フランスワインの定着 その2:ローマ市場の変調 

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紀元一世紀後半、ローマのワイン市場にはある変化が起きていました。ワインの価格下落です。どのくらい下落したかは定かではありませんが、歴史書などの中には「いちじるしく下落」「価格暴落」といった言葉が使われています。この価格下落という現象を経済学的な観点で演繹的に紐解きながら、当時、起きていたさまざまなことを帰納的に組み合わせると、ローマ時代のワイン市場の様子をより生き生きと想像することができます。今回は、この価格下落の要因に迫りたいと思います。

価格下落は、なぜ起きるのか——。経済学的には、「供給過剰」と「需要不足」という、二つの仮説が立てられます。ここでは、需給のどちらか、または両方が原因で価格が変動したという仮説を考えたいと思います。なお、価格が先に動いて、需給を動かしたという考え方は、そもそも市場の価格をコントロールできる人がいたのかという疑問や、「価格下落要因論」ではなく、価格下落の影響は何であったかという「価格下落影響論」となって設問の設定が変わってしまうことなどから、ここでは考えないことにします。

需給バランスから考える価格下落のメカニズム

供給過剰説
一つめの仮説は、前回のコラムでお話をした、ガリア人が新しい品種のもとで始めたブドウ栽培に起因する供給過多です。さらに、この仮説を分解すると、ローマのワイン生産者へ二重の影響を与えていた可能性が考えられます。ひとつはガリアで生産されたワインがローマに流入し、競争が激化したということ、もうひとつはギリシャ・ローマで生産されたワインの中で、ガリアに輸出されていたワインが行き場を失い、ローマ帝国内に滞留したということです。

二つめの仮説は、ローマ人自身が新しいブドウ畑を拡大し続けたと思われることです。ローマ時代にはPOSのような情報処理技術は存在していませんでしたので、供給過剰の実態に気づくまでには時間がかかったはずです。そして、ワインは非常に稼ぎの良いビジネスでしたから、人々は供給過剰を確信するまでブドウ畑の拡大を続けたと考えられるわけです。

三つめの仮説は、ガリアでもローマでもなく、それ以外の地域、たとえばスペインなどからのワインの流入です。当時のローマは、スペインやアフリカ北部の地中海沿岸も属州にしていましたので、この可能性も否定できません。

需要不足説
一方、需要不足であったとして、考えられる一つの仮説は、ローマの人口が減っていたのではないかということです。ローマ時代にも少子化があったという話がありますが、これが事実だとすると需要そのものが縮小したとする話にも説得力があります。しかし、この話の根拠はあまり堅固ではないようです。ローマの五賢帝の全員に子供がいなかったことが、ローマ市民全体に拡大解釈されて少子化仮説が出たという話もあり、この仮説の採用はやや疑問を残します。

需要不足の二つめの仮説は、79年のヴェスヴィオ火山の噴火によるポンペイの消滅です。ポンペイはリゾート地としての機能も果たしており、ポンペイの遺跡から、酒場が少なくとも200軒あまり存在していたことが分かっています。また、ワインの価格などが酒場の壁に書かれており、当時いくら位でワインを飲むことができたかも窺い知ることができます。「一アスでワインが飲める。二アスなら最高のワインが。四アス出せばファレルヌムのワインが飲める」*1アスというのは当時の青銅貨です。また、ファレルヌムというのは当時のローマを代表する高級ワインです。こうした遺跡から、ローマ時代の富裕層がこの地を訪れ、ワインを片手に快適な時間を過ごしていたことが想像されます。

やや脱線しましたが、ではポンペイの消失でどのくらい需要が減ったのでしょうか。そこで、次のように考察してみました。まず、当時のローマの人口推定50万人に対して、ポンペイの人口は2万人程度、ポンペイの死者数が約2000人というのが最も受け入れられている数字のようです。ポンペイの遺跡発掘調査は、1748年に開始されて以来、200年以上かけて現在でも行なわれていますが、当時の人口推計値は、発掘された建物の寝室の数や円形闘技場の観客席数の推定などから算出されたものですので、2万人という数字は、ポンペイの住民人口だけでなくこの土地を訪れていた観光客の数字も含んだものと考えてよいと思われます。その上で、この2万人という数字だけ見ると、ワイン市場の需要へのインパクトは少なかったと考えるのが妥当と思われますが、ここで思考を止めてはいけないと、もう少し考えてみます。

