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ヨルダン訪問記(その1)

投稿日:2004/05/18更新日:2019/08/26

ヨルダンの国王から招待を頂き、中東のヨルダンに来ることになった。

ヨルダンの首都アンマンと言えば、あのイラクで拘束された日本人3人が陸路バクダットに向かうために使った中継基地である。逢沢外務副大臣が事件解決まで滞在した場所でもある。つまり東側は、戦争状態のイラクと陸続きである。西側の国境は、イスラエル及びパレスチナ自治区に接している。自治区におけるイスラエル軍の進軍・攻撃などは、こちらでも連日報道されている。ヨルダンの6割がパレスチナ難民であるので関心も高い。北側はシリアで米国による経済制裁が始まったばかりである。そして南側がサウジアラビアである。こちらは、比較的平和で穏健な国である。

この時期にヨルダンに行くべきかどうか迷ったが、最終的に行くことにした。理由は、ヨルダン国王がわざわざマレーシアのランカウイ島まで僕らのために来てくれたことに敬意を表さなければならない。コラム:「ニューアジアンリーダー(NAL)のリトリート参加報告」参照)。また、周辺地域が危険とはいっても、ヨルダンは平穏である。しかもあの国王が統治する国である。ランカウイ島でヨルダン人のビジネスパーソンとも親しくなったので、安心感もある。ペトラ遺跡や紅海に面するアカバ湾、ヨルダン側からの死海にも行ってみたい。当然、ダボス会議が運営するヨルダンサミットに出席することや、帰路アブダビの投資家候補に会うのも重要な仕事の一環である。 安心できるし、行ってみたいという願望があった。

そこでヨルダンに行くことに決めて、計画を立て始めた。せっかく中近東まで行くならば、予定より2日ほど早くヨルダン入りして、各地を回ろうと思った。特に、ペトラ遺跡、ワディ・ラム砂漠、アカバ湾などは、この目で見て空気を体感したい。土・日は会合なので(中東ではいずれにせよ金曜日は休みだ)、有休休暇と振替休日を利用し、ホテル代を含め費用は全てポケットマネーで出すことにした。トップでいると公私を分けるのは難しいが、可能な限り自分が納得できる範囲で分けるようにしている。

5月9日月曜日、東京で通常通り仕事をし、成田発夜9時55分のエールフランスで、13時間かけてパリへ。パリ着は、火曜日朝4時である。中途半端な時間だ。朝ホテルに入り、プールで泳ぎ、Apaxのパートナーや投資家候補と会い、そして翌日水曜、ヨルダンのアンマン空港へ向かった。7時間程のフライトだ。ヨルダン上空の飛行機の窓からの風景は、今まで見たことがないものだ。一面灰色と茶色が混ざったような色で、緑が全く無い。砂漠ほどサラサラしておらず、土が固まって乾燥しきってしまったような感じだ。しかも、ずっと人工建造物も見えない。夜の7時30分なのに空はまだ青々としていた。雲ひとつ無い。灰茶色の地平線と青い空との間は、土の埃のような灰色のぼんやりしたものが見える。地平線から空まで3色で彩られている。空港から車でアンマンまで向かうときには夕焼けを見た。美しい、の一言だ。

アンマンで1泊した後、木曜の朝8時にホテルを出た。真っ先にアンマン市内にある国王の宮殿に立ち寄った。その後、‘砂漠の道'を一路ペトラへ向け南へ進んだ。ペトラ遺跡は先週(2004/5/8)のTBSテレビ『世界ふしぎ発見』でも紹介されていた岩山をくり抜いて神殿や家を造ったナバテア人の王国である。映画『インディー・ジョーンズ-最後の聖戦-』にも出てきたのでご存知の方も多いと思う。

3時間ほどしてから、ワディ・ムーサという街のペトラの入口に程近いホテルに着いた。チェックインし、荷物を降ろした後、歩いてペトラの入口まで向かった。ペトラの入口から馬に乗り、岩の境目まで300メートル程進んだ場所で馬をおり、シークという岩に囲まれた通路に入っていく。全長1.2キロで、幅は狭いところでは3メートル程しかない。30分ほどゆっくり下ると、岩の境目からエルハズネの赤い顔が飛び込んでくる。エルハズネとは岩をくり抜いた宮殿である。感動で声が出ないほどだ。

