先祖のルーツを辿る旅 - その1:曾祖父の生きた道 

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買ったばかりのピカピカのアルファードの後部座席に子供5人を縛り付けて、軽井沢から、山形に向けて出発した。車が動き出すとすぐに、後にいる子供達に、今回の旅行の目的を説明することにした。

ハンドルを握りながら、顔を斜め上に向けて、後ろにいる子供達に語りかけた。
「今回の旅は、堀家の先祖のルーツを辿る旅です」
重みをつけるために、敢えて敬語を使って説明することにした。

「今から、軽井沢を北に向かい、群馬県から新潟県に入り、長岡市で一泊します」。
「翌朝、日本海に沿って新潟県を縦断して、山形県の鶴岡市に入ります。そこで、パパのひいおじいさん、つまり、皆さんのひいひいおじいさんにあたる人、が生まれた土地に行き、先祖のお墓参りをして、日本海に面した温泉宿で泊まります」。

「翌朝日本海で海水浴をしてから、ひいおじいさんが敷設した水路と開墾した田んぼを見て回ることにします。山形市の近くで、最後の一泊をしてから、宮城県を経て高速道路にのって東京に帰ります」。

「今回は、おじいちゃんとおばあちゃんと、パパのおばさん夫婦も一緒に旅をしますので、いい子にしていてくださいね」、と締めくくった。「わかりましたか」と念を押すと、子供達からは、「は〜い」と分かったような、分からないような返事が返ってきた。

これからは、長旅である。しかも山道が多い。のんびり運転しながら、「先祖のルーツを辿る旅」に行き着いたプロセスを振り返ることにした。

僕は、今年の初めから、無性に先祖のルーツを知りたくなったのである。特に気になったのが、僕の祖父の父親(つまり曾祖父)である。祖父に関しては、拙書の「吾人の任務」にも触れている通り、僕が9歳になるまで生きていたので、当然会ったこともあるし、身近な存在ではある。

ところが、曾祖父に関しては、名前すら知らないし、どこの出身かもわからなかった。父親に問い合わせてみて、やっと名前が、堀卯三郎(うさぶろう)ということがわかった。その程度であった。

そこで、親戚中にメールを打ち始めた。卯三郎の子供は、既に他界していたので、卯三郎の孫にあたる方に重点的に尋ねてみた。その結果、卯三郎の子供達の伝聞を記録していた方々からメールをもらい始め、卯三郎の生きてきた軌跡がだんだんとわかり始めたのである。

資料も多いし、デジタル化されていないものもあったので、卯三郎の孫にあたる方々を一堂に会する機会もつくった。グロービスまでご足労頂き、会議室で昔の資料や写真を広げながら、夕食のお弁当を食べながら、ルーツを皆で確認しあったのである。

まさに会議である。そして、言い伝えと現存する資料を総合すると、以下の様な人生が浮かび上がってきたのである。

・卯三郎は、明治維新の前年の1867年7月6日に鶴岡藩(現在の山形県の鶴岡市)に生まれた。父東順(1829-1882)と母かね( 1835-1918.5.23)の三男であった。堀家は、代々鶴岡で、町医者を営んでいたらしい。

・16歳の時に、父東順が亡くなったので、その後卯三郎は歩いて東京に出てくることにした。途中で、最上川のそばの荒地を見て、水をサイフォンでくみ上げて開墾することを思いつき、「今にお金が出来たらやろう」、と心に誓った。

・東京では、兄、義水(ぎすい)の家に世話になり、経済学とドイツ語を学んだ。兄嫁がいじめたので、「刺し違えて死のう」と思ったこともあったらしい。

・下谷教会に通い始め、信者になって救われた。1886年、卯三郎20歳の時に、下谷教会で洗礼を受けた。

・1893年、卯三郎27歳の時に、婦人伝道師として、『うた』が下谷教会の日曜学校に派遣されてきた。オルガンを弾いていた うた に、卯三郎が声をかけたのがきっかけで、二人は付き合い始めた。

(義人注)「やっぱり出会いはナンパか。僕は、その血を明らかに引き継いでいるなあ」。

・1895年11月6日に29歳で結婚。1896年に長男、義路(よしみち)が生まれる(この義路が僕の祖父にあたる人である)。その後、二年おきか三年おきに子供が産まれ、二男・五女の7人の子宝に恵まれる。最後の7番目の子供の誕生は、卯三郎が44歳のときであった。

・卯三郎がうたと結婚した時、卯三郎は貧乏で、信玄袋一つだった。中身はしらみがいそうに汚かったので、うたは全部煮沸消毒した、と伝えられている。

(義人注)「つまり、山形から出てきた町医者のせがれが、東京に出てきて経済学やドイツ語を学び、教会でナンパして、結婚したのだ。当初は相当貧乏だったらしいが、そこから卯三郎のベンチャーが始まるのである」。

・卯三郎は、先ず始めに大崎で日本鉄工合資会社を創り、資産を形成する。

・その後1909年、卯三郎が43歳の時に、更なる挑戦をする。故郷山形に錦を飾るべく、山形県最上郡舟形村に、三光堰(さんこうぜき)という、水路を建設し、その周辺の荒地の開墾事業を始めるのである。

・この三光堰という名前は、卯三郎がその当時住んでいた芝区白金三光町の名前からつけたのであった。この事業は成功し、徐々に周辺地域で稲作が始まったようである。

・その間、福沢諭吉との縁もあり、その関係者からの出資金があったようだ。

(義人注)今の時代のベンチャー・キャピタル事業か?

・妻うたの長兄、潮田伝五郎が、福沢諭吉の五女である光(みつ)と結婚したことで、卯三郎と福沢諭吉とは、縁戚関係となったのである(福沢諭吉は、卯三郎の義理の姉の父親となる)。

・1920年、卯三郎54歳の時には、中目黒に豪邸を建てるにいたっていた。土地800〜1000坪くらい、家130坪、部屋は16部屋あった。家は近所から目黒御殿と呼ばれていた。竹やぶがあったので、関東大震災の時に(地割れがしないので)近所の人たちが避難した。テニスコートもあった。

・1923年の暮れ12月20日、卯三郎57歳の時に、他界する。そのとき、長男の義路(僕の祖父)は、英国ケンブリッジ大学に留学中で、帰国間近まで父親卯三郎の訃報に触れなかったという。

(義人注)卯三郎は、ベンチャー起業家で、ベンチャーキャピタル事業的なものも営んでいた。その息子の義路は、後に慶応大学工学部の前身の藤原工業学校長でもあった。

卯三郎の曾孫、義路の孫に当たる僕は、起業家として、ベンチャーキャピタル事業を営み、大学院を創設し学長に就任している。これも、一つの縁であろうか。

ここまで調べた僕は、いても立ってもいられなくなり、鶴岡に向かい、卯三郎が16歳の時まで見てきた原風景に触れて、先祖の墓前に手を合わせて、卯三郎がつくった水路と開墾した土地を見ることとしたのである。

アルファードは、万座スキー場に向かう交差点を右折して、水上市に向けて吾妻川沿いの谷間の国道144号線を東に緩やかに進んでいった。水上から関越自動車道を北上して、新潟に向かう予定であった。

早朝に軽井沢を出て、旅の中継地点でもあった新潟県の浦佐に着いたのは、昼の13時を過ぎていた。

2006年8月25日
山小屋にて
堀義人

名言

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