ローマの人口50万人のうち、4分の3が奴隷であったことを考慮し、奴隷はワインの中心的な消費者ではなかったとすると、残りの4分の1の人口が約12万人。このうち、女性が半分とし、さらにその3分の1が子供であるとやや粗い仮定を置いてみると、当時の中心的なワイン消費人口というのは、実は4万人程度であったのではないかということです。しかし、この理屈の問題は、ポンペイの人口や死者数についても同じようにワインの消費人口を割り引いていかないと公平な論理とならない点ですが、仮にポンペイの死人全員がワイン消費者であったとしても、ローマのワイン消費人口4万人のうち比率としては5%で価格下落の決定的要因と考えるのはやや無理があると思われます。

価格下落のメカニズム再考

ここまで、価格下落の要因仮説を五つ挙げてきました。供給過剰仮説が三つ、需要不足仮説が二つです。ここで、要因仮説をひとつひとつ吟味しただけでは、ローマのワイン市場で実際に何が起きていたかは、実はあまりよくわかりません。そこで、これらの仮説全体を見渡しながら考えてみたいと思います。

まず、ポンペイから考えを出発させてみたいと思います。ポンペイは、ローマ市に並ぶ重要なワインの積み出し港であるとともに、重要な消費地でもあったようです。ポンペイにはブドウ畑が多数あり、ヒュー・ジョンソンは「イタリアのボルドー」と称して、フランスのワインの代表的な銘醸地であるボルドーに喩えています。このような街が消失したと考えると、イタリアの上質ワインの供給地が消失したと考えるほうが妥当かもしれません。先ほどは、ポンペイの消失により需要が減少したという仮説を立てましたが、実際は供給が減ったとするのが、ローマ市に並ぶ重要な港という意味での影響の大きさとして、より正しい仮説と考えるべきです。79年のポンペイの消失は、その周辺のワイン供給地の消失と、79年に生産されたワインの消失が同時に起きたということであり、実際に80年にはワインの不足が生じたという記録があるようですので、この仮説の信憑性が上がってきます。

しかし、この推論では、当初の設問「なぜ、価格下落が起きたか」と矛盾します。供給が減ったのであれば、価格は逆に上昇するのではないかと。しかし、推論はここで止まらないのです。ポンペイの消失の後、ワインの供給が急減した結果、人々は焦ってローマ近郊のいたるところでブドウ畑を作ったのです。既存の小麦畑やトウモロコシ畑を潰してまで、ブドウ畑を拡大したというのです。当然、供給が不足しているうちは、ワインの価格は上昇しましたが、その後、供給過剰の時代がやってきました。

特に、この時に増加したブドウ畑は、供給不足をできるだけ早く補うために、収量の多い大衆ワイン向けのブドウ畑であったと考えられます。一般的に、畑の単位面積あたりから収穫されるブドウの量を増やそうとすると品質が低下する傾向にあり、ブドウの収穫量を抑制すると品質が向上する傾向があります。畑からブドウが吸収する栄養分がたくさんのブドウに分散するか、少ないブドウに凝縮されるかというように考えていただければわかりやすいと思います。結果、その数年後には、ローマ市場は、大衆ワインの比率が増加する形での、供給過剰状態になり、これがワインの価格の「暴落」に拍車をかけていったと考えるのが自然ではないかと思うのです。

さらに、ローマ国内で大衆ワインが広がったうえに、ガリアからはアロブロゲス族やビトゥリゲス・ウィビスキ族が栽培した現在のフランスの銘醸地のブドウの起源と想像されるブドウ品種から作られる上質なワインの輸入、およびスペインなどのワインの新興国からの輸入が供給過剰に追い討ちをかけて行ったのが実態だったのではないでしょうか?

