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先祖のルーツを辿る旅-その3:先祖から子孫、そして未来へ

投稿日:2006/09/01更新日:2019/08/21

昨晩ほろ酔い気分で早くに就寝したため、朝5時に目が覚めてしまった。そこで、家族を起こさないようにと思い、 部屋を出て1階のロビーにパソコンを持ち込み、メールチェックをすることとした。

僕にとっては夏休みであっても、世間一般にとってその日は平日なの で、仕事日なのである。僕は、受信メールに対しては24時間以内に返事を書くことにしているので、休日・平日関係なく、パソコンを持ち歩くことにしているのである。

メールへの返信を終えたので、ネットで山形県庄内のことを詳しく調べ始めた。特に気になったのが、石原莞爾のことである。

僕が、石原莞爾のことを知ったのは、10年ほど前のことである。「日本が昭和初期になぜ間違った方向に進んでしまったのか?」を知りたくて、さまざまな本を濫読した時に、その思索のプロセスで行き着いたのが石原莞爾であった。石原莞爾は、東亜連盟の思想のもと、日中戦争には猛烈に反対したことをそのときに知ったのである。

石原莞爾は、鶴岡で生まれ、ドイツに留学し、太平洋戦争前に東條英機によって予備役とされてしまったところまでは知っていたが、その後この庄内に戻ってきたことは、知らなかった。秋田県との県境に近い山形県北部の遊佐町で生涯を終え、その地に墓地があるのだという。

「ここから遠くは無さそうだ。現在朝の6時前だから、今から酒田経由で県境の墓地に行っても、朝8時の朝食までには戻ってこれそうだ」。

と思い始めると、いても立ってもいられなくなった。早速パソコンを閉じて、部屋に戻り、寝ている妻に、「ちょっとドライブに行って来る」と耳元で囁き、一人で酒田市見学がてら、石原莞爾の墓地に向かうことにした。

一人だと気が楽である。朝もやの中、日本海沿いの道を北上し、ほどなく酒田市に着いた。明治時代の倉庫街を歩き、旧本間邸や本間美術館を外から眺めて、いよいよ秋田の県境に向かった。

30分弱ほど田園風景のドライブを楽しみ、「石原莞爾将軍のお墓」の標識を頼りに、国道を鋭角に曲がると、砂利道の坂があった。その丘の上に石原莞爾のお墓と無人の掘っ立て小屋があった。ちょうど鳥海山が見渡せる場所に位置していた。

先ずは、無人の掘っ立て小屋の中に入ってみた。石原莞爾が使っていたという、昔の小学校の教室にありそうな質素な木製の椅子が、無造作に置かれていた。僕は、その椅子に腰掛けて、本や資料に目を通し、記帳した。 石原莞爾のお墓参りをして、近辺を暫く散歩し、家族が待つ旅館に戻ることにした。

帰り道は、できたばかりの山形自動車道を通ってみることにした。山形道は、片側一車線だけの「高速道路」だけども 、交差点をつくらないために高く土盛りされている。運転しながら、一段高い視野から庄内平野を一望できた。

こうやって見ると、緑が美しい。平地には、うす緑の稲が絨毯のように敷き詰めてあった。ところどころに濃い緑の木々と農家が点在しており、濃い緑の塊となってりる山々が、田んぼの切れ目に聳え立っていた。

美しい田園風景だ。鶴岡藩は、農政に力を入れたという。平地は、原則全て農地として、開墾されていた。卯三郎は、この風景を見て育ったのであろ う。新幹線や高速道路が届いていない交通の便が悪い地域だからこそ、豊かな自然と美しい田園風景がそのまま残っているのであろう。

旅館に戻り、朝食をとり、家族と共に最後の「取材」目的地である最上郡舟形町に向かった。そこには、卯三郎が作った三光堰(さんこうぜき)という水路と開墾された田んぼがあるのだという。

アルファードは、庄内平野の田園風景の中を通り、白い風力発電機がある風車村を横目に見ながら、山の中を流れる最上川に沿って、東に向かった。川と田畑と民家のこの光景は、どことなくブータンを思い出させてくれる。

民家は、古くからある日本家屋で、比較的大きい。黒い瓦に太陽の光が当たり、何とも言えない光沢を生み出すのである。最上川下りを楽しんでいる小船や釣人を、眼下に見下ろすことができた。

2時間ほどドライブして、13時ぴったりに舟形町の公民館に到着した。ここで、今回の旅行の最後の取材面談を行う予定であった

迎えがきて、土地改良区の事務所に先導された。工事事務所のような質素な建物に入り、理事長と副理事長にご挨拶をした。そして、叔母が早速堀卯三郎に関して、「取材」を始めた。

