世界経済フォーラム主催のアフリカ経済サミットの会場に着いた。セキュリティを経て、パスポートを提示し、名札とプログラムや名簿を受け取り、会議に参加した。
「アフリカ経済成長」に関するセッションに途中から参加した。休憩を挟み、「電力のインフラ」に関するセッションにジョインした。パネルを耳で聞きながら、プログラムや名簿に目を通す。遅れてきた分を取り戻し、これからの予定を確認し、出席している参加者などを確認した。状況が分かり始め、やっと頭が切り替わりつつあった。僕は、パネルを聞きながら、明日のパネルのイメージを膨らますことにした。
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休憩時間は、ネットワークに最適の時間だ。紅茶にお湯を入れながら、「美しい衣装ですね」と、隣にいた恰幅の良いアフリカの貴婦人に、声をかけた。タンザニアの経済団体のトップを務める方だった。僕が、サファリに行った話をすると、とても喜んでくれて、話が弾んだ。そりゃそうだ。日本に来てコンファレンスの前に、「京都・奈良に行った。素晴らしかった。日本が好きになった」、と言われたら、僕らも皆喜ぶ。既に「サファリ効果」が出始めていた。
二つの分科会に参加した後に、同日最後のセッションは「アフリカの農業」に関する全体会だ。僕は、早めに大会議室に入り、席を確保した。着席後すぐに隣に座っている若手ビジネスマンに声をかけた。タンザニアで銀行を経営するバンカーだった。ここでも「サファリ効果」で会話が弾んだ。
タンザニアの大統領が壇上に登ると、参加者が全員起立した。こんなこと他のダボス会議では考えられない。小声で、隣のバンカーに「いつもこうやって起立するのか」と聞いてみると、「そうだよ。敬意を表するんだよ」と教えてくれた。他のパネラーには、エチオピアの総理大臣などがいた。
パネルの最中、会場を見渡した。名簿の厚みと会場の雰囲気からすると、参加者はざっと2000人近くいる感じだった。名簿から確認できる日本人の参加者は、5、6名だ。40歳以下を対象とするヤング・プログラムを除くと、日本からの参加者は、僕だけだ。他は、商社の双日株式会社の中東・アフリカ総支配人が、ドバイから来ているだけだった。
後からわかったのだが、韓国は、内閣官房副大臣を中心に、10人以上の使節団を派遣していた。パネラーとしても日本の倍の2人が登壇していた。新聞記者も、ソウルから来ていた。アフリカをとても重視していることがわかる。日本も戦略的に会議を活用すべきだと思う。岡田外相は、2日前にダル・エス・サラームに来ていたが、会議には参加しなかった。最初の日に日本の外務大臣のスピーチができたら、どれだけ日本の存在感が上がったであろうか。
経済人の参加が少ないのも気になる。商社やメーカーはアフリカ総支配人クラスを、出すべきだと思う。欧米の企業は、その点こういう会議の活用の仕方が上手だ。当然、多くのアフリカ担当の管理者が参加している。ちなみに、スポンサーリストに日本企業は皆無だ。
「日本」の存在感が低下していると言うが、日本の存在感が低下しているのではなく、国際会議における「日本人」の存在感が低下しているのだと僕は思う。国際会議で発言し貢献すれば、自ずと存在感が向上する。存在感を上げるのは、簡単だ。個々の日本人が、中身がある貢献を国際会議の場で行えば良いだけなのだ。つまり、その場にいる個々の日本人の魅力や発信力などの全人格的な力の集合体が、「日本の存在感」に繋がっていくのである。
日本だけで活躍しても、僕は意味が無いと思っている。世界で通用して、初めて価値が生まれてくるのである。役者もしかりだ。日本で著名でも、海外では無名では全く存在感が無い。韓流の役者は、世界に出ている。なぜ日本は出ないのか。僕は、個人的には、日本だけで活躍している人をあまり評価しない。能力があるならば、どんどん世界の舞台で勝負すべきなのである。
メジャーリーグで、松井やイチローが活躍すれば日本の存在感が上がる。彼らが、海外に出なければ、日本の評価は低いままであったろう。そこに日本人の観客として、多くの人々が応援し発信すれば、日本の存在感がさらに上がる。それと同じように、国際会議でも、登壇者を多くするとともに、個々の草の根のネットワークや会場からの発言によって、日本の存在感が決まるのである。黙っていたら何も始まらない。不参加が一番良くない。全ての学界、業界の会合、経営者の集まりを含めて、皆が参加し、発言し、ネットワークをすることができれば良いのである。そうすれば、日本人への評価が向上し、日本の存在感があがる。不参加や、黙っていても始まらない。皆が世界に飛び出し、自らの意見を堂々と述べるところから、日本の存在感向上の第一歩が始まるのだ。
今回僕が登壇を依頼されたテーマは、「アフリカからフォーチュン500を出すための企業戦略」というものだ。僕が得意な分野ではないし、知見があるわけでもない。でも、引き受けることにした。何事もチャレンジだ。尻ごみをしていても始まらない。知らない分野のパネルに出るには、徹底的なリサーチが必要になる。自分の弱い分野を補強するチャンスにもなる。良い評価を得れば、次も呼ばれることになるし、日本の存在感が上がる。一石二鳥だ。
その様に考えて、タンザニアまで来た。プログラムを見たらパネラーとして喋るのは、僕一人だけだった。「日本の代表として、頑張らねばならない」、という気持ちになってきた。
その日は、大統領主催のソワレ(晩餐会)があったが、「しっかりと準備をしよう」と再度強く思い、ホテルに戻ることにした。
2010年5月8日
ドーハに向かう飛行機の中で
堀義人