「理系」「文系」の縛りを捨てテクノ・エコノミストを志向
今北さんは、いわゆる「理系」のご出身。しかも相当なエリートで、最初は企業の中央研究所に入られた。そういう方が、何をきっかけに欧州で経営コンサルタントを志向されるに至ったのですか。
今北: 面白いご質問ですね。これは海外に出ると、強く感じるのですが、理系・文系という分け方が、まず極めて日本的ですよね。
そもそも、なぜ私が理系の学部に進んだかというと、単純に高校時代、数学が得意だったから。当時は高校生用の問題集では簡単すぎて、すぐに解けてしまうので、大学生向けの参考書を買ってきて問題を解いていたというぐらい、よくできた。だから、試験に有利な理系の学部を選考するというのは、ごく自然な流れだったのです。実際、東大模試では全国で4位という成績を収めるほどで、「自分はアインシュタインになる」と信じて疑わなかったし(笑)、自分の名前が大きく書かれた順位表が将来を約束する証書にも見えていました。
ところが、東大に入学した瞬間、目的を失ってしまったのです。数学の世界で上を目指すことが、天から自分に与えられた贈り物と信じて進んだものの、順位争いがなくなった瞬間、それを使って何をしたいか、何をすべきかが見えていなかったことに気づいてしまった。
高校と大学の間にキャリアをイメージするに足る「つなぎ」を持てない辛さというのは、あるのでしょうね。
今北: そうなんです。問題を解けば解くほど成績が上がって面白いから、それが目的化してしまった。自分が何に興味があるのか、何をしたいのか、受験前には選ばなければいけないから、得手・不得手、好き・嫌いを拠り所に「理系」と決めていたことに後から気づかされるわけです。
「数学が得意」ということは、乱暴な解釈をすると「論理思考力が高い」とも取れると思うのですが、高い思考力を持った人たちを、「理系」の枠に押し込め、活躍の場を研究職や技術職に限定していくのは、大きな言い方をすれば、国家規模の損失になりかねないですね。
今北: 最高学府のあり方そのものが問われていると、僕も思います。たまに理系出身者が企業の社長職に就いたりすると、「技術系社長登場」などとマスコミが騒ぎたてますが、そんなことで騒ぐのは日本人だけですから。
だから今北さんは、(テクノロジーとエコノミクスを結合させた)「テクノ・エコノミクス」という考え方を体現して来られた。
今北: そのとおりです。アインシュタインにも、超一流の技術者にも自分はなれない・ならないと気づいてから、「自分にしかできないことは何か?」と探し続け、ようやく到達したのが技術と経済、2つの領域の境界を埋める「テクノ・エコノミスト」と私自身が呼ぶ役割でした。
アインシュタインにはなれなくても、私は科学技術の世界そのものには、深い愛着を抱いています。人が生み出す様々な革新と、背景にある胸踊る物語への興味は尽きることがない。また、技術者にはなれなくても、職人的に研ぎすましていく技術者の気質や世界観には強い尊敬の念を抱いています。この理解を、別な形で活かせないかと、ずっと考えていました。
研究、技術の内容について、いわゆる「文系」の人との間に立って翻訳し、価値創出につなげる、と。
今北: そうですね。どれほど優れた研究、技術も、それが正しいタイミングで、正しいお客に向けた製品としてリリースされない限りは、世の中の役には立たないんです。しかし、企業の中で技術と経営の両方を鳥瞰して意思決定ができる人というのは、ほとんどいない。経理部長は技術を理解しないまま、「どうやって売るか」「どうやってコストを削るか」とお金の話ばかりをしていて、研究者は経営を理解しないまま、「あの機械が欲しい」「この分析器が欲しい」とお金のかかる話ばかりをしている。私は、この両方を結ぶ役割を目指そうと思いました。
「微分方程式の対決」を経て欧州でのキャリアが始動
すぐにうまく行きましたか。
今北: まるでダメでしたね(笑)。旭硝子では中央研究所で応用研究に当たっていたのですが、縦割り組織のなかでテクノ・エコノミストとして動こうとすると、「お前は研究をしていろ」「俺のテリトリーに入ってくるな」という話になる。
どうされたのですか。
