仕事は「やかん」か「梵鐘」か 

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まず、創作寓話をひとつ。

むかし、甚太郎という10歳になる少年がいた。甚太郎は近所のお寺でよく一人で遊んだ。ある日、お寺の和尚さんが甚太郎を呼び、こう言った。

「本堂の裏に蔵があるじゃろ。実はあの蔵の中に代々保管されている宝物がある。その宝物がなにか、蔵に入って見てくるがいい」。

甚太郎は興味津々で蔵に入っていった。蔵には窓が一つもなく、なかは昼間でも真っ暗でなにも見えない。しかし、目の前に「なにか」があることは気配でわかる。ただ具体的になんであるかは見当がつかない。そのとき、甚太郎の足裏に小枝のような木片が触れたので、彼はそれを拾い上げ、目の前の「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

甚太郎は蔵のなかから出てきて本堂に戻り、こう告げた。「なんだ和尚さん、あれは『鍋』か『やかん』ですね」。

和尚さんは「そうか、鍋・やかんだったか。はっはっはっ」と空に向かって笑い声をとばし、去っていった。

───歳月は流れ、甚太郎は十分な大人になっていた。生まれ故郷を離れて仕事を持ち、結婚をし、父親になっていた。が、都での仕事がつまずき、追われるように、今日この町にもどってきた。ここで再出発をするつもりだ。甚太郎は何十年ぶりにお寺に行ってみた。変わらぬ境内には、変わらぬ姿で和尚さんがいた。甚太郎を見つけこう言った。

「蔵のなかの宝がなにか、また見てくるがいい」。

甚太郎は、蔵のなかに入っていった。あのときと同じように、足裏に触れた木片を拾い上げ、目の前に感じる「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

「やっぱり鍋かやかんか。でも、和尚さんが宝物というんだからなにかあるのだろう」と思いながら、甚太郎はさらにしゃがみこんで、足元のまわりを手で探ってみる。クモの巣やらほこりやらをかぶりながら、頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、重い丸太のようなものが手に触れた。その丸太を持ち上げ、甚太郎は目の前の「何か」を力いっぱいたたいてみた。

ゴォーーーーン。

甚太郎は走って本堂に戻り、顔を赤らめてこう言った。
「和尚さん、あれは大きな鐘だったんですね。あんなに深い鐘の音は聞いたことがありません」と。

仕事・働くことは、本当に複雑で奥深い活動です。わたしたちは、働くことを通して無限に成長が可能ですし、無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。けれどその一方で、停滞や漂流もあるし、悩みや苦しみもたくさん湧き起こってきます。

古今東西、いろいろな人の働く姿をながめるに、仕事によって偉大な生き方を表現する人もいれば、仕事によって疲れ果て縮んでいく人もいます。それほど仕事というのは人を生かしもし、殺しもします。

さて、問題はあなたの「仕事・働くこと」です。あなたが関わっていく仕事も、まちがいなく、とてつもない複雑さや奥深さをもっています。ただ、それがどれほどのものかは、あらかじめ目に見えません。あなたの「仕事・働くこと」は、現時点では、真っ暗な蔵のなかにつるされている「なにか」です。そのたたき方によって、鳴り方がちがってくるのです。

もし、あなたが仕事に対して、「自分って才能ないし、がんばっても限界あるよな」とか、「働くって、こんなものか。楽しいこともないし」とか、そんなようなしらけ、あきらめ、割り切りの気持ちで過ごしていくなら、蔵のなかの「なにか」はちっぽけな音しか鳴らさないでしょう。あなたは割り箸くらいのもので、いいかげんにたたいているだけだからです。

しかし、もし、あなたが大きな丸太を持ち上げて、強くどーんとたたけば、その「なにか」は必ずゴォーンと鳴るものです。そして、その奥深いゴォーンという音は、打った本人のみならず、村中に響いて、人びとに時を知らせたり、心を落ち着かせたりするはたらきをします。鍋・やかんが、せいぜい自分が食べるためだけの役しかはたさないことを考えると対照的です。

「仕事・働くこと」という宝物に対して、割り箸でたたくか、それとも丸太でたたくか───この選択はいつも自分側にある。鐘をたたいてみて、小さな音しか鳴らなくても、鐘にケチをつけるのは筋違いです。それは鐘の問題ではなく、あなたのたたき方の問題なのですから。言い方を変えれば、あなたの「仕事・働くこと」という梵鐘(ぼんしょう)は、あなたにすばらしくいい音で鳴らされることをひたすら待っているのです。

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