関越自動車を六日町インターで降り、清酒で有名な八海山の麓に向かった。「八海山神社の隣にあるお蕎麦屋さんが美味しい」、という情報を知り合いから聞いていたからだ。
わらび、ぜんまい、ふきのとう、山うどなど、山菜がふんだんに盛られた‘山菜盛り合わせ‘は、絶品であった。日本の山奥に行くと、新鮮な山菜を堪能できるのがとても嬉しい。子供達には、うどんやそばが好評であった。
食事の後は、関越自動車を北上して、その日の午後4時過ぎに、長岡市に着いた。長岡と言えば、米百俵の小林虎三郎、戊辰戦争の河合継之介、そして太平洋艦隊司令長官の山本五十六元帥と著名人が多い。
長岡の花火も有名だし、僕に密教を教えてくれた斑目力廣氏がつくったネミック・ラムダ社の創業の地でもある。旅の中継地として一泊しようと思ったのは、そのような背景だったからだ。
ところが、街の中心部には歴史的な香りが、あまり感じられなかった。歴史を重んじている水戸出身の僕としては、ちょっと期待外れではあった。山本五十六博物館と山本五十六の生家だけを訪問して、駅前のホテルで一泊することとした。
翌朝、関越自動車道から日本海東北自動車道を通って、新潟県を縦断する。高速道路の終点の中条からは一般道となった。米どころの新潟らしく、美しい田園風景が続いていた。
僕の両親と叔母夫婦とは、その日の14時に鶴岡市井岡寺で待ち合わせをしているので、遅れる訳にはいかなかい。休憩を取らずに、妻と交代しながら、走り続けることとした。幸い予定より一時間も早く鶴岡市に入ることができた。
携帯電話で父親と連絡を取り合い、お寺近くの中華料理店で昼食をともにすることにした。僕ら一家7名は、両親と叔母夫婦の4名と、その中華料理店で合流した。
両親と叔母夫婦は、皆それぞれ70歳を超えていた。赤ちゃんを含む子供5名、僕ら青年(中年?)夫婦、そして老夫婦二組の三代にわたる奇妙な旅行団がこれにて結成された。これからの旅行は、車3台で移動し、宿泊は三部屋とって行うことになった。
ただ、敢えて注記すると、僕らは観光に来ているわけでは無いのだ。「先祖のルーツを辿る旅」にきているのである。「ルーツを辿る旅」の目的に対しては、叔母の杉山明子(旧姓堀)は、パワフルな同志であった。
なぜならば、父親の二つ違いの妹にあたる叔母は、NHKの主任研究員の後、東京女子大学の教授を務め、日本行動計量学会の理事長も務めたことがある。つまり、調査や取材はお手の物であった。
旅行中に叔母は、僕に取材成功の秘訣をこそっと教えてくれた。「取材が成功するかしないかは、現地に行く前の下調べとアポイント入れにかかっているのよ」、と。叔母にとっては、今回の旅行は、「ルーツを辿る」というよりも、「ルーツを探る」ための取材が目的のようであった。
確かに、出発前にメールで送ってもらったスケジュール表には、面談の予定がびっしりと入っていた。しかも、先方には、訪問の目的と調査依頼事項を事前にメールで連絡し、何回か確認している周到ぶりだ。
老夫婦二組は、前日より鶴岡市に入っていたので、中華料理店で僕らと合流する前に、既に2件のアポイントを終わらせていたのであった。僕は、麻婆豆腐を食べながら、その取材結果を聞くこととした。
「先ず一件目に訪問したのが、鶴岡城跡にある致道博物館である。そこで、鶴岡藩藩主の直系の子孫に当たる酒井忠久氏夫妻と面談をして、鶴岡藩の歴史を聞いた」、と。
何と最初の面談が、お殿様の子孫とである。聞くところによると、酒井忠久氏は、現在致道博物館の館長をしており、酒井天美夫人とは、叔母のNHK時代に、何らかの縁があったようである。世も世ならば、なかなか会えない方である。
「もう一件が、資料館での面談である。この面談で、卯三郎の生家の番地がわかった。また、卯三郎と兄の義水が昭和初期の山形の人名鑑に記載されていることもわかり、コピーをさせてもらったよ」、と。
子供たちにご飯を食べさせながら、僕は聞いていた。どうやら、これで鶴岡市にある卯三郎の生家も訪問できそうである。
叔母が作ってくれたスケジュールによると、次のアポイントは、本日14時から井岡寺の住職代理(住職は入院中)との面談であった。僕らは、中華料理でランチを平らげて、堀家の先祖のお墓がある井岡寺に、それぞれの車で向かった。
田んぼの中の一本道が、こんもりと盛り上がった緑の小山(というか丘)に繋がっていた。その丘は、古墳のような形状をしていた。
一本道が突き当たった緑の丘の入り口に神社の鳥居が堂々と建っていて、その横に遠慮がちに門が斜めに建てられていた。そこが井岡寺への入り口であった。廃仏棄釈により寺の位置が隅に追いやられたようである。
