ドナルド・トランプと尾崎豊の共通点―アメリカ大統領選を「自由」の視点で斬る 

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アメリカにおける自由と大統領選挙

「自由の国アメリカ」。アメリカという国には「自由」のイメージがある。今回は、アメリカ大統領選挙と「自由」との関係について論じる。

大統領選挙は共和党のドナルド・トランプが勝利した。事前の予想ではヒラリー・クリントンが初の女性大統領になることが有力視されていたが、ついに大統領の座には就けなかった。私は、クリントンとトランプの政策上の違い、民主党と共和党の政策の違いは、両者の「自由」に対する態度の違いが根底にあると考えている。自由と政策の関係が見えれば、トランプが単なる暴言王でないこともお分かりいただけると思う。そして、トランプが当選したのはクリントンの不人気だけが原因なのではなく、アメリカ国内の「自由を巡る綱引き」の結果であることが見えてくるだろう。

自由と大統領選との関係を論じる前に、まず「自由とは何か」考えてみたい。

皆さんは、尾崎豊という1980年代に活躍した伝説のロックミュージシャンをご存じだろうか。彼は自由をテーマに多くの作品を残し、若者から熱狂的な支持を得た。尾崎の歌う自由は「~からの自由(消極的自由)」である。彼の代表曲の一つ「15の夜」では、サビの部分で次のように歌う。「盗んだバイクで走りだす、行く当ても分からないまま。自由になれた気がした、15の夜」。尾崎の求めた自由、そして若者が熱狂した自由は、親や学校といった「子供を自分たちの都合のいいように支配する大人」から解放される自由である。

尾崎の歌には異なるタイプの自由も登場している。「卒業」の歌詞にある「仕組まれた自由に、何も気づかずにいる(従う)」という自由である。彼はそうした自由を求めていないが、大人が用意した仕組みや権力機構に進んで従おうとする自由(受験戦争に進んでコミットするなど)の存在を暗に認めている。

このように、「自由」には2つのタイプがある(「自由論」I.バーリン)。ひとつは、拘束や束縛からの自由である。このタイプの自由を「消極的自由(~からの自由)」という。もうひとつは、これとは逆方向の自由であり、自分の意思で進んで何かに従う自由である。これを「積極的自由(~への自由)」という。尾崎が求めた「自由」はバーリンの分類に従えば「消極的自由」である。

では「自由の国アメリカ」の自由は、どちらの自由を指すのだろうか。その答えはアメリカの歴史に求めることができる。その歴史は、1620年に英国から過酷な航海を経てやってきたピューリタン(カルヴァン派のプロテスタント)の入植者たちに始まる。彼らは英国国教会の弾圧から逃れるために入国。その後、本国イギリスのアメリカ植民地に対する重税への反発から、独立戦争によって独立した。第二次大戦ではファシズム(全体主義、独裁主義)と戦い、戦後は共産主義を掲げるソビエト連邦との冷戦を経て、現在に至っている。ここから分かるように、アメリカが重視する自由は「消極的自由(~からの自由)」であり、尾崎豊的な自由なのである。

しかし、自由を積極的に追い求めることには問題もある。富の配分を自由な市場経済だけに委ねたとしたら、世の中はどうなるか。市場競争は勝ち負けを生むので、結果として個人の貧富の差が拡大することになる。貧しくなった原因が自分の選択や努力の結果によるのであれば仕方ないが、それが親の所得などの違いに基づく教育水準の違いや、人種や性別などの「個によって選択される以前の属性」にあったとしたら、機会の「不平等」が生じる。このように、自由だけを推し進めてしまうと、近代市民社会の重要な精神である「平等」が脅かされる。自由と平等は相剋的なのだ。