彼らの話と今まで調べてきたことを総合すると以下のような状況であったようだ。

「1909年、堀卯三郎が43歳の時に開田の権利を取得して、福沢家(福沢諭吉の親族)の出資を受け、三光合資会社を設立し、開田事業に着手した。この水路は、1850年に新庄戸沢藩奉行が挑戦して以来、何人かが開墾を試みたが、誰一人も成功しえなかった難業であったようだった」。

「今の資産にして、約10億円以上のお金を投下して水路を作り始めた。この水路の工事は、最上川支流の小国川から水を引き、約一キロのトンネル掘削工事を伴うものであった」。

「1917年に水路が一部完成し、1922年に竣工した。完成したのは、卯三郎が56歳のときである。卯三郎の死後、戦後の農地解放前後には、土地や水路の利権は全て譲渡されてしまった」

「その後、土地改良事業が行われ、現在では、土地約600ヘクタール(町の耕地の半分近く)に、水が供給され、500戸の農家が稲作に従事できるようになった。7000人の町民がの収入を得る上でも大きな支えとなっている」。

「この功績を称えて、数十年が経過した後に、この三光堰の記録を残そうと、竣工記念碑が建てられることになった」。

その記念碑を見せてもらおうと、11名の旅行団が、3台車を連ねて現地に向かった。そこには、確かに堀卯三郎の名前が碑文に刻まれていた。先祖の生きた痕跡を確かに見た瞬間でもあった。

碑の前で5人の子供を含む旅行団全員で記念撮影をした。ふと見ると、碑の裏手で三男が田んぼに向けて、用を足していた。水路を見学しに行ったら、そこで今度は、四男が大自然の中で用を足した。

そして、時間があったので、小国川からのくみ出し口も見学することとした。山の中腹から下りて、小国川のくみ出し口に向かった。川の横手から水をくみ出し、その後すぐにトンネルに入り、山を越えたところに出てくるらしい。

くみ出し口で毎秒2.5トンの水量があり、水路の下流の少ないところでも毎秒1トンもの水量が流れているという。子供達にとっては、良い社会の実習となった。

これにて、僕らの「先祖のルーツを辿る旅」の目的地における全てのスケジュールを終えた。土地改良区の方にその場でお礼をして、それぞれの車に乗り、その晩の宿泊地である、東根温泉に向かった。

多少時間があったので、将棋で有名な天童に行き、フルーツラインを通って、山寺に行くこととした。

ぶどう、桃、さくらんぼ等が道路の両脇に見えた。昼と夜の寒暖の差が大きいので、美味しいフルーツが育つのだという。山寺は、あの芭蕉が、「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」と詠んだ場所である。

東根温泉で、三家族揃っての最後の夜を迎えた。子供達も叔母夫婦に慣れてきたのか、一緒にパズルをしたり、テレビゲームをして遊んでいた。当然、お風呂の中でも相変わらず騒がしかった。

翌朝、旅行団は解散となった。叔母夫婦は山形駅でレンタカーを返し、山形新幹線で東京に戻るという。僕らは、山形市を観光して、山形自動車道、東北自動車道を通って、東京に戻ることとした。

山形県、宮城県、福島県、栃木県、埼玉県を過ぎ、車が首都高に近づくと、今までの田園風景の緑がコンクリートの灰色に変わり、すいていた道路も交通渋滞となっていた。

16歳の卯三郎は、この道を歩いて上京したのである。その時、何を考えていたのだろうか。

慶応3年生まれの鶴岡藩出身の堀卯三郎は、飯田藩出身の潮田うたと結婚し、 6人の子を残した。その長男堀義路は、北海道出身の秋野美津と結婚し、5人の子を残した。その次男堀雅夫は、愛媛県出身の真鍋奈智子と結婚し、3人の子を残した。その3番目の子供が僕である。

その僕は、結婚して、今までに5人の子を授かっている。卯三郎が死んでから100年と経っていないが、子孫の合計が何人いるかは、検討もつかない。100人は優に超えていると思われる。

こうやって、江戸時代から明治、大正、昭和、そして平成へと堀家の血が受け継がれていくのであろう。そして、子ども達を通して未来へと繋がっていく。今回の旅行を通して、先祖のことを語り継いでいくことの重要性を認識した。

ただ、唯一の心残りは、堀卯三郎の曾祖父の堀東周までしか、先祖のルーツを辿れなかったことである。
もしかしたらこのコラムの読者の誰かが、先祖の情報を教えてくれるかもしれない。

そうしたら、また更なる「先祖のルーツを辿る旅」に出かけてみたい。

2006年8月30日
香港のホテルで執筆
堀義人

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