梅田優祐×伊藤羊一(1)ある日の大手町駅で降臨、ユーザベースを起業 

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人はどのようにして、リーダーとして目覚めるのか――。活躍中のリーダーたちに「その瞬間」を問い、リーダーシップの出現メカニズムを解き明かす本連載。第3回は、世界一の経済メディアを目指してBtoB向けの「SPEEDA」とBtoC向けの「NewsPicks」をリリース、グローバル展開も果たして躍進し続ける株式会社ユーザベースの梅田優祐氏にお話を聞きました。(文: 荻島央江)

<プロフィール>
株式会社ユーザベース代表取締役共同経営者 梅田優祐
コーポレイトディレクションにて製造業、商社を中心とした全社成長戦略、再生戦略の立案・実行支援等に従事。その後、UBS証券投資銀行本部にて、事業会社の財務戦略の立案、資金調達支援等に携わり、2008年に株式会社ユーザベースを設立。企業・産業分析を行う情報プラットフォーム「SPEEDA」と、ニュースキュレーションサービス「NewsPicks」を運営する。

新しい経済メディアのフロンティア

伊藤: 梅田さんは新しい経済メディアのフロンティアということで、たくさんのメディアに登場しています。まず現在手掛けられているメーンの事業、「SPEEDA(スピーダ)」と「NewsPicks(ニューズピックス)」について教えていただけますか。

梅田: 世界一の経済メディアをつくるというのが我々のビジョンです。ビジネスパーソンに朝起きてから夜寝るまでに必要な情報は何でも提供していきたい。そこで2009年から始めたのが、企業・業界データベースの「SPEEDA」です。従来、同様のサービスにはBtoBの複雑なサービスしかなかったので、BtoCでシンプルなものを構築したかった。SPEEDAは現在、銀行や証券会社、投資ファンドなど約500社に導入されており、国内のみならずシンガポール、上海、香港でもサービスを展開しています。

ニュース事業は前々からやりたいと思っていたのですが、スマートフォンが急速に普及し日常生活に入り込んでいくのを見て、「今、やらなければいけない」と思い、2013年9月に「NewsPicks」を新規事業として立ち上げました。

伊藤: SPEEDA がプロ向けの経済情報である一方で、NewsPicksはいい意味で雑多な人が集まっている。SPEEDAとは全くイメージが違いますよね。

梅田: 実はSPEEDAニュースという名前にしようとしていたのを、リリース直前にNewsPicksというブランドに変えたんです。ニュース事業を始めるときに社内で議論したのが、SPEEDAを補完するための位置付けにするのか、それともニュース事業単独で1つのビジネスにしていくのか、という部分でした。前者であれば儲ける必要がなく、SPEEDAのプロモーションにつながればいい。でも最終的に後者を選んだので、「SPEEDAとは一切関係なく、まずはどうしたら多くの皆さんに使ってもらえるか、高収益事業ができるかを考えよう。シナジーはその後でいい」という方向性で事業を進めることになりました。

伊藤: 今のNewsPicksの世界観は当初のイメージ通りですか。

梅田: 近いと思います。ユーザーと一緒につくるものなので、コミュニティーの内容、中身がどんどん変わっていくんです。

伊藤: 生き物ですよね。

梅田: おっしゃるように生き物みたいなメディアなので、常にユーザーに対峙して真摯に向き合い、その都度手を打っていくのが非常に大切ですね。やってみて運用力で決まるメディアだなと思いましたね。コメントの並び順の調整などはまさに運用ですから。今、ユーザー数は100万人です。これが200万、300万になったらどうなるのかは想像がつかない。どういう形が理想なのか、これは常に頭に置いておく必要があると思っています。

典型的なダメ学生だった

伊藤: 今日はリーダーとしての梅田さんの源流に迫りたいと思っているのですが、ぐっとさかのぼって梅田さんはどんな学生時代を送っていたのですか。

梅田: グダグダな学生時代でしたね。大学に入ったときって最初は友達がいないじゃないですか。でも「自分から話しかけるのはかっこ悪い」みたいに思っていたら、気付いたときにはもうグループができあがっていて、あまり友達ができなかった。誘われて体育会のサーフィン部に入ったものの、それもすぐにやめた。ギターを始めたこともあったけど続かなかったし、ビジネスコンテストも準備段階で面倒くさくなって出場せずに終わりました。今、思い出してもイライラするような典型的なダメ学生でしたよね。

高校生のときも、2週間ぐらいで野球部をやめました。何をするわけでもなく、コンビニの前で友達と夜まで話して、お腹が空いたから帰るかみたいな毎日。熱中できるものが欲しいという欲求はずっとあったけど、それが見つからない。いろいろと試しても長続きしない。東京に行ったら何か変わるかもしれないと思ったけど同じだったわけです。

ただ海外旅行にはよく1人で行っていました。熱中できるものは見つからなかったけど、自分で行き先を決め、現地の人たちと仲良くなって楽しんで、解放されている感じ、自由という感覚は好きだなとは感じていました。将来、何か自由にやれる仕事はないかと考えていたとき、たまたま日本に帰る飛行機の中で、マッキンゼーでコンサルタントをしていた波頭亮さんが書いた『プロフェッショナル原論』と出会いました。

伊藤: 僕も読みました。読んでいて背筋が伸びる、刺激的な本ですよね。

梅田: その本の中に「コンサルタントの対価は自由」と書いてあったので、これだと。

伊藤: 世の中の課題を解決したいとか、そういうことではなく?