大統領選に話を戻そう。共和党と民主党は共に「消極的自由(~からの自由)」を重視しているが、民主党は共和党よりも「自由と平等のバランス」を志向する。不平等の是正に興味があるのは、主にマイノリティーや社会的に弱い立場に置かれている人々である。例えば、非白人、女性、学費のローンに苦しむ若者、移民一世などである。ケニアの血をひくオバマや、女性であるクリントンは、こうした人々が持つ属性を一部備えている。クリントンおよび民主党の典型的な支持者はこうした人たちに加えて、白人の中でもマイノリティーや貧困層に対する「機会の平等」を重視する人たちがいる。また、シリコンバレーの住民は民主党支持者がほとんどである。なぜなら、移民一世と非白人、若者(や若者のマインドを持つ中年)、非プロテスタントが多いからである。

それに対して典型的なトランプ支持者は、白人で男性、特にマイノリティーや不法移民に機会を奪われている(自由を奪われている)と考えている中低所得者層だと言われている。ちなみに、シリコンバレーの大物であるピーター・ティール(ペイパル創業者の一人で投資家)はトランプ支持を表明している。彼はゲイであることを公言しているが、トランプはLGBTを容認する立場である。トランプを支持する理由は、彼が筋金入りの自由主義者(リバタリアン)だからである。

尾崎豊とドナルド・トランプの「自由」を巡る共通点

トランプと尾崎豊には「自由」を巡って3つの共通点がある。1つ目は、常に自分の自由を脅かす敵が必要だという点だ。それは「~からの自由(消極的自由)」の宿命である。尾崎豊の歌の主人公は、盗んだバイクで向かう「行く先」は自分でも分からなかった。ただ自由になることが目的だったからだ。しかし、敵については親や学校などの大人たちと明確に示されていた。それはトランプも同じだ。

トランプは「行く先」を明確に示さなかったが、「消極的自由」を推進するために、その自由を脅かす敵を沢山作り上げた。ISのような反米テロ組織はもちろんのこと、中米からの不法移民や、日米間の関税や軍事的負担も敵視した。それは、一部の女性に対する敵視にも表れていた。例えばヒラリー・クリントンやハイディ・クルーズ(クルーズ上院議員の妻で、ゴールドマン・サックス社の幹部)のような女性に対してである。その理由は、社会的にパワーがあってウーマンリブの申し子のような彼女たちは、男性が男性として自由でいることを脅かす存在だからである。

2つ目の共通点は、両者ともに時代の反逆児に見えるが、見方を変えると正統派であるという点だ。尾崎は自由を脅かす敵との戦いを、ロックという手段で表現した。ロックという音楽自体は若者たちの音楽であり、ロックミュージシャンが若者の自由や体制への批判や不満を歌い上げるのは、ロックの立場からすれば正統なやり方である。つまり、尾崎は大人たちが作った学校や企業という体制の中では反逆児であったが、それをロックミュージックという手堅い手段で実行した。

トランプは反逆児的な言動を繰り返しているように見えるが、アメリカにおける宗教保守的な価値観、プロテスタント的な価値観から外れていない。そのひとつは「反知性主義」である。反知性主義とは、どんな学問的権威に対しても無条件では従わず、むしろ叩きのめすことができるという態度である。それは「神の下では万人が平等」、「万人祭司(誰でも祭司になれる)」というプロテスタントの信仰に基づいている。反知性主義に立てば、今回の大統領候補者の中でトランプほど大統領にふさわしい人物はいない。(参考:米大統領選を理解するための思想を知る ―『反知性主義』

もうひとつは、全米人口の25~30%のキリスト教福音派(聖書に書いていることに忠実であろうとする人々)の支持を得ていたことだ。福音派の中でも政治活動に熱心な「宗教右派」は4割程度で、この層の支持が大きく選挙を左右する。宗教右派は多文化主義を容認する民主党を支持することはない。特に、オバマ政権による2015年6月の「同性婚合法化」は、宗教右派にとって自分たちがアメリカから疎外されているように感じた出来事だった。  

