「パゴダ」は建物の中に入れない塔のことを指し、「寺院」は建物の中に入れるものをそう呼ぶのだと、ガイドのヌーさんが教えてくれた。
仮眠をとったあとで、16:00にヌーさんと待ち合わせして、ティーローミンロー寺院へ向かった。寺院の中には、東西南北に4つの仏陀像が配置されていた。大木をくりぬき、その上に漆を塗って表面を金で染めた全長4Mぐらいはあろうかという仏陀像である。その4箇所の仏陀像をむすぶ回廊が二重になっていて、それぞれの回廊の両脇には、石でできた無数の仏像が置かれていた。
この仏像は、近くから見るのと遠くから見るのとでは、表情が違って見えるのである。ゆっくりと回廊を歩いていると、画家が仏陀の絵を売っている場に遭遇した。いくつか絵を見せてもらった。皆、仏教に関連する絵画である。きめこまやかで配色も美しい。結局、仏陀の生涯が6つのコマの中に描かれているものを買うことにした。仏陀の誕生、王室での生活、出家、悟り、弟子への説法、そして涅槃、これらがそれぞれのコマに描かれていた。僕は、仏陀の生き方に尊敬の念を越えた圧倒されるものを感じている。なぜ何不自由ない王宮の生活を捨てて、6年間の苦行を経る必要があったのか。なぜ悟りを開いた後も迫害を受けながらも教えを広めようとしたのか。なぜそのような至難のみちのりを自ら選んだのであろう。その絵を家に飾り、今後も考えようと思っている。
その後、フレスコ画が美しいスラマニ寺院へ行き、マヌーハ寺院にも足を伸ばした。マヌーハ寺院は、モン族の王様が幽閉されてたこともあってか、大きな仏陀が狭い空間の中に閉じ込められている感じになっている。怒りを表現するために仏像の胸板が厚く作られていた。他にも寺院やパゴダをいくつか回った。全てが圧巻である。仏陀が涅槃に入ってから1300年も経つというのに、仏陀が訪れたことも無いこのバガンの地に、荘厳たる仏教文化が花開いたのである。そして、バガン時代がら既に800年以上も経つというのに、 仏教は相変わらずミャンマー国民の信仰の糧になっているのである。
そのビルマ人に、60年前の第二次世界大戦中に日本人兵士は、優しく受け入れられたのだという。インパール作戦で壊滅的打撃を受け、敗走する日本兵をマラリアと英国兵が容赦なくダメージを与えていった。 しかし、その敗走中の日本兵に対して仏教徒のビルマ人は救いの手を差し伸べ、食料などを与えたのだという。この地で死んでいった戦友の墓や遺骨を探しに、戦後ビルマ入りする日本人は数多くいたらしい。また、助けてくれたビルマ人にお礼をするために現地入りする人も多くいたのだという。
戦後ビルマに戻ってきた日本人の一人が、茨城在住のイワサキさんと言う方である、とヌーさんは説明してくれた。イワサキさんは、ビルマ戦線で戦った後、祖国日本に戻り自ら会社を興した。帰国後、ビルマでお世話になった方を一時も忘れたことがなかったという。イワサキさんは、20年ほど前に時間的ゆとりができて経済的にも楽になったので、ついにその恩人に会いにオールドバガンに戻ってきたという。しかし、やっと探し当てたその恩人は既に他界してしまっていたのだそうだ。だが、恩人の孫とは面会することができた。
イワサキさんは、その孫に恩を返そうと、日本に招待したのだという。その孫という方が、何と目の前にいるガイドのヌーさんだという。ヌーさんは、イワサキさんに勧められて、日本で2年間ほど教育を受けながら働いたのだという。そのときのことを懐かしそうに僕に語ってくれた。
僕は、ヌーさんにお願いして、日本人兵士の慰霊塔に連れて行ってもらうことにした。ゴドーバリン寺院の近くの僧院に、慰霊塔があった。ビルマでは日本人兵士が計19万人も死んだと言われている。祖国のために異国の地で死んでいった方々は、何を思っているのであろうか。その慰霊碑には、「平和の礎となった方々の冥福を祈る」、という趣旨の言葉が刻まれていた。静かに手を合わせて冥福をお祈りした。
ふと見上げると夕暮れ時になっていた。夕陽の名所と言われているジュエサンドーパゴダに向かった。サンダルを脱いだが、レンガはもう熱くなかった。あいにく曇が太陽を包んでいて、夕陽をみることができなかったが、夕暮れ時のパゴダとイラワジ川、そして向こうに見える山脈が美しかった。
翌朝5時半に起きて、ジョギングをしてジュエサンドーパゴダに再度戻ってきた。パゴダの頂上に登り終わった時に、朝陽が雲の合間から顔を出した。思わず初日の出をお参りするかのように、合掌してお祈りした。
ジョギングを終えて、バガンのホテルを後にした。ポッパ山でタウンカラに登り一泊した後に、バガン空港から、ヤンゴン空港に向かい、バンコクに着いた。飛行機の待合時間が長かったので、バンコク市内まで足を伸ばしてみることにした。
バンコクには1987年以来、出張を含め、 既に10回以上訪問している。今や バンコクは、高速道路や高架鉄道が走り、高層ビルが建ち並ぶ大都会になっていた。人々は物質的な資本主義社会に慣れ親しんでいるように見える。あの貧しさと悪政の中でも、ニコやかに生きるミャンマー人とは覚醒の感があった。そして、夜行便に乗り、同じ仏教国である日本に帰国した。成田エクスプレスで降り立った東京駅で、ついつい歩いている日本人の表情と、屈託の無い村人達の表情とを比較してしまう。
誰もいない東京の家に戻り、荷物を置き、家族が待つ山小屋に直行することにした。山小屋では、ゴールデンウィークの前半をパパ無しで過ごすことになった4人の子供達と、一人奮闘しながら面倒を見てくれた妻が待っていた。僕はわがままでを償うつもりで、それからのGWの後半は、ファミリー孝行に徹することにした。外で子供達と遊びながらも、ミャンマーでの出来事を頭の中で引きずっていた。軍事政権下で抑圧され貧困の中に生きていても、仏教の教えを大切に信仰してニコやかに生きる人々に僕らは何ができるのであろうか、と考えていた。
先ずはできることからやるべきなのだと思う。 今回の出張から戻ったら、早速BAJに寄付をすることからでも始めようと思う。小額でも村人達に必要な水を提供できるのである。ボランティアの人たちが確実に村人達に笑顔をもたらしてくれるのである。
ビルマの宗主国である英国の首都で、そう考えながら、この旅行記を書き終えることとする。 とはいっても、僕の旅行は終わらない。 次はどこの旅行記を書くことになるのだろうか。ブータン、ネパール、モンゴル、それともペルーか。でも、家族と仕事のことを考えると簡単な道のりでは無いことは確かである。
ま、縁があるときに、またフラッと気軽な旅に出たいと思う。自由な心がおもむくままに。
2005年5月19日
ロンドンのホテルで思い出しながら執筆
堀義人