ボストンのチャールズ川沿いにタクシーが走る。川沿いの公園の緑、水面に映える青、そして向こう岸に見えるMITのクリーム色のドーム。暫くすると右手にハーバード大学の水色や黄緑色の塔が目に入り、左手に美しいハーバード経営大学院(HBS)のレンガ色のキャンパスが、飛び込んでくる。
学生時代に見慣れたこの光景を、僕は3年間にわたり、毎年3回経験することになった。そして、今回がその任務の最後の時となった。
4年ほど前のことである。新生銀行のティエリー・ポルテ氏(現社長)と昼食をした際に、「HBSの卒業生理事会の理事にならないか?」と薦められた。理事には、日本からは、ポルテ氏以外は、キッコーマンの茂木賢三郎氏(副会長)が勤めるなどごく少数の卒業生しかいない。
別の機会に、僕がとても尊敬するマレーシアの経営者であるアーナンダ・クリシナム氏(かの有名なペトロナスツインタワーの元オーナーでもある)と面談した際に、理事経験者である彼からも、理事就任を強く薦められた。
そこで、僕も、引き受ける意思を強くして、理事に立候補することにした。早速必要な書類を取り寄せて、記入して送付した。数カ月後に電話による面談があり、最終的に2005年より、理事に就任することになった。理事の任期は3年間で、毎年3回ボストンに訪問し、各回3日間滞在する必要があった。しかも、旅費・交通費は、全て理事側負担であった。かなりのコミットメントである。
僕が、この理事に就任することを決めたのは、栄誉を得たいからではない。当然、HBSに貢献したいという気持ちがあったが、それよりも何よりも、HBSの経営というものを学びたかったからだ。
「世界最高峰のビジネス・スクールであるHBSは、どのように運営されているのであろうか。戦略や組織はどうか。成功の秘密は何か。課題は無いのか。」など、興味がつきないものである。
何よりも、僕は、HBSのベスト・プラクティスから学びたかったのだ。「アジアNo.1のビジネス・スクールを目指す」と広告でも宣言しているとおり、僕のライフ・ワークとして、アジアNo.1の大学院をつくりたいと思っている。そのためには、HBSの理事となって、経営を垣間見れることは、滅多に来ないチャンスであろうと思えた。
年に3回の訪米は、決して少なくは無かった。ただ、その機会に投資家にも会えるし、NYではパートナーのアラン・パトリコフ氏にも会えることができるので、決して無駄ではなかろうと思っていた。
負荷が重いので、グロービスの取締役会にも是非を審議をしてもらった。取締役会の判断は、「会社の経費負担で業務として出張せよ。その代わり多くを吸収するように」、ということであった。なおさら、会社に貢献しないとならないと、力が入った。
こうして、毎年3回の母校巡礼の旅が始まった。
卒業生理事会は、45名で組成されていた。毎年12名選抜されるので、任期3年で36名となる。退任する12人の理事の中から毎年任期2年で2名副会長が選ばれる。これが8名、計44名。そして、その中から任期2年で会長が選ばれるのである。それで45名となる。
この理事会の目的は、こう記載されていた。「HBSの学長や教職員に対して卒業生の関心事を伝えることと、卒業生にHBSの活動内容を伝えることである」。つまり、卒業生と大学との架け橋となる役割なのである。
つまり、理事会とは言っても、経営に関してガバナンスを発揮するわけではなく、あくまでも、HBSが良くなるために、卒業生として貢献する、と言うものであった。
僕は、この点に多少拍子抜けした。取締役会のようなガバナンス機能を期待していたが、どちらかというと、卒業生とのリエゾン・代表として、どうすればHBSが更に良くなるかを提言する形での運営をされていた。理事達は、「Working Board」という表現を誇らしげに使っていた。つまり、理事なんだけど、メチャクチャ働くのである。
毎年、この45名が3つの委員会に分かれて、更に分科会を組成して、コンサルタント集団のように、卒業生の意見を集約させて、文字通り提言するのである。電話会議を何回設定させられたかはわからない。真夜中になることが多かった。そして、最終的にその期の終わりに、プレゼンをするのである。これを3年間繰り返した。