トランプは長老派のプロテスタントであり「もし私が選挙で勝ったら、長い間最近みられなかった最も素晴らしいキリスト教徒の代弁者になるだろう(6月のCNNのインタビュー)」と豪語していた。宗教右派の中には、トランプを旧約聖書の「キュロス王」に例える人もいる。キュロス王とはペルシャ王で異教徒だが、イスラエル民族をバビロニアから解放した人物である。リーダーは信心深くなくとも、キリスト教徒を開放してくれればいいということだ。

3つ目の共通点は、両者が「~からの自由」を推進する大義を見つけにくい時代に生きているということだ。トランプが過激な発言に走らざるを得なかったのは、ソビエト連邦という「自由と資本主義を脅かす敵」を失ってしまった時代の共和党候補者だったことだ。ソ連の崩壊によって、アメリカは自由な社会を実現するという大義を失ってしまった。ジョージ・W・ブッシュはイスラム原理主義を掲げるテロリストとの戦いを始めたが、終息する気配がない。

ソ連との対立は、近代市民精神のうち「自由と平等」のどちらを優先するかというイデオロギーの対立であり、兄弟喧嘩のようなものだった。だから「冷戦」状態が維持されたのであり、結果としてアメリカと戦争することなくソ連は崩壊した。しかし、アルカイーダやISとの戦争は異種格闘技戦どころか、ルールなき路上の喧嘩のようなものだ。アメリカ国民は大統領に対してISに対する毅然とした対応を求めているが、下手な刺激を与えることは求めていない。どこに敵が潜んでいるか分からないからだ。こうして大義なき「~からの自由」の矛先は、不法移民排斥、メキシコとの国境に壁を設置、同盟国への関税や安全保障の見直し、銃権利の維持などに向かうしかなくなっていた。

尾崎豊が多感な10代を過ごしたのは70年代後半から80年代前半である。尾崎以前の世代の学生には、戦うべき敵が明確に存在していた。1960年の安保闘争、1968年の東大闘争、そして同時期に起きた全共闘等の学生運動など。学生にとっての敵は国家権力であった。しかし、70年代前半に学生運動は挫折し、収束していく。そして80年代。尾崎豊が「15の夜」をリリースした1983年は東京ディズニーランドが開園した年である。若者たちの間には、暗くて、真面目なことはどこか格好悪いという空気が流れていた。都会のエリート私立高校生だった尾崎にとって、国家権力や貧困などは「~からの自由」の対象にはならず、その対象は、理由なく校則を守らせようとする学校や、一流大学への進学と一流企業への就職というレールを敷こうとする親や学校だった。尾崎のバイクが「行き先」も分からないまま走らざるを得なかったのは、反抗する大義が見当たらなかったからだろう。

念のため断わっておくと、私は尾崎豊のファンである。トランプと尾崎を比較したのは、敵が見当たりにくい時代に「~からの自由」を追い求めたことに共通点を見出したからである。それ以外の面では、両者は全く似ていない。尾崎豊はバブル経済の余韻が残る1991年に26歳で世を去ったが、大統領選ではトランプが勝利した。それも、史上最高齢となる70歳での就任となる。やはり尾崎とトランプは似ていない。

しかし、歳をとった反逆のロックシンガーと同じく、アメリカの政治家にとって自由を求めて「自由の敵を探すこと」が難しくなっているのは事実である。それは、青年であったアメリカが歳をとったということかもしれない。そう、尾崎豊と似ているのはトランプではなく、「自由の国アメリカ」である。

トランプ大統領の誕生は、揺れ動く「自由と平等」のバランスの中で、今回はアメリカ建国の精神である「~からの自由」に振れたということだろう。もし今回クリントンが当選していたら、オバマ政権時代に我慢を重ねていた「宗教右派」や「自由主義者」の不満が噴出し、アメリカ国内のマイノリティーに対する差別(非キリスト教徒や移民、同性愛者に対する)はむしろ悪化したかもしれない。トランプ大統領が率いる「自由の国アメリカ」は、これからどこに向かっていくのだろうか。
 

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