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一日一生、目的をフックに未来を手繰り寄せる―島本パートナーズ代表取締役社長・安永雄彦氏

投稿日:2009/03/30更新日:2019/04/09

組織の善と個人の善の矛盾に悩んだ銀行員時代

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田久保:安永さんは、三和銀行(当時)を辞められた後、ラッセル・レイノルズでエグゼクティブサーチに携わる傍ら、浄土宗本願寺派の僧侶の資格を取られました。(自身が経営する島本パートナーズの)「社長ブログ」を拝読すると、修行のため、かなりの時間も割かれたようですが、そもそも、なぜ仏教を志されたのですか。

安永:起点となったのは、会社員として成果を上げるための営みと、人として誠実であろうとする姿勢とが、必ずしも整合するわけではないことへの悩みでした。

例えば銀行では、営業成績を上げるために、お客様が必要とする以上の額を融資することがあります。人より良い成績を上げようとすると、数字を“作る”ために、あれやこれやと工夫し始める。そうすると、どこか無理が生じる。私自身も、若い頃は丁稚奉公と思っていますから、精一杯の無理をしました。でも心のどこかには、ビジネスって、こんなことまでしないと本当に儲からないのか?という疑念がありました。

ビジネスを遂行するうえで、宗教観というものが一種の抑制機能になり得ると感じたのは、英国でコーポレートファイナンス業務を行っていた時のことです。英国でも粉飾決算が原因で会社が潰れたりということは確かにあるのですが、彼らは、それを「神が許さなかった」という捉え方をするんですね。当時は、「CSR(企業の社会的責任)」だとか、「コンプライアンス(法令遵守)」だとかいった概念も、まだ一般的ではありませんでしたが、「神の前で浅はかな行為をした者は、いつか必ず裁かれる」という考え方が、どこか歯止めにつながっていました。皆が敬虔なクリスチャンということではないのですが、宗教に裏打ちされたバックボーンの強さを感じましたね。

田久保:その後、帰国されてから、取り組み姿勢のようなものに変化はありましたか。

安永:戻ってからは本社で人事や経営企画の仕事に就きました。その後、10数年ぶりに支店で営業現場を見たのですが、ショックでしたね。バブル崩壊後、行われてきたグレーゾーンぎりぎりの取引の様相を目の当たりにするわけです。例えて言うなら、認知症の人にまで契約印をつかせるような悪事ですよね。それは私の支店に限ったことではなくて、全国どこの銀行でも同じようなことが起きていた。切ないのは、それが、各営業担当が会社に精一杯の忠誠を尽くした結果でもあるということでした。

何が歯止めを超えさせるのか、そこに対する問題意識は、ずっとありましたね。1997年からは本社でコンプライアンスのマニュアル作成も始まりました。最初は数十ページのものが、厚いバインダー2冊、3冊と増えていく。でも結局、自分も隠す側、穏便に解決する側に立っていることに変わりはないわけです。その後ろめたさは銀行を辞めた後にも残りました。銀行員に限らず、ビジネスパーソンというのは、そうした原罪のようなもの、組織の罪のようなものを多かれ少なかれ背負って生きていると、私は思っています。

田久保:父も兄も銀行員という環境で育ちましたので、安永さんがおっしゃることの重みは多少、想像できるところがあります。

個人として良心の呵責を持つようなことが、会社にとっては善であるという矛盾と、どう対峙し続けるか。家族の生活を守ろうとすれば、個人としての善より、組織にとっての善を優先させなければならない局面も出てくるでしょう。この二律背反を、どう超えるかという命題は近代社会の特徴かもしれませんね。

それまで哲学は個人の善悪を決めるものであれば良かったのに、社会構造の変化と共に、組織としての善悪にも答えを出さなければならなくなってしまった。過去に哲学者が直面しなかった領域に入ってきてしまったのだと思うのです。

人の業を寛容に受け止める、浄土真宗の教師資格を取得

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安永:ビジネスを遂行する以上、会社という組織が収益の増加を目指すのは当然のことです。問題は、どこまでやるかという境界線の引き方でしょうね。10億円の融資を必要としている人がいるとして、15億円を貸す。5億は運用しましょう、と。きちんと運用の方向性を示せれば良心は痛みませんが、例えばさらに“おいしい”のは倒産間近の会社だったりするわけです。担保を多くとって、高額に貸し付けるという・・・。

