「自己責任」という言葉をネガティブにとらえる風潮があることを危惧している。自由があるからこそ、自己責任がある。自己責任を否定することは、自由を持たず他人のいいなりになることを意味するのだと思う。
実は我が家の5人の子育てにおいて「ジコセキニン」は、子どもたちが最も早く使い出す言葉の1つである。子どもがつまずいて転んでも、駆け寄っていって「大丈夫」などと抱きかかえることはしなかった。自分で立ち上がるまで、我慢強く待ち続けた。自分に責任があって転んだのだ。自らの力で立ち上がり、自らがなぜ転んだのかを反省して、次に再発しないように考えさせるのが、我が家の教育方針だ。
子どもがジャングルジムで遊ぼうとしたとき、周囲の親たちが「危ないからやめなさい」と止める中、僕は「自己責任だよ。自分で危険を察知して、自分の判断で登るんだよ」と言いきかせた。一瞬考えたのちに子どもは「ジコセキニン、ジコセキニン」と言いながら、慎重に一歩一歩ジャングルジムを登っていった。
子どもたちは「ジコセキニン」が口癖になった。何をするときにも自分でリスクを認識し、やるかどうかを自分で判断し、自ら責任を負う性格に育っていった。五男が小学校1年生のときに転んで手の骨を折ったことがある。痛かっただろうが、泣かなかった。「自分で転んだから自分の責任」。そう思ったのだろう。
もちろん命に関わりそうな危険がある場合は止める。だが、基本的には自らが危険を体感する状況に置かないと、危機管理能力は養われないし、成長にもつながらないと思っている。
グロービスの人事ポリシーの中にも「自由と自己責任」という考え方が明確に書かれている。まず社員にはできる限りの自由を与える。他人に無理強いされることなく自分がやりたいことができる環境をつくり、意思決定の権限を与え、自分の裁量で仕事をさせる。働く時間も服装も自由だ。
当然その自由には責任が伴う。「これをしてはいけない」と命令や規則でしばるのではない。ビジョンとミッションをベースに自ら判断し、行動する。規則や命令に縛られていると自分で判断する能力が奪われ、結果的に個人の成長機会を奪うことになる。個人の成長なしには企業も成長しない。「自由と自己責任」の文化を醸成して各人の成長を促すことがとても重要になる。
僕は前職の住友商事の時代、待遇に不満を持っていた。平社員は一生懸命仕事をしてもボーナスにほとんど差はなかった。他の人より高い生産性で働き、どんなに大きな成果をあげたとしても、長く残業した人の方が給料を多くもらっていた。理不尽だと思った。
そこで上長に「成果をあげても給料が増えないなら、代わりに自由をください」とお願いした。懐が深い上司だった。以来、一切指図されなくなった。自分で自由に時間を使い、自由に判断して、勤務時間も場所も自由になった。自由であるということは僕にとって大事なことだった。当然、自由の分だけ成果についてもシビアに問われる。自由が奪われないよう、一生懸命に働いたものだ。
その後も僕は「自由と自己責任」の人生を送ってきた。留学先の米国のビジネススクールで得た着想を日本に持ち帰り、自分の判断で会社をやめてグロービスを起業した。グロービスでは自分の判断で会社の意思決定をし、失敗したらすべての責任を負った。事業が軌道にのるまでは苦しい時期もあったが、失敗をバネに良い方向に行けるように努力してきた。
これからも自由と自己責任をモットーに、思う存分いろんな事にチャレンジしていきたい。自己責任というのは、自由な人のみが持てる特権であると考えるべきだろう。何て素晴らしいことだろう。
※この記事は日経産業新聞で2017年7月7日に掲載されたものです。
日本経済新聞社の許諾の元、転載しています。