評論知と実践知(堀義人 起業家の冒言) 

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正解が無い世界で最善の解を求める手法を学ぶ

「子供の教育を考える~長男の中学受験に思う」のコラムを書いた後に、教育に関して、ツイッターやブログで多くの意見が交わされた。

多くの意見を読むうち、ふと思ったのが、評論的な論調と実践的な論調の違いについてである。評論的な論調は、第三者的に、「あの教育が良くない」「これが問題だ」と批判、評論する手法である。これは、読んでいて面白い点はあるが、実際に事を行う者には示唆を与えない。

なぜならば、僕らが知りたいのは、「どうすれば良いのか?」に向かう議論であって、何が良いとか悪いとかではないからだ。学者的、あるいは批評家的なアプローチでは、えてしてリアリティを欠き、観念的になってしまい、参考にならないケースが多い。

実践的な知というのは、自らの体験や多くの意見・事例をもとに、様々な選択肢を上げて、その中の長所・短所を分析して、「どうすれば良いのか」を論じるものである。例えば子供の教育の場合には、「問題点が多い。正解も無い。でも、子供に教育を授ければならない。さあ、どうしようか」と考える先にあるのが、実践的な知である。子供のために具体的かつ当事者意識を持って真剣に考えることから、実践的な知恵のレベルに到達するのである。さもないと、第三者的、観念的な無責任な意見で終わってしまう。これが、僕が言う、「評論知」と「実践知」の違いである。

そして、更に一番参考になるのは、「こうやった結果、こうなった。僕の反省点は、こうだから次に続く方には、こうした方が良いよ」と体験に基づくアドバイスを与えることであろう。つまり、実践に基づく知恵のフィードバックである。

グロービス経営大学院で扱う、ケースメソッドも同様の考え方である。経営の良し悪しを論じても仕方が無いのである。「あなたが経営者であれば、どう考えますか」と自らが実践者の立場になり、真剣に考えることが重要なのだ。「問題があっても、矛盾があっても、前に進まなければならない。さあ、どうしようか」、である。完璧に良い選択肢などないのだ。その中で、どちらが一番良いかを考えることが重要である。

高校までの教育は、論理展開力、数学的能力、言語処理能力に主眼が置かれるが、大学からの高等教育は、正解が無い世界で最善の解を求める手法を学ぶ。社会には、正解などないのだ。この複雑多岐な社会の中で、自らの頭で考え、自分なりの正解を求める手法を学ぶのが、高等教育である。実践知というのは、突き詰めて考えれば、どのように生きていくのかを考える手法を学ぶことでもある。

森信三氏は、『修身教授録』の中でこう述べている。「学者は、細部にわたる研究もしなければなりませんが、実践家の読書は、大観の見識を養うための活読、心読であって、その点実践家の読書の方が自在とも言えましょう」。

実践者にとっては、細部などどうでもいい場合があるのだ。大枠を考えることが重要である。実践者にとっては、アカデミックな理論もどうでもいい場合がある。実践的に使えなければ意味が無いのだ。その代わり、実践者は、学ぶ領域の幅が広い。心理学、社会学、哲学、歴史・地理、民俗学、行動科学、脳科学、教育学、科学・技術、オペレーションやシステム工学、産業、インターネット、金融、経済など多岐にわたる。

ただし、これらを評論するためや、学者として細部を研究するために学ぶのではないのだ。あくまでも、自らがリーダーとして、実践するにあたって必要な見識を養うために、活読・心読するのである。

僕は、常に実践知を大事にしたいと思う。もしかしたら実践知以外の知恵は、身につけても意味が無いのかもしれない。僕のコラムやオピニオンも可能な限り、学者・評論家の立場ではなくて、実践者の立場で、どうすべきかを論じていきたいと思う。そのためにも、可能な限り実践者に触れて、自分の頭で考え、自分の言葉で書き綴っていきたい。

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