今北: 机上の空論としないためには、まず「エコノミクス」を手に入れなければという思いもあり、夜学に通うなどして経済学を学びました。つまらない授業も多かったけれど、例えばマルサスの人口論などは面白かった。「人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しないから、まず食料が足りなくなる」・・・とか、いうんですよ。こういう構想力を持った人が今はいないなあと刺激を受けましたし、何か、自分の目指す方向が見えたようでワクワクとしました。
その後、独学を続け、2年ほど経った頃に、旭硝子の同僚からオクスフォード大学が招聘教官を募集しているという話を聞かされるんです。「受かるわけがない」と思いながら受験したら、なんと採用になってしまった。最初から2年間だけと決められた職でしたし、それで会社を辞めて良いものかという迷いはありましたが、心の奥底では「絶対に行くべき」と決めていた気がします。
「教官」ということは、学ぶ立場から、いきなりクラスで教える立場になったということですか。
今北: 教官にはクラスでの授業を受け持つ役割と、1対1の個別指導を受け持つ役割の2種類があり、私は後者のチューターというほうの教官でした。英国に着いた早々、担当した学生と、僕が「微分方程式の対決」と呼んでいる事件があって・・・。
対決、ですか(笑)。
今北: そう。赴任したばかりで荷物をほどいていたら突然ノックがありました。隣人と名乗る学生でした。この学生が、なんと、私の教えるべき学生だったのです。そして、彼は、「あなたが先生とはラッキーだった。分からないところがあるんですが・・」とアドバイスを求めてきたのです。手にしているのは数量経済分析のかなり高度なもので、要は「この日本から来たヤツがどれほどのものか」と試しているんです。「あとで解いておく。説明は明日にでも」と言おうかとも思いましたが、ここは舐められてもいけないと、「解説しながら解くね」と、目の前で解答しました。
実は、この学生、後から聞いたらケンブリッジ大学を1番で出てきているような秀才だったのですが、内心の不安をカムフラージュしながらも、私が問題を解き終えると、彼は、「ブラボー!」と叫んで・・・。これは嬉しかったですね。そこから先は、自分で勝手に学んでくれるので非常にラクでした(笑)。
それは武勇伝ですね。さて、冒頭の質問に少し戻るのですが、今北さんのご経歴を拝見して、とにかく印象的なのが、様々な境界領域に踏み入っていらっしゃることでした。「技術」と「経済」というのは、特に分かりやすい例ですが、例えば大学では物理学科を卒業された後、化学工学科で修士号を取っている・・・。
今北: はい。ただ、「物理」「化学」といった分類をするようになったのは、近代に入ってからなんですよね。「哲学」の世界には、医学も数学も物理学も混ざり合って存在している。例えば「ピタゴラスの定理」のピタゴラスは哲学者です。キュリー婦人はノーベル物理賞と化学賞の両方を受賞しましたが、本人は二つを明確に分けて考えてはいないと思う。つまり、個々の学問として分化したのは、あくまで便宜的なものであって、底辺では全てがつながっているものと私は考えています。
そうですね。私は、その結果として、個々の学問の境界領域に当たる部分を埋められる、つなげる人材が不足していることに危機感を覚えます。とりわけ先述の「理系」「文系」の断絶は、なんとかしたほうがいい気がする。
今北: そうですね。ただ、その問題意識から、さらに細切れの境界領域専門家は作らないほうがいいと思います。それではイタチゴッコになってしまいますから。大局観を持って、物事を見られる人を育てていくことが大切なんです。その意味では、初等教育の重要性が、これから益々語られるようになるでしょうね。そして、何と何の境界で人材が不足しているかを、企業や社会が訴え続けること。新しいこと、難しいことに挑戦したい優秀な人は必ずいますから。
「欧」と「米」は別物個を基点にした社会システムの再構築を
オクスフォードでのキャリアを終えた後は、1977年からスイスのバテル記念研究所に研究員として入り、ヨーロッパに残るという選択をされました。