門の横を車で坂を登り、本堂の前で車を止めた。叔母夫婦と両親が住職代理と挨拶をし、「取材」を始めている間に、僕は境内の散策を始めた。心が躍る瞬間である。
僕が、散策を終えて、寺の中に入った頃には、堀家の過去帳のコピーが広げられて、叔母があれこれ質問をしていた。コピーには、何やらメモが書き込まれていた。一方、父親は、叔母のアシスタントとして、面談内容をIC録音し、書類の写真をデジカメで撮っていた。老兄妹の息があったコンビネーションだった。
このお墓には、卯三郎の父親の東順と、卯三郎の祖父と曽祖父にあたる堀東周(二代目も同じ名前を襲名したもよう)らが、眠っていることを確認した。初代東周は、1828年に他界したと記録が残っていた。恐らく1760年頃の生まれであろう。だが、僕らは、ここまでしか先祖のルーツを辿れなかった。
改めて住職代理と名刺交換したところ、「普段は洋菓子会社の取締役を本業としている」と教えてくれた。井岡寺の歴史に関して質問すると「ホームページが充実しているので、読んで欲しい」といわれた。後で、ネットで確認したが、確かに詳しく書かれていた。
お寺の本堂を出て、堀家の先祖のお墓参りに向かった。でも、お墓がなかなか見つからない。やっと探し当てた堀家のお墓は、草が生えていて、かなり古くなっていた。無理もない。200年以上も前からのお墓である。卯三郎以降の先祖は、東京白金の瑞聖寺に眠っているので、山形でお墓参りをする人は、近年少なくなっていたのであろう。
堀家の墓の敷地内に、いくつかの墓石が不規則に配列されていた。真ん中が堀東周の墓で、その横にひときわ大きな自然石のお墓があった。この墓石には、堀徳也と刻まれていて、「勲三等」と書かれていた。この徳也氏が何をしていて、卯三郎とどういう関係なのかは、結局わからずじまいであった。
叔母が墓石を見ながら何やらメモを取っている横で、僕は墓前に手を合わせて静かに先祖の冥福を祈ることにした。子供たちは、その間いくつかの墓石に水をかけていた。
僕は、その場に長居したかったが、子供5人・大人6人の団体行動なので、自分の意のままにならない。子供たちが蚊に刺され足を掻き始めたので、急いで墓の周りのゴミなどを拾い、急かされるように先祖のお墓を後にした。
アルファードに乗ったが、まだ物足りない感じがしていた。妻と子供たちの許しを得て、再度神社と寺の境内を徘徊することにした。
その地には、先祖が残していったお墓という確かな軌跡と、卯三郎が見てきたであろう風景があるからだ。一人で、小山のてっぺんにも登った。信仰の地に相応しい気が漂っていた。
暫くして車に戻った。坂を降りて、田んぼの一本道を戻り、鶴岡市内に向かった。旅館にチェックインする前に、卯三郎の生家を訪問することにしたのだ。
鶴岡市内の城跡に到着した。鶴岡城の跡地は、綺麗に整備されていて、歴史をしっかりと残しておこうという気風を感じることができた。閉館時間が間近なので、先ずは、博物館などを訪問することにした。
酒井の殿様が整備された致道博物館を訪問し、鶴岡藩の藩校であった旧致道館や大宝館を訪問した。大宝館では、鶴岡出身の著名人が紹介しており、そこで、僕は石原莞爾や藤沢周平が鶴岡出身であることを知った。
城跡を出て、鶴岡七日町甲23番地(1839年当時)にある、卯三郎の生家跡に向かうこととした。ほどなく到着したその地には、ホテルの駐車場と隣接する数件の民家があった。
城からの距離を考えると、町民か下級武士が住んでいた場所だったと思われる。言い伝えによると、「堀の先祖は御殿医をしていた」とのことだったが、僕は、先祖は町医者だったのではないかと想像した。
夕刻近くになったので、日本海に面した湯野浜にある旅館に向かうこととした。車窓からは、一面の水田風景である。海が見えてきたところにその旅館があった。
チェックイン後、日本海に沈む夕陽を見ながら、温泉で旅の疲れを癒すこととした。温質はなめらかで、肌がすべすべして気持ちが良い。他にお客がいないのをいいことに、子供たちは湯船の中をいったりきたり泳ぎ始めていた。子供たちは、子供たちなりの方法で、旅の疲れを癒しているのであろう。
両親、叔母夫婦、そして僕ら家族の合計11人の奇妙な旅行団は、小宴会場で夕食をともにして、日本海の海の幸を堪能した。
翌日の三光堰訪問に向けて、その夜は早めに就寝することとした。
2006年8月26日
軽井沢の山小屋にて執筆
堀義人