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ミャンマー旅行記その3-村人の生活

投稿日:2005/05/23更新日:2019/08/21

ミャンマー入りしてから3日目の朝7時にヌーさんというガイドさんと会った。茨城県に2年間ほど住んでいた事があるそうで、日本語が上手である。

先ずは、オールドバカンを抜けて朝市に向かった。オールドバガンを通るときに、ぼそっとヌーさんが、「1988年までは、ここに住んでいたんですよ」と教えてくれた。「軍事政権となったときに軍人が来て、理由も無く追い出された。体を張って抵抗したが、力にはかなわなかった」、と今では吹っ切れたのか、辛かったことを平然とした表情で語ってくれた。

タラバー門を抜けて、タウンビー村の市場に向かった。市場には、魚、野菜が豊富に並べてあった。いくら経済的に貧しくても食材は豊富なのである。家族愛があり、守るべきコミュニティがある。そして何よりも、仏教の厚い信仰があるので、国民は皆表情が明るい。

午前中に、ジュエズィーゴォン・パゴダに向かった。パゴダの前に、灯篭のようなものがあり何やら書かれていた。質問をすると、「寄付した人の名前だ」、という。ヌーさんが言うには、「仏陀は寄付を求めなかった。寄付して名前を残すことを目指すことよりも、本来施しを受けるべき人に直接恩恵がある形で寄付するのが一番良いのではないか」と語ってくれた。

そして、日本に関しても言及された。「日本政府がミャンマーに多額の寄付をしているのはありがたいことだが、国民の生活を豊かにするのにどれだけ使われているのかはわからない。それよりもBAJのように、金額が小さいが、貧しい農家に水を供給する活動の方がよっぽど価値がある」と。

BAJとは、Bridge Asia Japanの略で、貧しい人に水を提供しようということで活動しているNGOのボランティアの集団だという。この辺では、BAJのことを知らない人はいないという。そこで、ヌーさんにお願いし、急遽予定を変更して、BAJの事務所に連れて行ってもらうことにした。着いた事務所は、非常に質素な場所にあった。電話も一本だけでパソコンもおいてなかった。デスクも古い木製のものであまり使われている形跡が無い。あいにく日本人のボランティアは全員出払っていた。皆、現場に出向いて、井戸を掘るための作業をしているのだという。

そこで、近くにあるBAJが掘った井戸を見せてもらうことにした。プワーソー村の小学校のはずれに、井戸があった。その井戸は、電動式になっていて、老人がボランティアで管理をしていた。ひっきりなしに、村人が水を汲みに来ていた。老婦人や幼い子供の姿が多かった。嬉しそうに水を汲んだあとに、木の棒の両脇に大きな石油カンのようなものを紐でぶら下げて、バランスを取りながら肩に乗せて重そうに持ち帰っていった。村には水道も電気も通っていないのである。

水を汲んでいる人に「この井戸ができて良かったですか?」と質問をしてみた。「そりゃ助かっているよ。この井戸ができるまでは、数キロ離れた川まで牛車で運ぶ必要があった。BAJが来てくれて井戸を作ってくれた。これはありがたいことだ」、と。興味があったので、そのまま村にも潜入させてもらった。ヌーさんに交渉してもらい 、家にも入れてもらった。さすがにビックリした様子であったが、笑顔で対応してくれた。

そこには、年の頃、50代後半ぐらいの男性と70歳ぐらいのおばあさんがいた。敷地は広く、寝室、作業室、竈がそれぞれ別々の草葺の質素なつくりとして独立していた。牛がゆっくりと休んでいて、犬がうろちょろしていた。牛と犬とが同居した生活であった。

電気も無いので、電化製品など全くないし、本や衣服なども無い。作業場みたいなオープンな場所でおばあちゃんが一生懸命に笑いながら、手と足を器用に使いながら何やら紡いでいた。慣れた手つきだ。木の柱に、孫の写真がかかっていた。娘はマンダレーで看護士となり、息子はヤンゴンで電車の運転士となったらしい。二人とも立派な制服姿で写真におさまっていた。直感的に、「おそらく、この二人はもうこの村で生活することはないのであろう」、と 感じた。都会の生活は豊かで良い 。しかし、お父さんとおばあちゃんの屈託の無い笑顔を見ていると、都会の生活と、どちらが幸せなのかわからなくなってくるほどであった。

近くで村長さんが、ゴマを牛にひかせて、ゴマ油をつくっていた。子供に重石になってもらいながら、ひたすらもくもくと轢いていた。村長と言っても、正式な選挙で選ばれたわけではなくて、酋長を選ぶのと似たようなプロセスで、阿吽の呼吸で決まっていくらしい。あとでヌーさんが説明してくれたが、この村はミャンマーでも最も古い村の一つらしい。前首相がバガンが大好きで、良く来ていたらしい。村人との対話集会で、前首相が「何か不便なものは無いか」と質問したときに、「もっと教育を受けたい」と答えが返ってきたので、この村の若者に特別に奨学金が与えられたという。そして、現在8名ほどが都会の大学で勉強しているとのこと。

都会の大学で学んでいる彼らも恐らくこの村に戻ってきて生活することはないのであろう。数十年後に僕がこの村に戻ってくるときには、どのように変わっているのであろうか。もしかしたら電気と水道が通っているのかもしれない。あるいは、過疎化が進み、もう存続が危ぶまれているのかもしれない。もしかしたら、あの屈託の無い笑顔にはもう出会えなくなるのかもしれない。日本が豊かになってきた道のりを、ミャンマーも経ていくのであろうか。複雑な心境である。

そう思いながら、村を後にした。そして、すぐ近くにあるダマヤッズィカパゴダに向かい、そのパゴダの上に登った。そこから見えるパゴダの林立した光景には息を飲まされた。日陰で暫くの間、 ぼ〜と、赤茶けたパゴダ、それを囲む緑の木々、そして青い空の光景を眺めていることにした。じっとしていたが、だんだんと暑くなってきた。パゴダに入るときは、必ず裸足になる決まりがある。 陽射しが強くなるとレンガが焼けて、熱くなる。 火傷しそうなぐらい熱くなってきたので、名残惜しい気持ちを振り切って、熱いレンガの階段をかけ降りていった。

アーナンダ寺院に立ち寄った後に、ホテルに戻って休憩をとることにした。

2005年5月16日
ニューヨークのホテルで思い出しながら執筆
堀義人

 

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