今北: ええ。たまたま出席した、とある学会で、バテル記念研究所に「テクノ・エコノミクス デパートメント」なる部署のあることを知ったんです。テクノ・エコノミクスというのは私が考えた概念であり、言葉と思っていたので、愕然としました。
それは衝撃だったでしょうね。と同時に、ヨーロッパの奥深さを感じて、痛快だったのではないかと想像するのですが・・・。
今北: 全くそのとおりです。ヨーロッパには深い歴史に裏打ちされた大局観があります。
日本人は、ヨーロッパとアメリカを「欧米」と一括りに語ることが多いですが、仰るところの歴史観や、職人を評価する気質といった類似性に考えを馳せると、日本はヨーロッパから学ぶべき点が多いように感じます。
今北: この質問は、嬉しいですね。僕は、随分前から「欧」と「米」は分けてくださいと言い続けているんです。ヨーロッパ的な手法というと例えば、彼らは今後10年なら10年に起こり得ることを大きなフレームワークでルールとして押さえ、個別に出てくるであろう問題には別々に対応していくというアプローチを取ります。このルールに応じて「個」が主体的に判断して動くわけです。他方、アメリカ的な手法は、複雑な問題に対して大きく構えるだけでは不都合が次々と起きるから、最初から細かいルールを作って対応していきます。物事を構想する根の部分が違うと、私は観察しています。
今は、極めて変化の早い社会となっていますから、ヨーロッパ的な手法のほうが実効性は高いでしょうね。今北さんご自身、近著『ビジネス脳はどうつくるか』の中で、「個を基点にした社会システムの再構築」を説いておられます。ただ、これはシステムを構築する各人が高い能力を持っていること、そして多様な個性を持ちながらも、他方では全体と協調するエコシステムを成していることが前提になる。日本人は協調性はともかく、個性という面では評価が低いように思いますが・・・。
今北: そうですね。日本では個性というと、「人と違うこと」を指すことが多いですが、人と同じことでも情熱を持ってやっているうちに、それが個性になる。最初から特異なところを目指さないほうが良いと、私は思います。
情熱を傾けられるものは、どうやって見つければいいのでしょう。
今北: これは2タイプありますね。最初から分かっている人と、試行錯誤しながら見つける人。私は後者でしたから、悩んでいる人がいたら、まず「安心して」と言いたい。そして、考えるときには、学歴や職歴には縛られないほうがいい。会社の人間関係や思惑など、全部を取り外した「自分」って何だろう?という考え方を、時にはしてみると良いと思います。
苦手なことを克服するのではなく、得意なことを伸ばしていくのが、やはり理想的。例えば、「人前に出ると緊張する」という人が、いきなりプレゼン技術を学びに行ったりするのをよく見ますが、「まず、プレゼンしたいだけのメッセージがあるか」ということが大切なんです。伝えたいことがあれば、自然と方法論はついてくる。道具を手に入れることは大切ですが、それが竹光になっては意味がない。
凸凹はあったほうが面白いんですよ。生理的に受け付けないものは、そうと自覚して、得意な人に任せる。例えば私は、事務処理は徹底的に苦手。滞在許可証の申請手続きでの何時間もの行列待ちなどについては、自分の時間がもったいないと思ってしまいます。では好きなのは何か。好奇心を持ち続けられるのは何か・・・。得手・不得手を素直に認めることで自分の姿は見えてくるはずです。
話は少し飛びますが、今回、出版された『ビジネス脳はどうつくるか』は、タイトルとしてはどちらかと言えばビジネスパーソン個人に寄せたものとなっていますが、本の内容の半分は実は、極めて示唆に富んだシステム論となっています。とりわけ「ベーシックインカムか、ベーシックキャピタルか」という新資本論の話は非常に興味深く拝読しました。
今北: どちらからもタイトルはつけられました。「ネオキャピタリズム」というタイトルにしようかとも思ったのですが、タイトルとしてのオリジナリティーには今ひとつ、ということがあったものですから・・・(笑)。
なるほど(笑)。そのあたり含め、GLOBIS.JP の読者にはぜひ実際に読んでもらえればと思います。本日は、ありがとうございました。