第5子の誕生〜五兄弟誕生までのストーリー 

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「子供を何人つくろうか?」。
この話題が、過去10年間の夫婦の会話の中で最も重要な地位を占め続けてきた。

結婚した時には、「最低3人は作ろうよ」、ということで合意はしていた。妻も僕も、3人兄弟(姉妹)なので、最低3人は欲しいと思っていたからだ。結婚のあとしてから3年強の間、DINKS(Double Income No Kids)を楽しんだ後、 妻が29歳の時に長男が誕生した。それから、2年おきの程よいペースで、次男、三男と生まれた。早々と(?)目標を達成した後に、「さあ次はどうしようか?」、ということになったのだ。

2年おきの出産というペース配分をしていると、出生後一年経過して、授乳期間が終わり、乳児が歩き出す頃に、次の子供の話題が自然に出てくるようになるのである。僕ら二人は、子供のことが大好きである。子供は本当に可 愛いし、成長を見守りながら、一緒に遊ぶのがとても楽しい。

幸い妻の健康にも恵まれていたし、一時期苦しかった家計も、多少はゆとりが出始めていたので第四子をどうするかの議論は、「もう一人行ってみよう」、という意思決定で完了した。そして、2003年4月に四男の誕生である。4人続けて男ばかりだ。親バカだとわかっているが、この男の子もやはり可愛いのである。

そして2004年の春過ぎ頃から、「次をどうしようか」という議論が延々と続くようになった。これまでの約8年間、妻は妊娠期間と授乳期間を交互に繰り返してきたことになる。20代後半から30代半ばまで完全に出産と育児にコミットしてきたのである。そりゃテニスとか旅行もしたいだろうし、仕事もしたいであろう。せっかく立ち上げた翻訳ベンチャーの会社も中断しがちであった。もうそろそろ自分の人生を歩みたいと思うのは、自然な気持ちであろう。

妻は、30代の後半に差し掛かっていたが、今の医療技術であれば、年齢的な問題は無い。産みたくても産めない人のことを考えるとと、恵まれているぐらいであった。後は気持ちの問題だけであった。

ただ、ここまでくると、男に決定権は無いのである。ひたすら子育てに協力して、「もう一人いっても大丈夫だよ〜」と優しい声をかけても、あの身重になる妊婦の期間と、分娩の苦痛、そして授乳・おむつ交換の努力というサイ クルをあと2年間繰り返すことを要求することはできない。ましてや、結婚当初合意した目標を既に超えているのである。これ以上の、強要できないのである。後は、妻の判断だ。妻にとってのライフスタイルの選択でもあるのである。

悩みに悩んだ末、「ここでヤメたら後で後悔するかもしれない。あんな可愛い子達が生まれてくるんだもんね」という妻の一言で、もう一歩だけ前に踏み込 むことになった。妻はこれで、あと2年間妊娠期間と授乳期間を過ごすことを決めたのである。

予定日が2005年9月の下旬と決まったが、予定日が近づいても一向に生まれる気配が無い。僕は、「全ての出産には立ち会う」というポリシーがあるので、予定日の前後2週間は、出張のスケジュールを入れないようにしていた。アポを入れる際にも、「出産のためキャンセルするかもしれないですけど」と予め断った上でスケジュールを入れていた。

男性諸氏の経験者はわかると思うが、予定日前後は、携帯電話を片手にそわそわするものである。「出産スケジュールもアポを事前に入れてくれ」と叫びたくなるけど、こればっかりは帝王切開でもしない限りは、どうしようもない。

妻は妻で、子供達の運動会には這ってでも行きたいということで、彼女なりの出産計画を立てていた。「9月26日の小学校の運動会の次の日に産み、休んだ後に、10月8日の保育園の運動会に参加する」、と計画していたようだ。ところが何と台風の影響で9月26日の運動会が順延となってしまったのだ。妻の落胆といったら、相当なものだった。

でも、すぐに気を取り直して、新たな計画(皮算用?)を立てていた。「10月1日の小学校の運動会に参加して、その夜に出産して、10月7日に退院す れば、10月8日の保育園の運動会に出れる」、と言う計画だ。「そんなにうまくいくのかなあ」、というのが子供達を含めた家族の反応であった。

そして、10月1日の運動会の日を迎えた。天気は快晴。予定通り運動会は開かれ、妻は子供4人分と祖父・夫婦のお弁当8人分を早朝から作り上げ、 大きなお腹で最後まで運動会を楽しんでいた。そのまま休みを取らずに、夕食を用意して、食べさせて、後片付けをして、子供達をお風呂に入れた後に、 「もしかしたら産まれるかも」、と冷静に訴えてきた。

