二週間ぶりに家族との再会である。ドアを開けるなり、子供たちが抱きついてきた。しばらくの間、体を触れ合いながら、再会を楽しんだ。
僕は、二週間の出張中に、大連、東京、シンガポールから、毎日の様にパースの自宅に電話してきた。それだけ、異文化の中で過ごす子供たちが気になっていたのである。
しかし、心配は無用であった。僕が不在の間、子供たちは持ち前の逞しさを発揮して、確実に成長していたのだ。
長男は、友達の家に、二度ほど「お呼ばれ」していた。一回目は、平日の放課後に遊びに行った。言葉が喋れないのに、友達ができ、しかも「お呼ばれ」される仲になったのだ。それだけでも褒めてあげたい気持ちになる。
二回目のお呼ばれでは、何と友達の家に「お泊り」していたのである。お泊まりなんてのは、当然初めての経験である。しかし、どうやってコミュニケーションをしていたのであろうか。どこで寝たのだろうか。朝ごはんはどうだったのだろうか。いずれにせよ、とても貴重な体験であったことは確かである。
一方、次男は、友達家族から週末BBQのお誘いを受けていた。キングス・パークというパース市の真中にある美しい公園でのBBQだ。
三男は三男で、やはりお友達にお呼ばれしていたのである。お呼ばれしていた当日に僕はパースに帰ってきてたので、一緒に三男の友達の家に向かった。子供たちが遊んでいるのを観察していると、喋れないなりに、フットボールをしたり、 サッカーをして楽しんでいた。みな異文化、異言語の壁を越えて、コミュニケーションをしていたのだ。
幼稚園に通っていた四男も、しっかりやるべきことをしていた。四男が幼稚園に通い始めて間もないある日のことである。四男の担任の先生が困惑した表情で、僕を迎えてくれた。
「四男の○○ちゃんは、今日一日、とてもおとなしくて心配になった。普段は、ニコニコしていて日本語でも表情豊かに話しかけてくれるのだけど、今日 は黙っていて様子が違う。何かあったのだと思うけど、コミュニケーションができない。ぜひ聞いてみてくれないか」、と。
僕は、「わかりました。ちょっと話をしてみますね」、と答えて幼稚園を後にした。僕は、なんとなく予想がついていた。四男が気に入っている女の子がいることを彼から聞いていたからだ。そして、その日は、彼女の姿が見えなかったのだ。
「○○ちゃん、今日何かあったの?」、と四男と二人になったときを見計らって、さりげなく聞いてみた。最初は、「別に何も無いよ」、という感じで、特に何も答えてくれなかった。
そこで、「△△ちゃんが来なかったから寂しかったんでしょう」、と聞いてみると、「そうなんだよね。今日は休みだったんだよ」、と答えてくれた。やはり、お気に入りの女の子が今日来ていなかったから、落ち込んでいたようだったのである。
毎日のように送り迎えをしていると、子供とのちょっとした会話の中から、気持ちを察することができるようになるものである。何せ僕は、パースにいる間は、「専業主夫」である。送迎や、子供たちの遊び役は、僕が一手に引き受けていたのだ。子供たちと多くの時間をともに過ごしていると、その中で質の高い時間がふと現れて、何でも話し合える仲になっていくのだ。
翌朝、幼稚園に四男を送りに行った。担任の先生が僕に気づくなり、僕に心配 そうに声をかけてくれた。
「どう?おとなしかった理由がわかった?」。
僕は、ニコニコしながら答えた。
「四男に好きな人がいるんだけど、昨日は来なかったんだよね」、と。
先生は、キョトンとした顔つきをして、
「そんなに早くに好きな人ができたの?」
と言い、すぐさま好奇心を示して、
「誰だかわかる?教えて」
と聞いてきたので、僕は、
「子供との約束だから名前は言えないよ」
と答えた。先生は、
「では、当ててみるね」と僕に伝えて、とても楽しみそうに四男を幼稚園の教室の中に連れて行った。
そして、午後3時に僕が迎えに行くなり、先生は、僕に向かって、満面の笑みで、
「△△ちゃんでしょう。もういっぺんでわかったわよ。彼女が教室に入ってきたら、四男の顔がいっぺんに明るくなって、手をつないで歩き始めていたわよ。良かった〜、心配したわよ」
と、安堵の表情を浮かべながら、とても楽しそうに教えてくれた。僕は、四男 を抱きかかえて、肩車をして幼稚園を後にした。
その時、僕が小さい頃のことをふと思い出していた。それは、アメリカの、おそらくロングアイランドの道端の風景だったと思う。
小さい僕が、アメリカ人の女の子とパンツの中を見せ合いながら、「お医者さんごっこ」をしている風景である。「あれ、○○ちゃんにはついていないね。 僕は、ちゃんとあるのに。」とやりあっていたのだ。
相手は、くりくりの金髪で、目が透き通るように青く、皮膚も白くきれいだった。
