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米国イノベーターとの友達づくりの旅

投稿日:2005/10/31更新日:2019/08/26

10月23日の日曜日の夕方にサンフランシスコに降り立った。目的は、ジャ パン・ソサイエティの日米イノベーターズ・プログラムの一環で、米国の「イノベーター」に会うためである。

「イノベーターに会う」、という背景を簡単に説明しよう。僕は、3,4年ほど前から、ジャパン・ソサイエティの存在を知ることになった。

ジャパンソ・サイエティというのは、日露戦争後の1907年に米国民に日本をよく知ってもらおうという目的で、その当時の大統領のセオドア・ルーズベルトと小村寿太郎の発案で始まった、と言われている組織である。

第二次世界大戦中に活動が下火になったが、戦後、ロックフェラー財団が土地や基金を寄付して、活動が活発になった。国連の土地もロックフェラーが寄贈 したらしいから、その近くの土地をロックフェラーは、相当持っていたことになる。

僕は、NYの国連ビルの近くにあるジャパンソ・サイエティのビルで二度ほど講演をしたこともあった。

この由緒あるジャパン・ソサイエティが2007年に100周年を迎えるにあたって、さまざまな記念行事を始めたのである。その一つが、「日米イノベーターズ・プログラム」である。

このプログラムでは、日米から各6名のイノベーターを選出し、その6名がそれぞれ相手国を一週間ほど訪問しイノベーターと意見交換し、日米間のイノベーティブな交流を促進させるという趣旨のものである。

6名はそれぞれ、ビジネス、社会、文化に分かれて、各2名づつ選出された。光栄にもそのビジネスのイノベーターに、選ばれたのである。そして、このプログラムが、僕にとってラッキーなのは、旅費、宿泊費、旅費を負担してもらうばかりでなく、米国のイノベーターとのアポイントをジャパン・ソサイエティ側が全部やってくるので、普段会えない人にも会えてしまうのである。

そこで僕は、会いたいと思っているイノベーターの名前を何名か候補として上げさせてもらうと共に、ジャパン・ソサイエティからもリストアップしてもらい、短い訪問期間にアポを入れてもらうことにした。

僕は、訪問地をシリコンバレーを含むベイエリア一本に絞り込むことにした。 訪問日程も自由に決められたので、ボストン訪問後の日程を指定させてもらった。

僕の場合は、与えられた一週間を二回に分けて使おうと思っていた。今回は、 1stステージである。3月までにもう一回実施しようと思っている。2ndステージの最後に、NYにあるジャパン・ソサイエティのスタッフとのオープンディスカッションを行い、最終的には、レポートをまとめることが要求されている。

僕は、10月23日の夕方、ボストンからの直行便でサンフランシスコ空港に着き、その夜ジャパン・ソサイエティの担当者である宮本女史と合流し、中華料理を食べながら、事前打ち合わせをした。

今回会ってくれることに合意された米国側「イノベーター」の方々は、以下である。

・ レジス・マッケナ氏(「リレーションシップマーケティング」の著者)
・ ランディ・コミサ氏(クライナーパーキンズのパートナー)
・ ロバート・ジョシュ氏(スタンフォード・ビジネス・スクールの学長)
・ アレックス・ビューイー氏(「レッドヘリング」誌発行人兼CEO)
・ デビッド・L・シフリー氏 (テクノラティ社創業者兼CEO)
・ スチュアート・ゲインズ氏(スタンフォード大学デジタル・ビジョン・ プログラムのディレクター)
・ クリス・ダイグルマイヤー女史(スタンフォード・ビジネス・スクール 社会イノベーション・センターのエグゼクティブ・ディレクター)である。

その間、スケジュールが空いた時間に、以下も実施した。

・ 投資家とのミーティング
・ スタンフォード・ビジネス・スクールの日本人留学生とのリクルーティ ング・ディナー
・ 投資先候補の起業家との面談
その間、早朝5時に起きて、電話会議で国際投資委員会を実施するなど、結構忙であった。

実に刺激的な日々であった。会合の冒頭に、ジャパン・ソサイエティの宮本女史がこのプログラムの趣旨を説明し、僕のことを日本のイノベーターとして紹介してもらった。

僕は、その紹介を受けて、自分がやっているビジネス・スクールやベンチャーキャピタルのことを説明し、議論が始まるのである。

会った方々それぞれに個性があるので、毎回違う話ができて実に刺激的である。

レジス・マッケナ氏とは、ホテルでのブレックファーストミーティングとなった。
彼は、非常に洞察力があり、賢人という趣を持っていた。僕は、僭越ながらさまざまなことを質問させてもらった。「イノベーションを生み出す人はどういう人か?どういう環境が重要か?」などである。

彼は、シリコンバレーを創ってきた一人である。アップル、AOL、ジェネンティック、シリコングラフィックスなどのアドバイスをしてきたのである。会話の中に、アップルCEOのスティーブ・ジョブ氏のガレージ時代の逸話が出てきたりで、実に面白い。日本には年に2回ほど来られるので、日本通でもある。