偉そうに理事会に座って報告を受けて、意見を申し上げる、という形では全く無いのである。ただし、当然、HBSの学長やエグゼクティブ・プログラムのヘッドなどから、HBSの現況に関して報告を受けることがある。その際に質問をしたり、意見を具申することもあるが、あくまでも意思決定に関与しているわけではないのである。
この卒業生理事会は、毎年10月、1月、そして5月末に開催されていた。新緑の初夏、葉っぱが色づく秋、そして雪で真っ白に変身する冬である。3年間通い続けた印象は、次の一言に集約される。
「何と凄い大学院だ」、である。
「凄い」という形容詞をつけた理由は、以下の3つが明らかにほかの大学機関と違うのである。
(1)徹底した実践学問志向
あえて「実学」という言葉を使わないことにした。徹底的に実践的であることを目指しているのである。
(2)教育重視の思想
ケースメソッドを通しての教育を重視する思想がある。
(3)大学院経営のベスト・プラクティス志向である
つまり、教えていることを自らの経営の現場でしっかりと実践しているのである。
大学というのは、往々にして、教授会を中心として運営されてしまうので、教授がしたい研究を自由に行い、その片手間で学生に教える、という考え方が横行してしまいがちである。つまり、「教授の本分は研究である」、という考え方である。事実、米国のトップのビジネス・スクールでさえ、その考えに支配されている学校もあると言う。
しかし、HBSは明らかに違うポリシーで動いていた。あくまでも、ケースメソッドの教育にこだわり、研究も実業界にインパクトがあるものか、ティーチングに役立つ内容にフォーカスするように指導されていた。
ある副学長が教えてくれた、「ファイナンスのクラスで、資本コストの計算を下5桁まで行うよう教えるが、実際の世界では、そんなことをやっている会社などは存在しない。研究ばかりに意識が向くと、実業界で関係無い事を教えることになってしまうものだ」、と。
HBSでは、現場との距離感を徹底的に縮めて、経営者として必要なもののみを教えることに徹している。研究は、その経営者教育の質を高めるために行うのが、HBSの思想であった。当然、その考え方だと博士課程を出たばかりの若手の教員は、不安になる。なぜならば、HBS以外の学問の世界では、未だに学術論文をどれだけジャーナル(学術誌)に投稿したかが重要になるからである。一方、HBSは、「そんなことは、有用でない」と言い切っているのだ。
この徹底した思想そのものが、「凄い」のである。
よく考えてみると、「凄い」んだけど、「当たり前」のことでもある気がする。
僕のように実業界から大学のアカデミックな世界に入ると、大学の世界には、不思議なことが多いように感じる。上述の研究論文最重視の思想などは、その最たるものである。教授が当たり前と感じることと、世間が当たり前と感じることにギャップがあるのである。
HBSでは、実業界との距離を徹底的に縮めることによって、その実業界の「当たり前」の考え方を「当たり前」に実践しているのである。
「逆にそんな意味の無い研究に時間を使うならば、卒業生と交流したり、現場に入り込んで新しい世界で何が起っているかに触れて新しい理論、ケースや教材を作成しよう。そして教育の現場で良いリーダーを育てようではないか」、と言い続けているのである。
ビジネス・スクールとは、経営学を教える学校ではなくて、「経営者を育成する機関」である。その思想が強くHBSの中にDNAとして根付いていた。
こればかりではない、基金の額も半端ではない。HBSだけでも3000億円の基金が集まっているのである。これを平均10%以上高い利回りで運用しているのである。それだけで、年間300億円近い収入である。凄い。
更に卒業生の質も凄い。質ばかりでなくて、そのロイヤルティの高さも凄いのである。卒業生ネットワークの強さ、そしてそれを維持しようとするHBSの姿勢も凄い。これは、セクション制という独自な制度にこだわっていることによって生まれるものでもある。
