日本を愛し、日本人を愛し、人生をかけて、その変化を見つめて来られたジェームス・C・アベグレン氏。日本のコンサルティング業界勃興を援け、また、日本企業の優位性を世界に向けて発信し続けられたアベグレン氏の足跡を、氏と近しく接せられた人々から寄せられた追悼文により、振り返ります。
高度成長の結果からではなく、日本人の資質を見抜いた結果として、日本企業を研究し、またコンサルタントとして援け続けた稀有な存在。それが、私から見たアベグレン先生の姿です。
日本企業に関心を持ち、研究を続ける著名人は世界的にも多いですが、その殆どが戦後の日本企業の躍進の秘密を探るアプローチを取っています。しかし、アベグレン先生は、日本企業が国際舞台に羽ばたく以前から、日本人の特質を洞察し、日本人の営む企業の本質的優位性を世界に向けて発信されました。
長いコンサルタント・研究者生活を通じ、企業や社会に多大な影響を与えて来られたアベグレン先生ですが、同時に、非常に多くの「個人」にも影響を及ぼした人でもありました。
ここでは、ごく身近に先生と接して来られた方々からの追悼文を基に、先生の在りし日の姿を活写していきたいと思います。
最初にご登場いただくのは、元ボストンコンサルティンググループ(以下、BCG)パートナーで、現在は一橋大学大学院で教鞭を執られている清水紀彦さんです。清水さんはBCG東京の創業まもない頃に入社され、アベグレン先生と共に、日本におけるコンサルティング業界勃興に力を尽くされた、経営コンサルタントの草分け的存在です。
続いてご登場いただくのは、ピーター・カービーさんです。ピーターさんは、アベグレン先生がBCGを辞めた後に設立された、AAS(アジア・アドバイザリー・サービス)に正社員採用第1号として入社されました。その後も先生をメンターとして慕い、現在は、日本アイ・ビー・エムの専務執行役員としてご活躍されています。
3人目は、君島朋子さんです。君島さんは、グロービス経営研究所において、私の仲間としてアベグレン先生の「日本企業経営」という大学院科目を開発しました。アベグレン先生がこの1年間、最も情熱を注がれた、若い人材への伝承を身近にお手伝いした人です。この科目を受講され、先生の最後の生徒となった大学院生にも、クラスでの先生の様子をお聞きしました。
もちろん、私自身も、アベグレン先生から大きな影響を受けた1人です。
私のプロフェッショナルとしてのキャリアの第一歩は、BCGへの転職からでした。アベグレン先生は既にBCGを離れておられましたが、その後、知己を得て、お目にかかる機会を得ました。もう17年も前のことです。
当時、私は欧州を基盤とするPE(Private Equity)の、日本事業立ち上げの責任者として、次のキャリアステップに進もうとしていました。その際、投資家が最も信頼の置けるプロフェッショナルとして(私についての評価を)求めたのがアベグレン先生でした。
これを機会に私は折に触れアドバイスをいただくようになり、2006年のグロービス経営大学院発足時に「是非、名誉学長に」とお迎えしたのです。ただ、その時は、それから僅か1年余りで先生とお別れする悲しい日が来ようとは思ってもいませんでした。
先生は、80歳を超えてなお、新しい動向への興味と思考の柔軟さをお持ちでした。「純粋な日本的経営は製造のための仕組みであり、サービス業の伸展によって、もっとフラットな別な仕組みが出てくることに興味を持っている」と湧き上がる関心を語られ、大学院のクラスでも、フリーターの増加やサービス業の伸展に関わる議論を必ず入れようとされました。
また、日本がアジアの発展に大きな役割を担える存在であることや、アジアの学生向けのフルブライト奨学制度を設けるべきであること、日本の会社は女性の登用にもっと取り組むべきであることや、これからはD(ディベロップメント)だけではく、R(リサーチ)にも注力が必要であることなど、決して絶えぬ情熱と日本という国への愛情を滲ませながらメッセージを発し続けていらっしゃいました。
他方、普遍のメッセージもありました。「日本企業は変わってきています。企業内組合も、年功序列も。しかしやはり、Kaisha is People, Community.日本的経営の根幹は昔も今も変わりません。そこを理解せずして、アメリカのルールを適用しようという議論はナンセンス。日本人はそのKaishaをこれからどう経営するか、自分で考えていかなければいけません」。取材記者に語られた、この言葉は、先生が生涯を通して研究を重ねられ、伝え続けてこられたメッセージを凝縮しています。そしてこの内容は、未来の経営者を育成せんとするグロービス経営大学院にとっては先生からの大きな宿題でもあると、受け止めています。
聞けばアベグレン先生は、亡くなる直前まで、翌週の大学院のクラスで何を教えるかを考えておられたそうです。教育にかける情熱は、周囲が驚くほどのものでした。
病床で先生が最後に書き残されたメモには、「Tazaki」と私の名が記されていました。先生が私に伝えたこと、伝えたかったことを私は、より深く研究していかなければならない。そして先生の意思を、今度は私自身が後世に伝えていかなければならない。改めて、そう心に刻んでいます。