ランディ・コミサ氏とのアポは、ベンチャーキャピタルのメッカと呼ばれているサンドヒル・ロードにあるクライナーパーキンスの事務所の彼の部屋であった。吹き抜けの山小屋風の建築の中に、明るい木目調の家具で統一されていて、会議室、個室も全てがガラス張りになっていた。

ここに、伝説のキャピタリストであるジョン・ドアー、ビノード・コースラ、 そして最近加わった、サンマイクロシステムの共同創業者のビル・ジョイや元 国務長官であるパウエル氏が働いているのである。

パートナーが集う有名な楕円状の会議室は、ガラス張りなので、待合室からも見ることができた。数名がラフな格好で真剣に討議していた。カジュアルであるが、威厳がある。宮本女史曰く、「働いている女性も綺麗である。他とは明らかに違う」とのことだ。確かに、品格が漂っていた。

暫くして、ランディの秘書(またまた綺麗な方)が迎えにきて、ランディの部屋に通された。日米のベンチャー・キャピタルの話、会社を作っていくのには何が必要かなど意見交換した。

何よりも、かれは、「Monk&Riddle(僧侶との対話)」を執筆しているほどの、仏教の信者であった。彼から道元の名前が出てきたのは、さすがにびっくりした。僕からは、空海のことを説明した。

彼は、インドからブータンの旅行を全て自転車で走りきった。500〜600 kmの山道を3週間かけて横断したという。その後、中国からミャンマーも縦断し、ラオスやベトナムにも行っている。全て自転車の旅なのだ。話が面白くないわけがない。思わず話にのめりこんでいった。

テクノラティ社のデイビッド・シーフリ氏とは、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジに近い、寂れたビル街でのオフィスで会った。ガレージス タートアップの雰囲気が漂っていた。

デイビッドは、日本に3年半も住んでいたこともある日本通だ。テクノラティが彼にとっては4つ目のベンチャーである。2つ目のベンチャー企業であったリナックス・ケア社は、グロービスのパートナー企業である、エイパックス(旧パト リコフ社)の投資先企業でもある。

その失敗談は、実に興味深い。投資家側の視点とは違い、起業家側からの視点は、人生をかけているので感情移入しやすい。その失敗から何を学び、それを今、どのように活かしているのかを聞けたのは、貴重な体験であった。

スタンフォード・ビジネス・スクールの学長とは、キャンパスの学長室での面談である。ロバート・ジョシュ学長は、変わった経歴を持っていた。学長は、スタンフォードでMBAとPhDを取得したものの、その後はアカデミックな世界には一切かかわらずに、ビジネス畑を歩んでいた。PhD取得後ウェルズ・フ ァーゴに入り、豪州のウェストパック銀行の頭取になり、2001年にスタンフォードのビジネス・スクールの学長として招聘されたのである。

僕の関心は、トップビジネススクールの経営手法を学ぶことである。「CEOと学長はどのように違うか」など数多く質問させてもらった。学長は最初 、「何でこんなアポを入れしまったんだろう」とぼやいている風であったが、何とかニコニコしながら40分ほどお相手してもらえた。

HBSのアルムナイ・ボードに参加した後なので、なおさら新鮮な気持ちで、ハーバード、スタンフォードの経営と、僕らグロービスの経営を比較することができた。

スタンフォード大学のスチュアート・ゲインズ氏とクリス・ダイグルマイヤー女史とは、スタンフォードのキャンパスで会った。

アレックス・ビューイー氏とは、パロアルトから30分ほど高速を北に飛ばした場所のオフィスで会った。アレックスとは、東京以外に、セビリア、カン ヌ、シアトル、上海、ソウルとで会っているが、彼のオフィスに訪問するのは初めてであった。そこで、スチュアート・ゲインズ氏のお嬢様にお会いしたときには、世間の狭さを痛感した。

実に刺激的な日々であった。今回、米国のイノベーターと会うときに決めていたことは、一つであった。

「ただ会うだけでなく、友達になろう」、と。

会って意見交換するだけでは、面白くない。「友達」になることが重要だと思う。友達になると、来日されたときに会えるし、僕がシリコンバレーに行くときも会い続けられる。

この「友達」達には、帰国後、「僕が会うべき人がいたら他にも紹介して欲しい」、とメールを打とうと思っている。その友達が紹介してくれた友達には、2ndステージで会いたいと思っている。

そうすることにより、米国の「イノベーター」に日本のことをポジティブに知ってもらえるし、新たなイノベーティブな交流が生まれるのであろう。それが、由緒あるジャパン・ソサイエティが100周年を迎えるにあたって、記念プロジェクトとして考えた交流の方法なのだと思う。

事実、日露戦争は、セオドア・ルーズベルト大統領と金子堅太郎氏がハーバード大学時代より親交があり、ハーバードの同窓でもある小村寿太郎さんがその縁を辿って交渉をして、結局米国の調停により停戦合意に至ったと言われている。やはり、日米の友達のネットワークは重要なのである。

アポ取りから全てのアレンジをしてくれた宮本女史とサンフランシスコ空港で別れを告げて、僕は日本に向けて飛び立っていった。

5人目の子供が生まれてまだ3週間。
5人の子供を面倒みている産後まもない妻のことが気になっていた。

2005年10月27日
日本に帰るフライトの中で
堀義人

 

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