ブータン旅行記Ⅵ - ブータンの日の出 

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朝5時にあたりが明るくなるとともに、目が覚める。ブータンでは、暗くなって食事が済んだら眠り、明るくなったら小鳥のさえずりとともに起きる、という生活習慣が身についていた。

今日は、ブータンで最後の日である。近くにある古城(廃墟となったゾン)が無性に気になり、おもむろに起きがり、トレッキングシューズに履き替え て、ヤッケを被り、外に出た。あたりは、ほのかに明るくなっていた。

空気は、澄んでいて冷たい。宿を出て、小川を渡った。目の前には、棚田が広がっている。ちょうど田植えを終えたばかりか、田んぼの中に小さな緑が連なっていて美しい。農家が見えてきた。美しい白い壁に優雅な木のアクセントがついている。

目の前には、緑の山である。そのままあぜ道を一人黙々と歩いた。暫くすると、丘の上に古城の古いレンガと乾燥した赤茶色の粘土壁が目に入ってた。古城に向けて、思わず小走りになる。中腹にあるストゥーパ(仏塔)を時計周りに歩き、更に登り続ける。

古城に着いた。まさに廃墟となっていた。この古城は、ブータンを統一したシャブドゥンが1600年代前半につくったものと言われている。シャブドゥンは、 別名「建築家(Architect)」とも呼ばれており、ブータン各地に10のゾンを作ったと言う。このゾンも、そのうちの一つである。この谷間は、 以前はチベットへの通り道として活用されている交通の要衝にあったのだが、今は中国がチベットを占領しているので、交通は途絶えてしまったのだそうだ。

古城の中に、タワー(ツチェ)が威厳を持ったまま聳え立っていた。扉が閉ざされいて、タワーの中には入れなかったので、その裏に周り、古城の一番高いところまで駆け登った。

タワー越しに山が見える。雲一つないうっすら明るい青空に、山々が映えていた。近くには、ゲダン山。チョコレートにパウダーシュガーが乗った様な山である。左の奥には、標高7314Mというブータンで二番目に高い ジョモ・ハリ 山である。こちらは、真っ白いチーズケーキのような山で先端が、美しく輝いていた。

真ん前の山の裏手の一点から、光が線のように空中に射しているのが見えた。 「もしかしたら、日の出はまだなのではないか」、という事に気がついた。6 000M級の山なので、太陽がなかなか顔を出せないでいるのだ。振り返ってみると、後ろの山の中腹まで、陽が射していた。この古城も、もう少しで日の出を迎えそうであった。

日の出の方向を見ながら、シャブドゥンがこのゾンでしたであろう瞑想のポーズをしてみることにした。シャブドゥンは、瞑想が好きであったという。シャブドゥンが最初につくったチェリ寺院では、3年間も瞑想をしたと言われている。更に、シャブドゥンが最期を迎えたというプナカ・ゾンでは、彼は瞑想をしたままの姿勢で息絶えたという。

目を閉じてみる。朝の冷たい澄んだ空気が顔に当たるのが感じられた。小鳥のさえずりが聞こえ、遠くからは馬の嘶きも聞こえてきた。ほどなくして目を開けると、山の端から強い光があふれているのが見えてきた。

「いよいよ日の出だ」。座ったまま、思わず日本式に両手を合わせて、日の出を拝むことにした。太陽の光が強く山の端から反射して、放射状に広がってきた。キラキラした光が一面を覆い、僕は、光の中に包まれていった。

太陽の光のエネルギーが体に浸透していくようであった。そのまま恍惚とした状態で、日の出を楽しんだ。こんなに美しい日の出は見たことが無い。日差しが強くなってきたので、目を軽く閉じて、薄目の状態で、太陽が上がり続けるまで堪能した。

農家の人々の声がきこえてきた。どうやら農作業にとりかかり始めたようだ。 僕は太陽が昇りつくしたのを確認してから、古城の中を散策し、宿に戻ることにした。下り道で、農民と出会う。収穫したばかりの緑色の麦の穂を背中一杯に背負っていた。僕の口からは、自然に「グズサンポー(こんにちは)」という言葉が出た。農民はハニカミながらも笑顔で、「グズサンポー」とお返しの挨拶をくれた。心が通じ合う、気持ちがいい瞬間である。