田久保:そういうことの意味について答えを出そう、と。

安永:そうです。ラッセル・レイノルズはプロフェッショナルファームなので、転職後は、いわば個人事業主という感じで、組織の判断に個人の善悪の判断基準が無理に引きずられるようなプレッシャーからは解放されました。ただ、企業戦士としての戦いをある種、リタイアした以上、先ほど申し上げた、ビジネスパーソンとしての原罪のようなものと向き合っていかなければならないとの想いがあり、それで週末などを利用して様々な勉強を始めたのです。いわゆる“自分探し”ですね。

田久保:最初から宗教家を目指されたのですか。

安永:いえ。最初は、遠藤喨及氏に経絡指圧を学びました。これは実技を通じて、「気」の概念に触れるという感じでした。その後、CTIジャパンでコーチングもやりました。基礎コースから始めて、上級コースまで3年間。その後、たまたま目にした『本願寺新報』という浄土真宗本願寺派が出している月間の新聞で、通信教育と週末のスクーリングを中心に、実践的に仏教を中央仏教学院という学校で学べるコースがあることを知り、関心を持ちました。若い時分に西行法師をモデルにした小説を幾つか読み、その生き方や世界観に漠然とした憧れのあったことと、実家が江戸時代から浄土真宗の壇信徒であったことが、きっかけと言えば、きっかけでしょうか。

田久保:実際に学ばれてみて、どうでしたか。

安永:同級生が40余人いたのですが、凄く若いか、定年後かという感じで、私は異質でしたね。8割は、実家がお寺という人々でしたし。

田久保:何か悟りのようなものはあったのでしょうか。

安永:明確にはありません。ただ、(浄土真宗の宗祖と言われる)親鸞の生き方には共感しました。彼は(天台宗の本山である)比叡山延暦寺で20年にわたり修行するのですが、結局、業(ごう)を抑えることができなかったんです。色欲を捨てられず、開き直って結婚もしてしまうし、獣肉も食したと言われています。

浄土真宗の教えも、人の業というものに対して非常に寛容なんです。人は生まれながらに罪深い存在であり、生きている間に悟りは開けない。その諦念から始まる。だからと言って、何をしても良いとしているわけでは、もちろんありません。ただ、誰であっても本願は届いているから阿弥陀如来が救ってくださる。往生したら仏になれると、それが教えのエッセンスなんです。

「自分だけで全てのことに決着をつけようと思うな」と。「生きている以上、自分自身の意識を越え、知らず知らずのうちに悪いことを引き起こしてしまう可能性もある。だから全部、引き受けようと思うな。そのために宗教があるのだから」ということなんですね。そう考えると、組織の原罪を負ったことに何か救いのようなものが見えてくるわけです。

ただ私自身、こういう話をビジネスシーンでする機会は、ほとんどないんです。宗教というと、オーム真理教や統一教会といった新興宗教の類を想起する方が多いのか、うさんくさい印象を持たれてしまうためです。「宗教が嫌い」という方に限って、おみくじだとか、大安吉日などの日柄を、物凄く気にされたりするのですけれどね(笑)。

田久保:仏教というのは、どちらかと言えば、先祖伝来というか、日本人の日常に溶け込んだモノの考え方なのでしょうけれどね。

安永:おっしゃるとおりです。ビジネススクールでは、フレームワークなどを使い、ロジカルに考える方法を教えます。問題解決の道筋というのは、文字通り、理路整然とつけられます。けれど、「なぜ、その問題と取り組むのか」の根幹となる「目的」の部分に理屈はないのです。例えば、「病気の人を少しでもラクにして差し上げたい」という気持ちが、ヘルスケアのビジネスに結びつき、「生活を便利にするものを作ろう」という想いが、メーカーの人々を奮い立たせる。この、目標設定や理念の世界というのは、私は限りなく宗教に近いと考えています。

目標設定や理念の世界観を支えるのが哲学

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田久保:悩ましいのは、まず何か目的があって、次にそのための手段を考えるという演繹的な世界観を出て、手段そのものが肥大しているケースではないでしょうか。銀行の例で言えば、その存在意義というか、目的を、一営業担当がゼロベースで考えるのは難しいぐらいに、手段の部分が大きくなってしまっている。「成長を続けるために、とにかく大きな額面のお金を貸し付けなければならない。そのために、使途を考えよう」という発想は、完全に目的と手段が逆転しています。