なぜだか僕は、この光景を良く思い出す。これが、原体験の一つだからなのか、僕は、大人になってからも、白人とか黒人とは関係なく、どんな人種の方々とも、抵抗なく同等にお付き合いすることができるようになっていた。
こういう体験の積み重ねを経て、異言語、異文化、異人種の壁を越えていける国際人が育っていくのではないかと思う。
特に、子供たちには異文化の壁を越えて、活躍してほしい、と思う。異文化の壁は、英語ができたからと言って、乗り越えられるものではない。言語的な壁も大きいが、異文化の壁はもっと大きいのではないかと思えることが多い。
西洋では、お辞儀をする代わりに、握手をする。腰を曲げて頭を下げる代わりに、堂々と背筋を伸ばしたまま手を差し伸べ、目と目を見ながらニコニコして握手をする文化なのである。握手をしながら、お辞儀をしてはいけないのである。
西洋では、身振り手振りで、はっきりと言語化して自己表現をするものなのである。以心伝心では伝わらない。黙っていると、気味悪がられるだけである。積極的にならないと、誰も相手にしてくれない。公正な機会とプロセスは担保されるが、あとは自らが積極的にチャンスをものにしなければならないのだ。
僕は英語でスピーチをするときと、日本語でスピーチをするときとでは、まっ たく違う人間かのように振舞う。英語では、身振り手振りを付け、相手を 圧倒するかのように喋るが、日本語では、落ち着いた表情で、共感を呼ぶように喋る。
そして、日本の会合では、自らを小さく見せるようにしている。特に相手が年長の方の場合には、背中を丸め、目線を低くして、自分のエネルギーで相手を圧倒しないようにしている。会合が終わると、背中を無意識のうちに伸ばすので、「あ〜、やっぱり自分を小さく見せて、相手を立てるようにしていたなぁ」と改めて認識する。
一方、海外の会合では、全く逆である。なるべく自分を大きく見せようとする。背筋をまっすぐ伸ばし、ニコニコしてしっかりと握手をし、身振り手振りを交え 、大きな声で説明し、エネルギーを全開にするのだ。特に、ニューヨークでは、そういう強い自分をよく発見する。
文化が違うのである。言語の違いと同時に、文化の違いを理解し、双方の文化の中で活躍できるようにしなければならない。日本文化に西洋風のスタイルを持ち込むと顰蹙を買い、西洋文化に日本風のスタイルを持ち込んでも、不思議がられるだけである。
子供たちには、知らず知らずのうちに、その違いを認識してもらい、無意識のうちに適切なスタイルを体現出来るようになって欲しいと思う。
そんなことを考えているうちに、5週間近くが経過して、子供たちの通学最後の日となった。前日の夜、子供たちと一緒になってお別れのスピーチの原稿を書き、しっかりとお話できるように何度か練習した。妻は、子供たちの友達に、鉛筆を一本ずつ渡せるように、鉛筆の束の仕分けをしていた。
そして、いよいよ最後の通学の日となる金曜日の朝となった。いつものように、子供たちは青い制服に身を包み、学校まで向かった。この日は、なぜだか口数が少なかった。恒例の金曜日の朝の生徒集会では、三男が表彰されていた。これで、次男、長男に続き三男も表彰されたことになる。 ありがたいことである。
そして午後、子供たちを迎えに学校に向かった。妻と僕とで、役割分担し、子供たちの面倒を見ることにした。僕は、次男と三男を担当し、妻は長男と四男を担当することになった。
僕は、先ず三男のクラスに行った。三男が学校に溶け込むのに一番苦労したからか、とても感慨深い。三男を無理やり押し込んだ教室のドアを開けて、先生に挨拶をした。
僕が登場するのを待っていたかのように、先生が三男を呼び、一番前に置かれた椅子に腰掛けさせた。クラスの他の子供たちは、地面に座り、三男を見上げていた。そして、三男のためにお別れの歌を歌い始めたのである。
三男に歌のプレゼントを用意してくれていたのだ。子供たちの中には、歌いながら別れを惜しんで泣き始める子もいた。僕の心の中でも、揺れ動かされるものを感じていた。無理やり教室に押し込んだ僕の意思決定は間違っていなかったのだ、と実感することができた。
一曲目が歌い終わり、「さよなら」と書かれた記念アルバムが贈呈された。友人のニコラスがそのアルバムを見せてくれていた。二曲目も歌い終わり、いよいよ最後に三男のスピーチの番が回ってきた。こういう時には、キチンとお礼をしなければならないのだ。
僕は、三男の後ろに回り、一言一言伝えてあげた。
「Thank you very much for taking care of me.」 と小さく言うと、三男も続けて、か細い声で続けた。
「I have truly enjoyed 5 weeks with all of you at this school.