ローマ皇帝による価格下落対策

こうした由々しき事態に手を打ったのがローマ皇帝のドミティアヌス帝(在位81-96)の92年に発効した勅令でした。この勅令とは「過熱したぶどう栽培がワインの過剰生産と麦不足をまねき、耕作地がうち捨てられてしまったことを確信した皇帝は、イタリアに新たなぶどう園を作ることを禁じ、属州にはぶどう畑のすくなくとも半分を引き抜くよう命じた」*1というものでした。

この皇帝の勅令には三つの意図があったと考えられます。
1.ローマ産ワインを保護し、フランス産ワインに対抗するため
2.大衆向けの悪質なワインを市場から排除するため
3.麦やトウモロコシなどの主食原料の不足を解消するため

一つめの意図は、イタリアワイン対フランスワインという構図であり、われわれの興味をそそります。特に、当時の壺に刻まれた「ピクトゥムを控えよ、アミナエウムを与えよ」*2という宣伝広告などからも、両者が競争をしていたことが窺われ、ドミティアヌス帝がイタリアワインを保護しようと腐心していたことが想像されます。なお、ピクトゥムとは、ガリアのヴィエンヌで生産された当時の人気ワインであり、アミナエウムはイタリアで生産され、先ほど登場したファレルヌムというワインのブドウ品種で、当時の人たちの畏敬の対象であった人気ワインです。しかし、国益という意味では、ガリアもローマの属州になっていたので、この対抗心というのはあくまでも矜持論であって、経済的な防衛論ではなかったと思われます。

そこで、ドミティアヌス帝が最も重視した意図は、2および3の両方ではなかったかと、想像します。特に、2の意図の意味合いは次の通りです。ローマの人たちが、ポンペイの消失の後、ワイン不足に慌て、あちらこちらで低級品種を使って収量を確保しながらブドウ畑を拡張しました。しかし、品質は決して高いワインではありませんから、長距離輸送のコストを払って遠くガリアや地中海沿岸の市場に売りさばくわけにも行きません。結局、こうしたワインは低コストでありますが、輸送コストのかからない地元で消費されることになるのです。これは、民衆へのワインの普及を促進するにせよ、ローマに低級ワインがあふれ価格下落を後押しすることになるのです。ドミティアヌス帝は、こうした事態をきっと憂えていたのだと思われるのです。

しかし、結局のところ、この措置は当初の目論見どおりには進まなかったようです。特に、ローマから程遠いガリアの畑にあるブドウの樹を実際に引き抜いたかどうかを監視するのは、あまり現実的でなかったと思われます。そもそも最初にどのくらい畑があったかも分っていなかったかもしれません。ドミティアヌス帝の勅令は、多少、ガリアのブドウ栽培の北進を遅らせたかもしれませんが、実質的な効果はあまりなかったのではないでしょうか。また、ほぼ自由な交易が行われていた市場経済において、いくら管理能力の高いローマ人であっても、現在の我々にとっても困難な市場のコントロールは難しかったに違いありません。

このようにドミティアヌス帝の勅令の効果は華々しいものではなかったと考えられますが、当時の人たちが表立ってブドウ畑の拡大を出来るわけでもなく、地味にブドウ栽培が続けられていたはずです。そして、この勅令はプロブス帝(在位232-282年)の時代になって、ようやく解除され、それ以降、フランスワインのブドウ栽培の北進が本格化していくのです。そして、このような経緯を経て、この時期のワインの生産地の中心が、徐々にローマ帝国からフランスへとシフトしていったのではないかと想像します。

以上、ワイン産業の中心がどのようにシフトしていったのかをいくつかの資料に記述された史実をベースに私なりに想像し、お話をしてみました。そして、次回以降いよいよフランスでいかにブドウ栽培が定着し、ワインビジネスが広がっていったかを綴っていきたいと思います。

*1『ワイン物語上』(平凡社)より
*2『フランスワイン文化史全書ブドウ畑とワインの歴史』(国書刊行会)より

*参考文献:
ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会
ヒュー・ジョンション、『ワイン物語上』、平凡社

▼「ワイン片手に経営論」とは
現在、ワイン業界で起きている歴史的な大変化の本質的議論を通して、マネジメントへの学びを得ることを目指す連載コラム。三つの“カクシン”が学びのテーマ。一つ目は、現象の「核心」を直感的に捉えること。二つ目は、その現象をさまざまな角度から検証して「確信」すること。そして、三つ目は、その現象がどう「革新」につながっていくのかを理解すること。

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