日差しが強い中、ローマ風のコロシアムや神殿を見たあとに、アラブ料理の昼食をとった。昼食後は、ロバに乗り、山頂にあるペトラ最大の建物エド・ディルまで登った。その道は、思ったよりも険しい。映画『インディー・ジョーンズ』のテーマ曲、「パカパパ〜ン、パパパ〜ン」というフレーズを思わず口ずさんだ。横にいたガイドが笑っていた。

頂上のエド・ディル寺院に着いた。岩を組み立てて神殿や住居をつくったのは見たことがあるが、岩をくり抜いて作られた寺院は初めてである。独創的でインパクトがある。エド・ディルの神殿の中に入り、目を閉じて静かにその当時のことを想い浮かべてみた。リーダーのもと強いビジョンに向かい、勤勉な人々が喜びながら働いている姿が浮かび上がってくる。賢くて、文化レベルが高い、勤勉な人々が作り出した豊かな都である。当然グロービスのリーダーとして考えることは1つである。「グロービスでもこのように独創的な発想で、新しい枠組みのキャンパスはつくれないだろうか」と。こうしていても仕事のことが頭から離れない。

その日は、ワディ・ムーサで1泊した。プールサイドのテラスでルームサービスの食事をとった。遠くからコーランの響きが聞こえる。ゆっくりと日が沈んでいった。

翌日金曜日の朝8時にワディ・ムーサを出発、ワディ・ラムという砂漠地帯を見学し、紅海にあるアカバ湾へ向かった。昼過ぎにアカバに着いた。アカバでは、ビーチサイドでのんびりして、夕方のサンセットクルージングを予約した。小さなアカバ湾の中に、4ヶ国がひしめいて共存している。船からは、サウジアラビア、エジプトが見える。イスラエルのリゾート地エイラートはすぐ横である。エイラートもアカバも海岸線の全長は20kmほどしかない。国境線など目に見えるものは当然無いが、イスラエル、ヨルダン間の緩衝地帯のようなものは見ることができる。船で出会ったヨルダン人に誘われ、地元のアラビア料理店でヨルダン産の白ワインとシシカバブに舌鼓を打った。

一夜明けた土曜日、早めに起床し、ビーチサイドに行き、日の出を見た。そして朝7時半にヨルダン国王が待つ死海に向かって北上した。途中、砂嵐で1メートル先も見えず、3回も車がとまった。運転手によるとこれだけ強い砂嵐は初めてだということだ。海抜1000メートルのアンマン高原から一挙に海抜マイナス400メートルの死海に車が降りていく。その道の両脇に50メートルおきに機関銃を持った兵士がこちらを睨んでいる。装甲車もところどころに待機していた。途中で車を停め、バスに乗り換えて会場となるモーベンピック・ホテルに向かった。その途中で2回も兵士が中に乗り込んできて、身分の確認をしていく。無理も無い、隣国はイラクとイスラエルである。しかも噂によるとパウエル米国国務長官も来るらしい。

やっとのことでホテルにたどり着き、チェックインした。時間があったのでプールで 泳いだあと、死海のビーチまで足を運んだ。死海は2度目である。前回は、1998年にイスラエル側から死海に入った。今回はヨルダン側からだ。ゴーグルをつけ、海の中に潜ってみた。こちらの方がイスラエル側に比べて心持ち水がきれいに感じた。でも、塩水が口や鼻から染み込んでくるし、死海でのあの浮かんでいる感覚は気持ちが悪いので、長くは入っていられない。塩水を洗い流して、部屋にもどった。

そして、白シャツにネクタイを締め、紺のスーツに身を包み、黒い革靴を履き、会場であるロイヤルテントに国王のスピーチを聞きに行くことにした。

2004年05月15日
ヨルダンの死海のホテルにて

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