I will go back to Japan, but I will surely come back here, again. Thank you very much. God bless you.」
と三男は精一杯言い続けた。立派であった。
ただ、僕は、感傷に浸っている暇はなかった。続けざまに、次男のクラスに向かった。
次男のクラスでは、歌の代わりに先生が一人一人指差して、次男にお別れの言葉を投げかける形式をとっていた。歌の代わりに言葉である。
「会えて嬉しかった」、「また一緒にサッカーをしよう」、、「いなくなると寂しい」、「一緒に勉強をしよう」、「出会えたことに感謝したい」、などであった。
そして、最後に次男のスピーチの時を迎えた。次男も同様に、「Thank you very much for taking care of me.」といい始めて、「I will go back toJapan, but please do not forget about me.」 と言い始めてから、次男は感極まって泣き出してしまった。言葉は小さかったが、最後までしっかりと言い続けることができた。
次男は、泣きながら鉛筆を全員に一本づつ渡して、一人一人にしっかりと別れを告げた。三男と次男の別れの儀式がこれで終わった。長男、四男と合流して、一家で校長先生などお世話になった方々に、丁重にお礼を申し上げた。
学校に別れを告げ、いつものように公園でサッカー、フットボール、テニスをして楽しんだ。週末は、あわただしかった。パースの沖合いに浮かぶロットネス島に、起業家の会合でスピーチをするために出かけた。その前後にパッキングをしアパートを掃除して、バタバタしながらも、日曜日の夜には、東京に向けてパースを後にすることとなった。あわただしい日々の中で、飛行機の中で現れた一瞬の落ち着いた時間に、この5週間のことを思い出していた。
「子供たちは、この5週間で何を得たのだろうか。言語、文化、人種などの壁を感じないような国際人になるきっかけとなってくれるのだろか。それとも、僕らの努力は徒労だったのだろうか。」
その答えは、子供たちが大人に成長したときに、初めてわかるものなのかもしれない。ただ言えることは、こうした小さい教育機会の積み重ねの中で、子供たちは少しずつ成長していくのであろう。、と。人生は、一生涯学び続けるプロセスなのである。一つのことをやったからと言って飛躍的に成長することは、あまり無い。
地道な継続が重要なのである。こうした機会を繰り返し持ち続けることによって初めて、世界に何かを発信できるリーダーとしての素地を少しずつ身に着けていくのだと思う。
その機会を提供するためならば、僕は努力を惜しまないつもりである。
真夏の東京から真冬のパースに向かい、そして今、残暑が残る東京に戻ろうとしていた。
子供たちには、日本の学校への復学が待っていた。なにせ子供たちの夏休みは、冬のパースでの学校通いだったのだ。
隣で眠っている子供たちに、僕は、こう呼びかけたかった。
「先ずは、お疲れ様。よく頑張ったと思う。ただ、これはまだスタートでしかない。
これからも粘り強く、継続的に地道に努力して欲しい。
大きくなったら、日本人としてのアイデンティティを持ちながら、世界に大きく羽ばたいて欲しい。
そして、世界のリーダーの一員として、社会に大いに貢献せよ。
今回のパース滞在が、そのきっかけとなってくれれば幸いだ」、と。
第一期パース滞在期:完。
次に続く。
2007年10月19日
グロービスの経営合宿後に、箱根にて執筆完了
堀義人