一方、バングラデシュで(ノーベル平和賞を受賞した、グラミン銀行総裁の)ムハマド・ユヌス氏が行ったマイクロクレジットには、発展途上国に住まう人々の自立支援をしたいという明確な意思が見てとれます。労働力を担保にお金を貸すというスキームは取れないから、幅広く小額のお金を貸し付けて、互助によって担保する。目的と手段がすり合っています。

安永:企業の成長過程で目的や理念をいかに持ち続けるかというのは大きな課題ですね。売り上げ規模100億円くらいまでは創業社長一人でも何とか引っ張っていけるし、意思も反映させやすい。けれど例えば上場し、株主への責任なども発生すると、社長一人の意向では、どうにもならない側面が出てきます。優秀な側近が入ってきて、PDCAなど回して持てる資産で最大効果を発揮できるよう仕組化が加速する。時価総額1兆円うんぬんといった手元の目標が先に立ち、創業の想いのようなものが棚上げにされたりする。

拡大再生産の考え方と、創業の目的が相容れなくなるケースは少なくありません。時価総額1兆円の企業になることと、例えば「病気の人をラクに」という目的は、もしかしたら究極的なところでは合致するのかもしれませんが、手元のところでは二律背反になりがちなんですよね。その意味で、(グロービス・グループの)堀(義人)さんが、「上場はしない」と言っているのは非常に賢明であると、私は思っています。成長性を最優先とするために、創業理念に基づく教育の品質や方向性といったものを犠牲にせざるをえない場面も出てくるかもしれないわけですから。

田久保:京セラの(創業者である)稲盛和夫さんは60歳を過ぎてから得度されています。やはり何か、そうしたところに葛藤がおありだったのでしょうか。

安永:稲盛さんは臨済宗のお寺で修業されたようですね。同じく稀代の経営者と言われる松下幸之助さんも天理教の教えを学ばれたと聞きます。特に公言していたわけではないようですが、一貫した価値観のようなものを求め、体現していただろうとは思います。

田久保:本来の目的を超え、手段がひとり歩きを始めたときに、道を外すようなことが起きがちであるとすれば、様々な手段をある種の武器として教えるビジネススクールでは、もっとこうしたこと(目標設定や理念の世界)を議論していかなければならないな、と、気持ちを新たにしました。幸いグロービスの受講生は、互いに志を語り合うことなどに対して大変に前向きですが、安永さんが僧侶としての修行を通じて学ばれたことと、グロービスで教えてくださっていることは、何か絡み合うところはありますか。

安永:そうですね。最初は完全に切り分けてやっていたのですが、ある時、受講生から「もっと哲学的な話もしてほしい」というようなことを言われ、折にふれて法話なども、ご紹介するようになりました。お話しするのは、私自身が係長や課長の職にあったときに、「もし、こうした考え方もあると気づいていたら」と思うようなことですね。

例えば、部下に対して、「会社が決めたノルマなのだから、何が何でも達成せよ」と、ギリギリ攻め立てるだけが良い上司ではないよね、と。君たちは、単なる目標必達マシンではなく、日本の企業の未来を作る手助けをしているのだと、そう話せることが大事なわけです。同じように目標達成を求めていくにしても、「なぜ、それをしなければならないか」という目的を明確に置けてさえいれば、おのずと話し方も変わってくる。

最近のキャリア本などを見ると、「戦略的に動け」などと書いてありますけれど、そんなふうに上手くはいかないですよ。大企業のキャリアは大半が偶然の産物です。時には左遷もあるし、おかど違いの部署に配属されることもある。そうしたとき、どうブレークスルーするかが重要なんです。

「因」があれば「果」があり、すべては連環している

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田久保:ピーター・ドラッカーの言った有名なたとえで「3人のレンガ職人」というものがありますね。レンガを積んでいる職人に、「あなたは何をしているのですか」と声をかけたら、一人は「レンガを積んでいるんです」と言い、もう一人は「塀を作っているのです」と言い、誰よりもイキイキと立ち働いていた一人は、「教会を作っているのです」と言った、という。仮に左遷されたとしても、視座を高く持って意味付けができれば、その経験を糧にしていかれるということなのでしょう。