棚田の中のあぜ道を通り、灌漑用の水路を乗り越えて、農家の横を通り過ぎる。小川のせせらぎが聞こえてきた。その小川を渡り、坂を登ると宿に辿り着いた。

宿でメールチェックをして、そそくさとパッキングをして朝食に向かう。食堂では、幸運にもチベットの高僧が朝食をとっていた。横に座らせてもらい、昨 晩からの話を続けさせてもらった。僕は、主に8世紀にブータンに仏教を伝達したグル・リンポチェと、17世紀にブータンを統一したシャブドゥンの人となりについて、教えてもらった。更に、高僧の次回のチベット訪問の計画も聞かせてもらった。

興味があったので、思い切って厚かましくも、「いつかチベットに行くときには、ご一緒させてもらっていいですか?」、とお願いしてみた。高僧は、あの柔和な顔で、「いいけど、宿には暖かいお湯も出ないし、衛生状態も良くないよ」、と忠告してくれた。

僕は、「いつかチベットに行ってみたい」と、常々思っていたので、「絶好の機会かもしれない」、と思えてきた。一方では、「なかなか時期が合わないのでは」、とも不安にも思った。「ま、縁があったら、チベットに行っているのであろう」と思い、あまり深く考えずに高僧と連絡先を交換して、再会を誓い合った。

宿をチェックアウトして、ガイドのニドゥと運転手のセレンとともに、空港に向かった。ブータンの山々、農家、川、ゾン、民族衣装、全ての風景を名残惜しい気持ちで、僕は車の窓から見つめていた。少しさびしい気持ちになってきた。

ニドゥに質問してみた。「これから、ブータンは急激に変わると思うか」。ニ ドゥは、「そうだね。かなり変わっていくと思うね。観光客の数もどんどん増 えてきているしね」、と答えてきた。僕は、ブータンの景色を見ながら、昨晩の高僧の話を思い出していた。

「ブータンには、7年前までテレビが無かったが、今やケーブルテレビで45チャンネルも見られるようになった。日本は、近代化を成し遂げても、固有の言語、固有の文化を維持してきている。日本に行けば、皆会ったらすぐにおじぎをするようにね。でも、ブータンでは、言語の力が弱い。伝統様式の建物と民族衣装を守っても、だんだん英語やインドのヒンディー語の文化に侵食されていくのが心配である」、と。

僕は、それ以上質問はしなかった。車は、いつものようにガタガタ揺られていたが、車内には、静けさがあった。ニドゥもセレンも無口のままであった。そのまま、谷間にあるパロ空港に到着した。既に飛行機はパロ空港に着いていた。彼らは、休む間もなく次のゲストを出迎えることになっていたのである。

6日間面倒を見てくれたニドゥとセレンと、出発口でお別れの挨拶をする。なるべく感傷的にならずに、明るく振舞うように努力をした。そして、彼らは足早に新たなゲストを出迎えに到着口に向かった。そして、僕は日本への帰路についた。

飛行機は、パロの谷間を飛び立ち、山々を越えて、カルカッタに向かった。そして、バンコク経由で成田に着いたのは、翌朝6時過ぎであった。

2006年5月4日
軽井沢の山小屋にて
堀義人

(追記)
5月2日の早朝に成田に到着後、東京の自宅に着いた。午後に子供達が学校から帰ってくるのを待って、家族とともに軽井沢に向かった。軽井沢の緑は明るく、桜が咲いていて美しい。山の景色は、ブータンに負けず劣らず綺麗だと思った。

ブータンの記憶が薄れる前に、一挙に旅行記を書き上げることにした。コラムを書くことにより、ブータンでの思い出を永遠のものにすることができるからだ。写真を撮っていない僕にとっては、このコラムのみが、後々まで残る旅行の証となる筈だから。

軽井沢で子供達と一緒に、鯉のぼりを上げた。緋鯉(ひごい)が5匹もいると壮観である。そして、野球・サッカー・サイクリング・テニスなどを 楽しんだ。子供達が寝静まった夜中に、この旅行記を書き続け、ようやく完成することができた。

ここまでお付き合いいただいたことに感謝している。コメントや感想があれば、ブログかメールを頂けるとありがたい。
皆さんのコメントが、次にコラム を書くエネルギーにるので。 堀義人

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