。僕が結婚して、子供が生まれたら、子供たちを孫のように可愛がってくれた。彼らは日本に4回ほど来てくれて、僕も5回ぐらい豪州に訪問した。彼らが最後に日本に来たのが2007年で、僕がシドニーで最後に両親に会ったのが、2013年ごろのことだった。
今回シドニーに来た理由は、そのホストマザー(Mum)が亡くなり葬式が行われるからだ。数日前に逝去の連絡があり、悩んだ末に葬式当日の20日のスケジュールを全てキャンセルして、参列することにした。そして、冒頭の19日の夜のシーンへと繋がることになった。
20日の朝にシドニー空港に着き、葬儀場でホストファーザー(Dad)に再会した時は、涙しながら抱き合った。葬式ではDadの隣の席に座ることになった。
葬儀を終えて、ホームステイしていた自宅に戻った。自宅は、僕がホームステイしていた当時とほとんど変わらなかった。僕の部屋やリビングには、思い出の写真がたくさん貼られていた。
親しい友人も交えて2時間ほど語り合い、いよいよ出発の時間となった。「来てくれてありがとう」と何度も言われた。Dadはガンの手術を3回も行ってきた。口は半分動かなくなり、歩くのもゆっくりである。「もう二度と会えないかもしれない」という覚悟で、今回は来ていたのだ。でも、可能な限り笑顔で帰ろうと決めていた。
Epping駅からシドニーCentral駅経由で、シドニー空港に戻った時にはもうすでに周りは暗くなっていた。20時50分発の夜行便が飛び立った。シドニー滞在時間は10時間弱だったが、とても充実していた。40年という時間がタイムスリップしたような不思議な感覚だった。
Mum, rest in peace.
Dad, be well, live long.
2019年8月25日
一番町の自宅にて
堀義人