ただ一方で、そう簡単に納得できないのが人間というものです。だから宗教が現代にあっても存在し続けているということなのでしょうか。歳月を経て廃れないものには何らか意味があるのだろうと思うのですが。

安永:釈尊の悟りは、「因果」という言葉で表されます。「因(想いの種のようなもの)」があれば、「果(想いが行為へと生長した結果として収穫される甘い実や苦い実。幸や不幸)」があり、すべてのものは何かの形でつながっている。「縁起」ということですね。私たちが、この世に生まれて来るだけでも大変な確率を超えて来ています。そして、その与えられた生命の中に因があり、果があり、例えばキャリアなども刻まれている。それは、「最初から決められてしまっているのか」と考えることもできるし、「決められた人生をどう生き切るかが大切」と捉えることもできます。

よく言われることですが、社長というのは大変に孤独なものです。栄誉栄達で上がっていった、人も羨むような社長に、引退後、話を聞くと、「辞めて、とにかくほっとしている」などと言う。それが本音なんですね。トップになった瞬間、誰も助けてくれない。むしろ足を引っ張ろうとする。マスコミも業績が良いときには褒めちぎりますが、減収となれば「やはり、まだ若いから」、不祥事が起きれば「リーダーシップが足りない」と、悪口です。トップの孤独というのは、なってみて初めて本当の意味で分かるものなんですね。ただ一人、頼るものなく前進しなければならないことを悟ったとき、自分を支えてくれるのが、自らの想いや人生哲学、そして、広い意味での宗教なんだと思うのです。

これは社長のようなベリートップだけに限ったことではありません。例えば一部門を預かり、今のような厳しい経済環境下で、部下をリストラせざるを得ないとき、自分自身の判断を支えるのは損得合理を超えた何か価値観のようなものでしょう。新しい何かに飛び込む際も同じです。例えば私であれば、どんなことがあっても最後には阿弥陀如来が救ってくださると思っている。だから自分が何かしらを為そうと決意したとき、どれほど成功確率が低くても、周囲に無謀と言われても、賭けられる。可能性が低かろうと突っ込んで行かれるのは、そこに宗教的な信念があるからと考えています。

田久保:人生観や価値観、或いは宗教観といったものは、何をすることで磨かれるのでしょうか。ひと昔前であれば、大概の家には仏間があり、先祖が奉られていた。ごく身近なところに宗教に触れる機会がありました。けれど先の話にもあったように、現代において宗教というのは、どちらかと言えば特別なもの、ともすれば、胡散臭いものとなっています。宗教というと、まずは洗礼を受けたり、得度したりすることから始まると思う人も多いでしょう。

安永:どんな宗教であれ、必ず扱うテーマであり、中心に在るのは、いかに生き、死すべきかという「死生観」です。30歳代の方であれば、死への恐れというのは、さほどは感じないかもしれませんが、でも現実的には若くして亡くなる方だっていらっしゃいます。平均余命の80歳というのは、あくまで平均値であり、皆に約束されたものではないのです。私の会社の創業者も50歳代の若さで亡くなりました。

“お迎え”が来るのは、究極的には明日かもしれないし、1年後かもしれない。余命を知った人々の日々を描いた『最高の人生の見つけ方』、『死ぬまでにしたい10のこと』といった映画が公開されたり、カーネギーメロン大の若手教授が遺した『最後の授業』(ランディ・パウシュ著)がベストセラーとなったりしていることからも分かるように、死を意識した生き方というのが大切なのではないかと、そういう想いは皆、持っているのではないかと思うのです。

「刹那主義」という言葉を、自暴自棄に生きるという意味と捉える人がいますが、仏教では一瞬々々を大切に生きなさい、という意味です。人は過去を生きることも、未来を生きることもできません。現在が全てです。であれば、今日この日を、どんなふうにして過ごすのか。そこに何を賭けるのか。明日、死ぬかもしれないと思ったときに、今日の1日は同じように過ごしたか。まずは、自らにそう問いかけることではないでしょうか。

