新日鉄エンジニアリング・浅井信司氏(中編)―海外で橋を架ける“想い” 

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2007年9月、建設中に崩落したベトナムのカントー橋。死傷者134人の大惨事となったこの事故は、日本のODA(=政府開発援助)で建設中だったこともあって、日本でも大々的に報じられた。しかし、なぜ日本企業がベトナムで橋を架けていたのか、その理由を説明していた報道は少なかったように思う。

前編では、カントー橋建設の裏に、現地の人々の切実なニーズと、途上国の経済発展のために自分たちの強みを生かしたいと考える日本の企業戦士たちの“熱い思い”があったことに触れた。

カントー橋工事を受注した新日鉄エンジニアリングの浅井信司氏は、海外橋りょう事業(海外に橋を架ける事業)を新日鉄で社内ベンチャーとして立ち上げ、育て上げた人物だ。同社において「社内ベンチャーの伝説的カリスマ」と呼ばれる彼は、若き日にどのような「夢」を抱き、そしてどのようにして新日鉄という「超・巨大企業」の中で、現在の立場を確立してきたのか。本記事ではそれを解明したい。

人望厚き豪傑の素顔

いつも緩めたネクタイ、ワイシャツの第1ボタンは外しっ放し。ジャケットは着てもらえることが滅多になく、いつもその辺に脱ぎっ放しになっている。彼がいるフロアには豪快な笑いが響き渡る。椅子に浅めに座って両足を無造作に投げ出し、茶目っ気たっぷりで人懐っこい笑顔を浮かべながら、際どいジョークを連発する・・・。

こうした、いかにもざっくばらんな飾らない態度が浅井氏の魅力だ。しかし新日鉄エンジニアリングのような“カタい”大企業において、こういった豪傑タイプの社員は珍しい。実は浅井氏は、新日鉄サッカー部の選手、コーチ、そして監督として長年活躍したバリバリのアスリートでもある。社会人サッカーにとどまらず、各種目のオリンピック・メダリストたちなど、日本のスポーツ界に今も強力な人脈を有している。

そんな彼を慕い「浅井さんこそ、私の目標です」と公言して憚らない若手・中堅も多い。彼の薫陶を受けたある女性は、20歳代半ばの若さ、しかも経理担当でありながら、休暇を使って自費で海外の建設現場を視察に行った。そして本社に上がってくる数字だけでは分からない現場の状況を掌握し、社の上層部に対して「システム・プロセス革新」を迫る意見を具申するなど、積極果敢な仕事ぶりを見せたという。彼女は後に、新日鉄創業以来初の女性海外駐在員として、東南アジアに赴任したそうだ。彼を慕う人々の間には、こうした逸話が溢れている。

単に「偉大な業績」を挙げる人なら、どんな業界にもそこそこいるだろう。しかし、社内外にその人の“DNA”を受け継ぎたいと熱望する人々が現われるような人物となると、滅多にいるものではない。彼が「カリスマ」と呼ばれるゆえんである。

しかし彼も、決して最初からカリスマだったわけではない。むしろ、失意と焦燥に満ちた、長い長い下積み時代があったからこそ、今輝いていると言える。

若いころの浅井氏には、いったいどんな苦労や思いがあったのだろうか?

インド、アメリカ放浪の旅で見た貧困の現実――インフラ整備を志し新日鉄へ

話は学生時代にさかのぼる。横浜国立大学で経営学を学んでいた浅井氏は、突如休学届けを出して1年間に及ぶインド、アメリカ放浪の旅に出た。

「今でいうバックパッカーですね。安ホテルに泊まって社会の底辺をさまよいました。そこで目の当たりにした現実はまさに衝撃的でした。“豊かさ”の裏にこれほど悲惨な貧困が存在したのか・・・と。それで『何とかしなければいけない、自分に出来ることって一体何だろう?』と思案しましたよ」。

そこで出した結論は?

「途上国を中心としたインフラストラクチャー(=社会基盤)の整備に取り組もう、これこそ自分に課せられた『使命(=ミッション)』だと確信しました」

就職活動では、松下政経塾、日本輸出入銀行、日揮の各社で最終面接まで行ったが、海外のインフラ整備でもっとも活躍の舞台が期待できる新日鉄を選んだ。

ところが入社した彼は、思ってもみない部署に配属された。「就職って、本当に思い通りにならないものですね。入社してみたら、私は海外どころかエンジニアリング部門の経理担当だったんですよ。がっくりきましたねー。毎日、鬱々としていました。おかげで社内では上司とケンカばかり。アフター5は合コン一筋でしたよ」そう言って豪快に笑う。

しかし、石の上にも三年。入社ちょうど3年目の1986年、浅井氏は待望の営業部門に異動する。「よーし、これで俺の時代が来たぞー、と思ったのですが・・・」

異動先はエンジニアリング部門の「国内橋りょう」営業チームだった。国内で建設される、橋の工事の仕事を取ってくるのが彼の業務だった。「当時、国内で営業といえば『接待』が大事でした。夜な夜な銀座、赤坂の料亭、割烹、クラブ、スナックに営業先を招く訳ですよ・・・初めての経験だったこともあり、ストレスで右肩がまったく上がらなくなりました」。

ここでもう1度「石の上にも三年」。日本中がバブルの宴に酔いしれていた1989年、思いがけないチャンスが巡ってくる。

「社内ベンチャーのカリスマ」誕生秘話

「東北タイ向けODA無償案件を大手商社が持ってきたんですが、弊社には国内橋りょうセクションしかなく、そうした海外橋りょう案件を手がけるチームがなかったんですよ。『チャンスだ』って思いましたね。それで、すかさず『やらせてください!』と言ったんです」

しかし、海外ビジネスの経験のなかった浅井氏の希望がすんなり通ったのだろうか?

