タジキスタンで秋野豊氏が何者かに銃撃されたという悲報にふれてから、早49が経過しようとしている。先日、東京フォーラムで「秋野豊氏を偲ぶ会」が開催されたので、参加してきた。
天皇陛下からの贈り物が置かれたステージで、冒頭にl小渕首相のお言葉を頂き、そして高村外務大臣、筑波大学学長と蒼々たる面々が、哀悼の辞をそれぞれが心のこもったお言葉を述べらた。その後、ビデオあり、友人からの追悼の言葉があったりで、とても感じるものが多くある告別式であった。
秋野氏は、僕の父の従兄弟にあたる。秋野豊氏のお兄様が、東海村の我が家の近所に住んでいたこともあり、筑波からバイクに乗ってよく遊びに来ていた。僕は、小さいころから豊氏にバイクに乗せてもらうなど、遊んでもらった。工学系学者が多い親族の中ではめずらしく文系の研究を続けており、ソ連関連のプロとして、現場主義や足で稼ぐ情報を重視した姿で、常に世界を飛び回っていた。ソ連の崩壊時のコメンテーターとしてもテレビにも出演していた。僕は「豊さん、頑張っているな〜〜」と常ににこやかに見ていた。日本の学者としては、珍しくバランス感覚のとれた洞察力のある視点には、いつも感服させられた。
「もともと、人間はそれほど賢くないのではないか」と思うようになった。長い間の教訓を学ばないのが人間。われわれは、弱い存在だな、という気がします。でも、「このままではいけないんですよ」と語っていた秋野豊氏は、ソ連崩壊後の中央アジアの紛争地域であるタジキスタンの平和維持活動中に、「長い間の教訓を学ばない」人間から、至近距離で8発銃撃を受けて死んでしまった。
秋野氏の印象に残った語録を覚えている範囲で記します。
「人間にとって重要なことは、3つある。一つが生命体として、生きていることに感動すること。2つめが、自分の能力を最大限に活用することである。3つ目は、それらを実践するための知識と知恵を習得することである。最初の1、2が最も重要である」。
「文献を読んで分析をしただけでは、満足のいく現状認識はできない。常に、現場に足を運び、そこに住んでいる人から生の声を聞き、総合的に判断することによって初めて状況判断が可能になる。ものごとは多面的に捉える事が重要である。常識を否定して、オリジナルな発想を持たなければならない。」
「常に“生きる事”を真剣に考えたい。 何のために生きてきたのか?何を実行すべきなのかを常に問い詰めたい。そして、行動。行動が無ければ、腐ってしまう」。
「人生はラグビーに似ている。グラウンドいっぱいに、自分という球を動かした い。逃げずに勝負したい」
キラキラと輝いた生き方をした親族の一人を失う事は、とてもつらい事です。
僕も、ずっと問い詰めたいと思っている。なぜ使命感を持って、行動した人間が遠い異国の地で死ななければならなかったのか」 「豊氏の死は、僕にとって何を意味するのか」・・・。
僕は豊氏のお母様から、「豊の遺志を是非継いで欲しい。豊もそれを望んでいると思う」と直々に言われた。
さてさて、今後どういう形で引き継ぐべきか真剣に考えてみたいと思う。
(北海道新聞の記事より)
「現代のマルコポーロになりたいんです」。タジキスタンで亡くなった秋野豊さんは、昨年五月、北海道新聞の連載企画「北海道ひと紀行」の取材でインタビューした際、そう語っていた。「現地へ行って、初めて分かることがある」という、徹底した現場主義。冷戦体制崩壊後、動乱の続く世界各地を駆け続けた行動派の学者の人生は、まさにその現場で突然の終止符が打たれた。
小樽生まれの道産子。量徳小、住吉中、小樽潮陵高を経て、早大政経学部卒。北大法学部に再入学して当時のソ連・東欧に興味を持ち、同大大学院からロンドン大スラブ東欧学研究所に留学。帰国後、北大法学部助手を経て、八三年、モスクワの日本大使館専門調査員になり、ゴルバチョフの登場を間近に見た。
八六年に筑波大講師、八八年から助教授として教壇に立ったが、活動は大学の枠にとどまらなかった。経験と知識を買われて、たびたびテレビ出演したほか、九一年四月に当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が来日した際には、北海道新聞に「秋野 豊の目」を連載し、日ソ関係の未来を的確に分析。国際情勢の先を読む洞察力には定評があった。
九二年、チェコ・プラハの研究所に留学したころから、冷戦後の世界を揺るがせていた民族・地域紛争の研究に本格的に取り組み始める。九四年に帰国後も、アフガン、ユーゴ、チェチェン、中央アジアと、常に紛争の最前線に飛び込んで現地を踏査。「四年ほどの間に、十回ほど取り調べ、逮捕、強制送還された」という、危険と隣り合わせの生活が続いた。
学者としては型破りのそんな幅広い活動を支えたのは、柔道とラグビーで鍛えた体力と気力。「危険な所に行くときは気合の勝負です」。ゲリラの指導者と、武道を通じて親しくなることもあったという。
しかし、悲惨な内戦や民族紛争の現場を歩いた経験から、「もともと、人間はそれほど賢くないのではないか、と思うようになった」とも語っていた。「長い間の教訓を学ばないのが人間。われわれは、弱い存在だな、という気がします。でも、このままではいけないんですよ」。筑波大を退職し、国連タジキスタン監視団の政務官として日本を出発する際の記者会見でも「日本のユーラシア外交は、汗をかくことはまだまだの面がある」と、国際貢献への意欲を語っていた。
九四年から札幌住まい。大学での講義の際には、筑波まで飛行機で「遠距離通勤」を続けた。札幌に引っ越したのは「一番、居心地の良い所に住みたいから」。「北海道はいいですね。実に開放感がある」と、道産子としての故郷への思いを語っていた。
「人生はラグビーに似ている。グラウンドいっぱいに、自分という球を動かしたい。逃げずに勝負したい」。知る人すべてが「好漢」という秋野さんのそんな思いは、非情な銃弾によって絶たれた。