※この記事は日経産業新聞で2016年3月18日に掲載されたものです。
日本経済新聞社の許諾の元、転載しています。
人工知能(AI)対人類の世紀の囲碁の決戦は4対1でAIに軍配が上がった。「言葉が出ない」。囲碁の世界トップ級で韓国人のイ・セドル九段が連敗を喫した2局目の後に漏らしたこのフレーズが、衝撃の大きさを物語っていた。
僕はほぼ全てのゲームをライブで観戦した。iPad(アイパッド)で日本棋院が運営するサイト「幽玄の間」の解説付き実況中継を、iPhone(アイフォーン)にイヤホンを付けユーチューブの英語解説を、食い入るように視聴した。
米グーグル傘下の英ディープマインドが開発した「AlphaGo(アルファ碁)」は、最初の3局は完璧に戦い、4局目も途中までは一貫して優勢に進めた。ところが4局目の途中、AIの陣地にイ・セドル棋士が突っ込み、奇手を放った直後からAIは急に乱れ始めた。明らかなミスを連発、あれよあれよという間に形勢は逆転。人類がAIに一矢報いた。
今まで作られてきた囲碁のAIは「モンテカルロ木探索」と呼ばれる手法を使っている。乱数を使い膨大な数の局面をシミュレーションし、最も勝率が高い手を選ぶ。ディープマインドはさらに過去棋譜というビッグデータを大量に読み込ませて大局観を植え付けるとともに、アルファ碁同士を対戦させて手の有効性を検証させ、AIの力を格段に引き上げた。
しかし4局目、AIは突如崩れた。分岐点となったプロ棋士の一手が予測し得なかったものなのか、データになかったのかは分からない。囲碁とAIに詳しい人の話では、AIは劣勢になると「やけくそモード」に入って、考えられない手を連発するという。5局目は、AIが立ち直ったものの、序盤は手筋を間違えていた。まだまだ人間が勝てる余地がありそうだ。
ユーチューブで解説したマイケル・レドモンド棋士によると、囲碁4000年の歴史の中に2つの革命があった。1つ目が近代囲碁の祖と言われる本因坊道策が江戸時代にもたらした爆発的進歩。2つ目が昭和の碁聖と称された呉清源棋士による新たな布石だ。アルファ碁は3つ目の革命の担い手として囲碁界に新たな風を吹き込んでいる。それまで計算が難しかった碁盤の真ん中と辺のそれぞれの価値をてんびんにかけ、大胆な構想力と緻密な計算で打っている。人間の想像を超える新たな考え方をもたらし、囲碁の楽しさを広げてくれた。
AIは今後、プロ棋士(人類)の囲碁の打ち方を変えることになるだろう。プロ棋士がAIの手を学び、囲碁を進化させる。人間はさらにAIのバグを発見し改善していく。AIと人類とは新たな進化の局面に入った。
囲碁AIはグーグルだけでなく、米フェイスブックも開発し始めている。日本でも動画配信のドワンゴが日本棋院などと協力して囲碁ソフト「Zen」を支援・改良するプロジェクトが発足した。中国ではベンチャー企業が「異構神機」と呼ぶ囲碁AIの開発に名乗りを上げた。いずれは囲碁の三大メッカである日中韓がAIを使って棋力を上げていくことになるだろう。
ユーチューブの英語解説で「セメアイ」「ダメヅマリ」「ハネ」などの日本語が登場するように、近代囲碁は日本で進化した。その後、韓国や中国を含む東アジアの競争時代に突入した。今日では囲碁AIの開発で欧米が参入し、まさにグローバルゲームの様相を呈している。
プロ棋士が全敗を免れたことで、がぜん次の戦いへの興味が湧く。もっともプロ棋士の奇手がもたらすAIのバグを突くような勝利では面白くない。腰の据わった戦いを期待している。
次は、近代囲碁の発祥の地である日本で、日本独特の2日制の碁で、日本の筆頭棋士、井山裕太六冠とアルファ碁の戦いを見てみたい。井山棋士は「人間のほうが優れた部分もあると感じた」と話していた。期待が膨らむ。