いわきの朝。小さい余震が続いていた。そして、大きな揺れを感じて、テレビをつける。震度4との表示。ま、大したことは無い。テレビでは、天気予報とともに、福島県各地の放射線の強さを表示していた。「本日の放射線、0.35マイクロシーベルト」。こちらも大したことない。
KIBOWいわきを終えて翌朝の感想。いわきは、逞しい人々を輩出している土地だ。津波に流された漁港・海岸、更には人影がない20KM圏内など被災地に行くと、絶望的な気持ちになる。だが、KBOWいわきで人々と意見交換すると、逆に元気をもらえる。人々の内面から強いものが出ているのを感じた。
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さて、今からいわきの避難所、物資流通拠点となっている競輪場、そして、御代さんが物資を3日間送り続けた、泌尿器病院等を訪問し、東京に戻ることにする。僕は、いわきをどんどん好きになりつつある。
FMいわきを聞きながら移動。30分おきに放射線値を報道している。午前11時時点では、0.36マイクロシーベルト。全く問題ない。いわきの人々は、皆冷静だ。小名浜で、御代さんをピックアップして、いわき市小名浜支所へ。プラス社とグロービスとで共同で購入したクレヨンとパステルを届けるためだ。
支所で、永崎小学校、江名小学校の両校長先生の出迎えを受ける。両校とも女性の校長先生だ。とても感じが良い。二つの小学校に、ワンボックスカーのトランクいっぱいに積み上げられた文房具を寄付した。プラス様、GMBAの伊藤さん>しっかりと届けてきましたよ。あとで写真をアップします。
永崎小学校は、津波の影響で、今閉鎖中。その間、江名小学校にて合同で授業を受けていると言う。その江名小もおとといの地震で、休校となった。永崎小学校の校長によると2M近い津波が押し寄せ、校長先生のお車が、校舎の廊下まで入り込んだと。
永崎小学校経由で、いわき平競輪場に向かうことにした。
途中で、Twitterに早速返事が来る。「子供が永崎小に通う者です。はじめまして。今は家が壊れそうなので新潟県で小学校に通わせていますが、余震が収まったらいわきに早く帰りたいです。子供達に文具類をありがとうございます! KIBOWを応援しています」。「微力ながら貢献できてうれしいです」、と返事を出す。心が温まる瞬間だ。
物資集積の拠点となっている、いわき平競輪場を訪問。競輪場の周り、そして地下駐車場いっぱいに、滋賀県・岐阜県・東京都港区等から届いたペットボトル入りの水、レトルト食品、おむつ・生理用品、毛布、お米、古着が山のように積んであった。そこに少数の自衛隊と日通の人が。どう考えても余りそうだ。
競輪場にゴミ・エリアがある。毛布や古着には、×が書かれており、恐らく捨てることになろう。集まった物資は、優先的に避難所にまわされるらしい。だから避難所には物資が溢れているようだ。
僕らが運んだ文房具も、市役所に渡すように当初言われた。市役所経由にすると競輪所に運ばれることが目にみえていたので、直接永崎・江名小に電話し、校長先生に手渡すことにした。僕らのその判断は正しいことが証明された。個人・有志による物資の供給は、ピン・ポイントが一番効果的だと思う。
善意により集められ、送られた物資が、山積みにされ、緊急時に必要な人々に手渡されずに残されている現実を目の当たりにすると、複雑な気持ちになる。後で聞いたのが、賞味期限切れ間近、一部期限が切れたおにぎりなどを、「急にばら撒いてくれ」と要請が来るらしい。官に近づけば近づくほど非効率になる典型か。
いわき泌尿器科病院へ。御代さんがリーダーシップを発揮し、グロービスの社員、GMBA生、いわき出身の友人計100名が、3連休連日、4トン車で物資を届け続けたのが、この病院だ。桜が咲く川のほとりにある病院の中へ、ドキドキしながら入る。受付横の廊下の壁の横には、東京で手伝った人々が書いた「頑張っぺ、いわき」の色紙が大切そうに飾ってあった。
病院で、評議員の神原さん、総務の大和田さんを訪ねた。お二人は、「一番行政の手が届いていない病院へ」という着想で、いわき在の友人記者に紹介してもらい、御代さんが電話で直接コンタクトした相手だ。大震災後に何度も何度も電話先で連絡を取り合った相手通しが、初めて会う場面に、僕は奇遇にも遭遇できた。
開口一番、深々と頭を下げて、「一番苦しい時期に救ってくれてありがとうございます」と言われた。「あの当時は、水も食料も無かった。震災から18日まで、行政からは水以外は、何も届かなかった。保存してあった米で炊いたおにぎりとレトルトのみで、過ごしてきた。本当にトラックが届いたときは、夢かと思った。
あの当時は、家に帰っても水が出ないので、職員を含め皆病院に寝泊まりしていた。缶詰やおかずが届いたときは、涙が出るほど嬉しかった。女性は、生理用品をありがたかっていた。職員に配った後に、患者さんにも渡し、そして近くの病院にもお裾分けした。運転手は、荷物を下ろしてすぐに去って行ったので、タイガーマスクが来て、届けてくれたかのようだった。
3連休に4トントラック満載の物資が届いた後は、競輪場に物資を取りに行った。最初は、比較的容易に物資を運びだせたが、その後申請が必要となり、週二日になり、今は医療や介護関係者は、運び出せなくなった。スーパーでも十分物資があるので、余裕がある。でも、一番苦しかった時期に届いた援助は、本当にありがたかった」。こころなしか感謝の気持ちで涙ぐんでいるように感じられた。
東京で物資をかき集めてくれた人々が送った色紙の前で写真を撮り、病院をお暇することにした。病院からは、おみやげとして、うにかん、ロッサージュ、じゃんがら等の地元いわきの菓子類を両手いっぱいにもらった。お二人が見えなくなるまで手を振っているのをバックミラーで確認して、車は右折し、東京への帰路についた。
胸の中に熱いものが込み上げてくるのがわかった。僕は、あくまでも傍観者なのだが、人の役に立っていることを実感できることは、とても嬉しいことだ。帰路、陥没した道路を復旧する工事のため片側通行で、渋滞にはまる。これだけ地震が多いと、修復してもすぐ次の工事が必要になるのだろう。
運転を代わってもらい、ツイッターで呟く。
今、常磐道を南下中。高速道でも修復していた。今水戸を越えて、土浦の手前だ。右手には、筑波山の△とオレンジ色の夕陽の○だ。土浦までは、いわき・水戸と同様、「がんばっぺ」が共通言語だ。今回のKIBOWいわきで、(大げさだが)いわきと水戸、そして東京が一緒になった気になった。頑張っぺ、いわき!
KIBOWいわきの次は、KIBOW仙台だ。水戸、いわきと北上し、次は、いよいよ杜の都・仙台でKIBOWを行う予定だ。日程は、5月の中旬で調整中。仙台在住の方、仙台出身の方とともに、仙台の未来を、そして日本の未来を討議できることを楽しみにしている。
街、そして日本の未来を創る力の源は、僕らの希望(KIBOW)のパワーなのだ。夕方7時前に車は、二番町のオフィスに着いた。3人で荷物を持ち、グロービスの事務所に運び、ぼくらの二日間のいわき訪問を終えることになった。平野さん、御代さん、お疲れ様でした。
そして、いわきの皆さん>本当にありがとう。僕の方が、エネルギーをもらった気分です。
2011年4月14日
ツイッターを加筆修正して、二番町のオフィスにて完成
堀義人