「いや~、上司はもちろん、社内のあちこちから猛烈な反対の声が巻き起こりましたよ。まさに四面楚歌でしたね。でも、この機会を逃したら2度とチャンスはないかもしれないと思って、我ながら異常な執念で粘り続けました」

その甲斐あって、浅井氏は晴れてこの案件を担当できることになった。

しかし、条件は厳しかった。「現在の業務(国内橋りょう営業)に支障がない限り、勝手にやっていい。その代わり、失敗したら自分で責任を取れっていう話なんです」

結局、浅井氏はその条件を承諾する。9時から5時までは「国内営業」に従事し、終業後に社内ベンチャーとして「海外営業」に取り組むという1人2役の生活が始まった。お盆もクリスマスも正月も関係ない。もちろん、海外出張は土日祝祭日が中心だ。

仕事はきつかったが、「途上国のインフラ整備に貢献したい!」という、学生時代からの熱い思いがついに実現したのだ。ここから彼の快進撃の歴史が始まる。主要な海外受注契約は次の通りだ。

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思い出の仕事、人知れぬ苦労とは?

海外でたくさんの橋を架けてきた浅井氏。中でも一番思い出深いのはどれなのだろう?

「やっぱりカンボジアのチュルイチョンバー橋ですね。もともとこの橋は、日本が戦後賠償の一環として建設したものだったんですが、カンボジア内戦で破壊されてしまったのです。それで再建しようということになりまして。

私自身、現地に6カ月以上いて工事に立ち会っていたんですが、『復興に貢献できているなあ!』という実感は、何物にも代え難い喜びでしたね。金もうけだけ考えてもつまらない。途上国の復興・インフラ整備に貢献したいという初志を再確認できたという意味でも、とても印象深い仕事でした」

その思いはカンボジアの人々も同じだったのだろう。前編でも述べたように、このチュルイチョンバー橋は、カンボジアの紙幣にも印刷されたのである。

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カンボジアの紙幣にも印刷されたチュルイチョンバー橋と、当時32歳の浅井氏

しかし、何年にもおよぶ獅子奮迅の活躍。その陰には、かなりの苦労があったのではないだろうか? そう聞くと、彼は苦笑しながらこう答えた。

「個人的なことで言えば、痔で入院し、手術したことでしょうか・・・」

発展途上国の橋の建設現場は、へき地にあることが多い。空港からジープで何時間も揺られることを繰り返し、さらに、東南アジア特有の辛い食事と強い酒。ついに重症の痔を患い、入院を余儀なくされたという。

こうした苦労を味わいながらも浅井氏が続々と海外案件を受注した1990年代、日本国内はバブル崩壊後の「平成大不況」に沈んでおり、大型橋りょう案件は期待し得なくなっていた。上記のスエズ運河架橋(後に「ムバラク・ピース・ブリッジ」と命名)を受注した頃には、「海外橋りょう」が「国内橋りょう」の受注量を上回るようになっていたという。

社内の猛反対を押し切って始めた「社内ベンチャー」は立派に一人前に成長した。そしてちょうどその頃、浅井氏は、日本産業史にその名を残す業績を挙げる。

アジア通貨危機――新しい円借款制度を提案

1997年、アジアを未曽有の通貨危機が襲い、アジア各国の産業界は混乱・疲弊した。

それまで(1985年の「プラザ合意」以降)、円借款ODA案件については、現地企業など外国企業が受注するシステムになっていた。

しかしこの時、アジア各国の現地経済は壊滅的な状況にあり、身動きの取れない状態にあった。「こうした予期せぬ環境変化を目の前にして、自分はどうすることで途上国の現地経済に貢献できるだろうって考えたんですよ」

そして出てきたアイデアがその後の日本の円借款制度の歴史を大きく塗り替えることになったのである。

「日本企業であれば、壊滅状態の現地企業と異なり、与信力もあるし、世界に誇れる技術の安定的な移転も可能だと。それで、円借款案件について、日本企業が受注することで現地経済を救うことができるのではないかと考えたんですよ」

この新しい円借款制度の提言は、1998年「特別円借款制度」として結実し、制度化される。さらに同年、浅井氏の過去9年に及ぶ孤軍奮闘が遂に新日鉄上層部に認められ、海外橋りょうの「社内ベンチャー」は、正式に「部門」として制度化され、彼はその初代リーダー(室長)に就任した。

2001年には、この98年に受注したスエズ運河架橋「ムバラク・ピース・ブリッジ」が遂に完成し、その開通式に彼は橋本龍太郎・元首相とともに日本代表として出席する。

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スエズ運河にかかるムバラク・ピース・ブリッジと工事中の様子

遠くを見るような眼差しで、浅井氏はその時のことを振り返る。「感激でしたねー! 桁下の高さが70メートルもあって、その下を大型船舶が悠々と航行してゆくんですよ」

「でも、例の『9・11同時多発テロ』から2カ月後でしたからね。常識的には渡航を自粛するような状況で、あの時はまさに命がけでした・・・」

さらに時は流れる。2004年秋から2005年にかけ、国内橋りょうをめぐって談合事件の摘発が行われ、日本の経済界に激震が走った。新日鉄にとってもきわめて重大な事件だったが、それを横目に見ながら、浅井氏の率いる海外橋りょう部門の快進撃は続いていた。

そして2008年。カントー橋崩落の余波の中で、浅井氏と彼が率いるチームは、一体どこに向かおうとしているのだろうか――。(後編に続く)

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