僕は、風邪をこじらせていて、それまでは全く戦力にならなかったのだが、「ここは頑張りどころ」と思い、子供四人を寝巻きのままランドクルーザーに乗せて、家族で病院に向かった。車中、妻が「今晩から明日にかけて産まれると思う」と冷静に体を分析しながら語っていたのが、印象深かった。病院で検査した結果、予想通りかなり出産に近づいているようで、陣痛から出産、回復までを一つの部屋で行うLDR室に即入ることが決まった。

その場で、千葉の実家で待機していた妻の母に電話をし、三番町の自宅に来てもらう段取りとなった。僕は、子供4人を連れて帰り、寝付かせてから義母 の到着を待ち、深夜12時ごろに再度病院に戻った。妻は、LDR室で仰向けになっており、既に出産の準備はできていた。暫くは大きな変化はなく、静かな状態が続いていたので、ソファで横になった。うとうとしてたら、妻に起こされた。 時計を見たら夜中の2時ごろであった。

「陣痛が来ているからそばにきて欲しい」と言われた。かなり進行しているようなので、2時15分にナースコールをした。看護士が3人入ってきて、あっという間に準備を整えた。僕は、指示されるままに、水色のガウンをはおり、マスク をつけてキャップをかぶった。もう産まれそうだった。その次の瞬間には頭が出た。そして、へその緒がついたまま全身が出てきた。あっという間だった。

膜にくるまって出てきた新生児のへその緒の下には、しっかりとした大きなも のがついていて、すぐに男だとわかった。赤ちゃんがオギャーと泣いている横で、へその緒を切りながら看護士さんが、「2時25分に男の子の誕生です」 と教えてくれた。

これで、五人とも男の子ということになった。「女の子が欲しいから、産み続 けるんでしょう」と良く言われる。しかし、負け惜しみでなく、最初から男が欲しかったのである。僕の周りでも、男ばっかりの五兄弟、というのは聞いたことが無い。予想(希望)どおりの男の誕生で、ロイヤル・ストレート・フラッシュの完成っという心境である。

早速家族に電話するが、反応は「おめでとう。で、どっち」であった。「また男だよ」というと、みな一様にゲラゲラと笑っていた。一旦自宅に戻り、朝、子供達と義母を連れて、病院に戻った。子供達は、新しい弟の誕生にとても嬉しそうだった。

親しい友人達に電話とメールをして出産の報告をした。夜に再度子供達を連れて病院に行った。子供達は母親がいると安心するようである。でも、妻が入院している一週間は、パパと子供達4人の生活が待っているのだ。若干心配ではあるが、義母に手伝ってもらいながら、何とか乗り切るしかない。

友人達へのメールは以下の文言で締めくくっていた。

「これから堀家は、10年近く続いたプロダクション・インキュベーションステージから徐々に成長期に移行させたく考えています。
堀家の新しい一員をかわいがってあげてください」。

これで子供5人の家族構成は固まった。最初のプロダクションステージ(生産期間)としては十分過ぎる出来栄えだと思う。これからの夫婦の会話のトピックスは、「何人産もうか?」から「どうやって育てていこうか?」ということ になると思う。

次の成長期には、どんな楽しみが待っているのであろうか。
これから見ていく家族の風景を、時折このコラム「起業家の風景」でも紹介 したいと思う。

2005年10月2日
自宅にて
堀義人

 

京都大学工学部卒、ハーバード大学経営大学院修士課程修了(MBA)。住友商事株式会社を経て、1992年株式会社グロービス設立。1996年グロービス・キャピタル、1999年 エイパックス・グロービス・パートナーズ(現グロービス・キャピタル・パートナーズ)設立。2006年4月、グロービス経営大学院を開学。学長に就任する。若手起業家が集うYEO(Young Entrepreneur's Organization 現EO)日本初代会長、YEOアジア初代代表、世界経済フォーラム(WEF)が選んだNew Asian Leaders日本代表、米国ハーバード大学経営大学院アルムナイ・ボード(卒業生理事)等を歴任。現在、経済同友会幹事等を務める。2008年に日本版ダボス会議である「G1サミット」を創設。2011年3月大震災後に、復興支援プロジェクトKIBOWを立ち上げ、翌年一般財団法人KIBOWを組成し、理事長を務める。2013年6月より公益財団法人日本棋院理事。いばらき大使、水戸大使。著書に、『創造と変革の志士たちへ』(PHP研究所)、『吾人(ごじん)の任務』 (東洋経済新報社)、『人生の座標軸』(講談社)等がある。

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