また、職員の有能さと動機付けの高さ。教職員は、事実上終身雇用のように運営されていた。まさに「コミュニティ経営」である。キャンパスの美しさも半端ではない。
意思決定メカニズムも、迅速に動けるようにと、学長を中心とした会社運営のような組織設計となっていた。一般的な大学の「教授会自治」とは、全く別の思想であった。
ブランド・マーケティング、組織、ファイナンス、カスタマー・リレーション、プロダクト・ラインにわたるまで、経営のベストプラクティスが活用されている。つまり、細部にまで、その「凄さ」が光っているのである。これでは、他のビジネス・スクールはおそらく追いつけないであろう、と痛感した。
グロービスは、アジアNo.1を目指している。「なぜ世界No.1を目指さないのですか?」と実は、よく質問を受けるのである。そのときに、必ず応えるのが、「HBSが凄すぎて、そこには僕の代では到底到達できないからだ。僕の子供達、孫達の時代には世界No.1にはなれるかもしれないけどね」、と。
ただ、アジアには、HBSのような思想で運営されているところが見当たらない。グロービスが、地道に一歩一歩、歩んで行けば、必ずアジアNo.1の大学院になれると信じている。
僕にとって、この3年間の卒業生理事の任期の期間はとても有意義であった。なぜならば、僕らがやってきた考え方をそのまま実践すればいいのだと確信を持てたからであった。逆に、大学院になり、学校法人になったからと言って、僕らの考えややり方を変えてはいけないのだ、と強く思いようになった。良さを失ってはならないのだ。グロービスの良さを延長していけば、HBSのようになれるとも思えてきていた。
最後のお別れのスピーチで、僕は、以下を語った。
「僕は、理事として貢献するよりも、多くのことを逆に教えてもらった。HBSの凄さも痛感することができた。特に印象的だったのは、職員の皆さまの有能さと献身的な姿勢であった」。
「卒業生理事の皆さまと会えて親しくなったことは、僕の財産でもある。先ずは本年10月の100周年記念イベントで会いましょう。そして、今後ともHBSの卒業生向けコンファレンスで会い続けましょう」、と。
HBSは、今年で100周年を迎える。10月には、2000人近くを集めたイベントが開催される予定である。とても栄誉なことに、その100周年イベントでは、僕がスピーカーとして名が連ねられていたのだ。次にHBSに来るのは、10月であった。
飛行機は、ボストンのローガン空港を飛び立ち、デトロイト経由で関空に向かった。大阪に着く翌日の日曜日には、グロービス経営大学院大阪校で卒業式が開催される予定である。僕は、アカデミック・ガウンに身を包んで、学長として登壇する予定である。
僕は、学長として、2年次の必修科目である「企業家リーダーシップ」を教えているので、全学生とクラスで触れる機会を持っている。従い、卒業する人、それぞれの顔や性格も理解できていた。
卒業式は、「創造と変革の志士」たちの旅立ちの日でもある。グロービスにおいては、「自らの使命」というものを考える機会が与えられ、高い倫理観と志を持って生きていくことが期待されていた。学長として多いに動機付けするスピーチをしたいと思う。
こうして、HBSの卒業生理事としての役割を終えた。これからは、グロービスをアジアNo.1に持っていくための実践の場が待っている。
本年4月には、学校法人化された。ジョン・C・ベック博士という有能な研究科長もジョインされ、いよいよ2009年4月よりは、全科目英語で教えるインターナショナルMBAもスタートする。
そう遠くない将来には、アジアのトップスクールとしての評価をグロービスが得ているのであろう。僕は、確実にその日が近づいているのを実感できていた。
2008年5月31日
関空に向かう機内で執筆
堀義人
注記:グロービスにも卒業生理事会(アルムナイ・ボード)があります。グロービス経営大学院が2008年4月1日より学校法人化されたことを機に、このアルムナイ・ボードを発展的に解消して、評議員会に組み入れることにしました。当面、評議員会にて運営した後に、卒業生の声が経営に伝わっていないようであるならば、再度アルムナイ・ボードを組成することも検討する予定です。