抹香くさいと言われるかもしれませんが、「一日一生」という言葉があるように、そういう生き方が自分にできているかを問いかけること。それが救いにつながるのではないかと私は思います。

確かなのは今この現在だけ、だから目的をフックに未来を手繰り寄せる

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田久保:日本では、ビジネスや政治に宗教的なものは取り入れないというのが、ごく一般的な不文律となっています。他方で、イデア界(本質界)と現実界を分化しなければ科学技術は出て来なかったというような側面もあると思ったりもするのですが・・・。

安永:そうですね。海外で信仰をする宗教を問われて無神論だなどというと、「あいつには背景がない」、ともすれば「人ではない」とまで言われます。バラク・オバマ氏が大統領就任時に聖書に宣誓するシーンが印象的でしたが、米国では裁判官ではなく神に誓うんですね。けれど日本で、指導者がそうしたことをするシーンは滅多にありません。

宗教的な背景がないわけではないのです。清く正しく美しく、というような倫理感や、もったいない、という心掛けは、2000年の歴史の中で日本人が連綿と培ってきた美徳です。全てのものには魂が宿っており、だから大切にする、扱い方が分かる。命をいただくという気持ちから「いただきます」といって食べる物に接する。ましてや人を扱うときに、「こいつは立身出世の道具だ」などとは思わない。

田久保:日本人同士であれば、そうした自然法的な価値観が暗黙のうちに共有できているけれど、海外に出た瞬間、それでは通用しなくなるのでしょうね。

安永:組織にしてもそうです。宗教に関わらず、良い組織には確固たる価値観がある。どの宗教が良いとか、どういう価値観が正解ということではなく、ただ私は、自分が信じられるものを持つことは凄く大切だと思う。何のために生きるか、という問いと対峙しない人が指導者になるというのは、危険なことであると考えています。

田久保:「哲学」に対して抵抗を感じる人は、あまりいないと思うのですが、同じように、人が生きる意味を考えるものでありながら、「宗教」がビジネスや政治に介在することに違和感を覚える人がいる理由の一つに、神や仏のような目に見えない存在を信じるということがあるように思います。

安永:そこは、世の中には分かることと分からないことがあると考えるしかないですね。この世の中は、解明されていないことばかりですよ。宇宙は、膨張を続けており、電波望遠鏡などで観察しても大半が無の空間で、物質的な世界として見えるのは1割強に過ぎないのです。

田久保:量子まで遡っても不確定性原理で見えないわけですからね。簡単に言えば、光をあてた瞬間に、ものの特性は変わっているわけで、確定できるものがない。見ようと思った瞬間、本当に見ていることにはならない、という禅問答的な世界に入っていってしまう(笑)。私は工学部の出身ですが、今から思い起こせば、自然科学の原理原則というのは、宗教観のようなものに近付いていくようにも思います。結局、ガリレオにせよ他の人ににせよ、偉大と言われる人は科学者であり天文学者であり哲学者であり宗教家であったわけですし。

安永:現代に生きるマネジメント層も、同じだと思います。論理思考もできなければならないし、見たくない現実も見なければならない。例えば投資すべきか否かと迷ったときに、DCF法で答えを導き出す。あれの最大の弱点は割引率が可変であることです。将来のことも過去のことも本当の意味では分からない。確かなのは今この現在だけなんです。けれど目的に対してフックをかけて、何とかして手繰り寄せる。ビジネススクールで教える方法論は、手繰り寄せるツールとしては有効だけれど、導いた結論が正しいかは、結局は本人が信じるしかない。そこは信念、宗教とも言えるかもしれません。

これは脳科学でも証明されていることですが、ものの見え方は全て自分の解釈なんですよね。だから、将来について自分が思うこと、考えることも、突き詰めれば自分の解釈。逆に言えば、起点となるのが「自分」である以上、まず自分自身を受け入れなければならないということでもあります。

あるがままの自己。ドロドロとした欲望も、高見を目指す崇高さも、全て自分であると、多元的な世界の中で自己を受け入れられるかどうか。受け入れることができたら、自分を生んでくれた者、育ててくれた者も受け入れることができるのではないでしょうか。何を受け入れるにしても、前提条件として、まずは自分のあるがままと正対しなければ始まらない。そこから人生観が培われていくと私は思っています。

田久保:本日は本当に有難うございました。

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