「格差社会?」~二宮尊徳翁から学ぶ精神(堀義人 起業家の冒言) 

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努力の格差が結果の格差を生む

「格差社会」という言葉を聞くと抵抗を感じる。努力の格差があるのだから、結果の格差があるのが当たり前だと思うからだ。機会の格差があるならば、それは是正されなければならないが、結果の格差は、あるのが当たり前だと思う。それを論じることに意味を感じない。むしろ頑張った人間がもっと大きな報酬を得てもいいのではないかと思う。

プロ野球の世界を見れば歴然としている。イチロー選手が年棒10億円以上をもらっても誰も文句は言わない。かたや、プロで年棒数百万円という選手もいる。さらにはプロにもなれない選手がいる。これを「格差社会」と呼んで、イチロー選手の年棒を下げさせようとするであろうか。あるいは、プロになれない選手に保護を出すであろうか。

基本的には、これらの年棒は、市場価値によって決まっていく。もしもイチロー選手の年棒を下げようとすれば、他の球団に移籍するであろう。一方、プロ野球球団がプロになれない人に保証・援助を出すなどは、考えられない。

これが、機会平等の格差なのである。皆にチャンスが与えられる。イチロー選手は、その地位を得るために多大な努力を幼少の頃からしてきた。だからこそ、今の栄光がある。ただ、怠けるとすぐに落ちていくので、今も努力をし続けているのである。

機会の平等は、僕は、基本的には、日本においてはかなり担保されている、と思っている。義務教育が行われており、奨学金が支給されているので、随分と平準化されていると思うからだ。もしも、義務教育のレベルで、公立小学校から国立大学まで行けないのであれば、それは公教育か奨学金制度に問題があるのであろう。ただ、これも高校授業料の無償化と子供手当てでかなりの面で解決するのであろう。

過保護政策よりも自立支援を目的にすべき

先のオピニオン「個人の自立心が日本を強くする」にSaitoさんという方が次のコメントの記載をしてくれた。

「格差といっても今の日本で、餓死する人はまずいませんし、最低限のセーフティネットは必要だと思います。若者には学ぶ機会の提供も必要だと思います。しかし過剰な保護は、自立の妨げとなります

格差を問題視する心理の根底には、人を羨む精神と、努力もしていないのにもっと分け与えられて然るべきという甘えの精神があるように感じます。

足るを知る精神。今の日本での生活がいかに恵まれているか、日本人はもっと自覚した方がいいと思います。そして、このままの状態は長く続かないことも知っておいた方がいいと思います。まず、今の恵まれた状態に感謝し、これからの日本の未来に向けて一人ひとりが自分をどう活かすのか。そのことに注力すべきではないでしょうか」。

とても、興味深い意見だと思う。 最近、抵抗を感じるのは、「弱者救済」的議論が多過ぎることだ。「弱者救済」はマスコミ受けがいいし、票にもなりやすい。「優しい人」と見られやすいし、正論なので皆語りたがる。でも、その結果、財源が多く使われて、過保護になってしまうのであれば、問題だと思う。もっと本質的な、「日本の弱体化」に真正面から向き合うことの方が肝要だと思うからだ。

断っておくが、僕は、弱者救済や福祉には反対ではない。必要なものはどんどんやるべきだと思う。ただし、最近は、余りにもやり過ぎだと思っている。生活保護世帯も120万もあるし、増え続けている。財政が破綻している中では、過保護政策よりも自立支援が目的であるべきだと思う。

二宮尊徳の精神に学ぶべきときでは

かつて二宮尊徳は、次のように言った。

「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。まことに救済する秘訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切る事です。かような援助は、貧欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません」(『代表的日本人』より)

内村鑑三の著した、この『代表的日本人』を読むと、背筋が伸びる気持ちとなる。二宮尊徳は両親を亡くし、兄弟と離れ離れになり、意地悪な伯父にお世話になった。尊徳が本を夜読む際に灯りを灯す油を使っていると、「勿体無い」と伯父に言われてしまった。そこで、自らが荒地を耕し、菜種を植えて一年かけて油を刈り取った。すると「おまえの時間も俺のものだから、油は俺のものだ」、と言われた。結局、尊徳は畑仕事の往復で本を読むこととなった。これが二宮金次郎(尊徳)の薪を背負いながら本を読んでいる銅像の由来だ。その苦労があったからこそ、尊徳はその後大成したのだ。

先の二宮尊徳の言葉は、自ら貧困から立ち直ったからこそ含蓄があるのだ。事実、彼は、金銭的援助を断ち切って、数多くの貧困を克服させた。結果、多くの人に感謝されている。僕は、二宮尊徳翁が指摘するほどの施策は、今の日本ですべきだとは思わない。時代も違うし、環境も違うからだ。ただ、「かような援助は、貧欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです」、という精神から何かを学ぶ必要はあると思っている。

昨年の8月に、水戸の年配の方から、生活保護に関して次のとおり伺った。

「不動産を経営している友人から、生活保護を受け取る若者の話をよく聞く。役所から指導を受けるのか、生活保護を受ける権利を得るために、両親と同居しているところをわざわざ別居するのだと言う。さらに、結婚している夫婦の場合には、貯金を持っていると生活保護を受けられないから、わざわざ旅行をして貯金を使い果たしてから、受けるのだと言う。不動産を経営している立場からは、生活保護を受けている方が、貸借するにあたって収入が確実に入ってくるから安心だ、と言う。何かが間違っているという気がしてならない」、と。

金銭的な援助は、自立する精神を奪い去ってしまうのだ。子供に、愛情を持って試練を与えるように、政治家も愛情を持って、このような輩からは支援を断ち切る必要がある。当然、権利を奪われるものは不平不満を言い、死に物狂いで抵抗するであろう。でも、それをやらないと、みんなが、「もっと支援してくれ。どうして僕らにはくれないのだ」と要求合戦をすることになるであろう。そして、過保護政策は、そうした若者の自立精神をも妨げてしまうであろう。

弱者を救済し、強者に厳しく当たれば、皆が弱者となるべく競争するであろう。すると、「貧欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもと」になるであろう。これでは、日本の再生はおぼつかないのである。

繰り返しになるが、「格差社会」と言うが、努力の違いがあるのだから、その結果として格差があるのは当然なのである。結果の格差よりも、努力の格差に目を向けるべきではないか。

努力をしていない弱者に、手を差し伸べる必要は無いと思う。また、努力をしない人々を優遇するような施策は、貧欲と怠け癖を引き起こし、日本を滅ぼす結果となろう。二宮尊徳のお言葉の意味を再度見直す時期に来ていると思う。

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