梅田: そういうのは全くないですね。就職活動で回った会社がどれもしっくりこなかった。波頭亮さんの本で自由というキーワードとコンサルがつながったので、コンサルティング会社であるコーポレイトディレクションに新卒で入ったという感じです。

伊藤: そこでは熱中できたのですか。

梅田: もう必死で奴隷のように働いて、そんなことを考える時間がありませんでした。余計なことを考えず、目の前のことにとにかくがむしゃらに取り組む。強制的にそういう環境になったのが、逆によかった。基礎的なスキルは上がっていきました。

伊藤: そのうちに変化が訪れたのですか。

梅田: 国会図書館に行って大量の資料を印刷してオフィスに持ち帰り、それをひたすら打ち込むという仕事に取り組んだときのことです。そのときにこれはおかしいなと。大学時代に「Google」を知って、これは世界が劇的に変わるぞといたく感動した。それなのに企業ではいまだに非効率、非合理的なことをしている。そのことに社会人になって初めて気付いたんですよね。

その後、転職したUBS証券でもそれは同じ。ロンドンの同僚も、ニューヨークの同僚も、世界中のビジネスパーソンがこんなに非効率、非合理的な働き方をしていることに衝撃を受けました。仕事でいろいろなサービスを使っていましたが満足できるものがなく、これだったら自分でつくった方がいいんじゃないかという思いがふつふつと沸いてきたんです。

起業しようと思ったときに、これまでの人生を振り返りました。本当に何かに熱中していたときっていつだったかと考えると、小学生で野球を始めたときでした。当時、本当に熱中していた。一生懸命練習して試合で勝っては泣き、負けても泣くみたいな。このまま人生が終わっていくのは嫌だ。あのときと同じぐらい熱中できるような人生を送りたいという思いがまた強くなってきたのと、人生をかけるのに十分な課題が目の前にあるという思いが重なり、2008年に起業するに至りました。

大手町で不意に臨界点を超えた

伊藤: 具体的にどこで最終的なスイッチが入ったのですか。

梅田: 明確に覚えているんですけど、地下鉄の大手町駅を歩いているときに臨界点を超えたんですよね。これはやらなきゃみたいな。すぐにオフィスに戻り、頭から離れないうちにメモをしました。ずっと熱中できるものを追い求めていたけど、ずっと見つからなかった。それが不意にあらわれてすごくうれしかった記憶があって、今でも鮮明に覚えていますね。

伊藤: 恐らく馬車馬のように働き続けた何年間かに、起業のエネルギーが蓄積されていったのでしょうね。

梅田: あのまま人生を終わらなくてよかったと思いますね。もし起業していなかったら、何となくいい給料をもらって、何となく幸せだと自分で言い聞かせていたと思います。熱中できるものに出会えたことでこれだけ人生がハッピーになるのかというのは、創業1年目に感じました。

実をいうと、1年目は売り上げゼロで、プロダクトリリースもできませんでした。それでも自分の人生を懸けられるものに出会ったという喜びのほうが大きくて、悲壮感は全くなかったですね。前職では焼肉と言えば叙々苑で、安いチェーン店になんて見向きもしませんでしたが、あのときは牛角が一番のごちそう。「これほどうまい肉はない」って、よくみんなで話していました。

伊藤: 創業メンバーは梅田さん、新野良介さん(代表取締役共同経営者)、稲垣裕介さん(取締役COO )の3人でしたね。

梅田: はい、新野は前職の同僚、稲垣は高校の同級生です。この点ですごく恵まれていました。分身のように同じ目線で話せる仲間がいたのは絶対的に大きいですね。

稲垣はアビームでデータベースのエンジニアをしていたので、彼が技術回りを担当することになりました。ただあくまで専門はデータベースなので、アプリケーションやサーバー関係には別のエンジニアが必要でした。だから最初の1、2カ月はエンジニアを探しているだけで何も進まず、資本金だけが減っていくという感じでした。ただ稲垣は人望が厚く、いろいろな人が集まってきてくれた。その中に現在イノベーション担当執行役員を務めている竹内(秀行)がいて、彼が最初のアプリケーションを1人で作り上げてくれ、ブレイクスルーになった格好です。

創業時、もう1つの課題はコンテンツでした。システムだけを作っても財務データなどのコンテンツがなければサービスは売れません。コンテンツを持っている会社に配信してもらおうにも、見積もり金額が数千万円と高額でとてもではないが払えない。そこで我々が提案したのが、SPEEDAが売れたらそのときにレベニューシェアで返しますというモデルです。当時はモックがなくて、パワーポイントだけだったので、一度渡したデータはいくらでもコピーできたので、ほとんどの会社にそれでは提供できないと言われました。ただ最後の最後にあるシンクタンクの了解を取り付け、コンテンツを提供してもらえることになりました。それが2008年12月ぐらいなので、4月に創業して8カ月間、コンテンツをそろえられるかどうかすら分からなかったのです。

伊藤: 2008年と言えば、リーマンショックがありましたよね。

梅田: 我々も影響を受けました。実は最後に承諾いただいたシンクタンクの前に、別のデータサプライヤーとの交渉が進んでいて、それを前提に開発していたのですが、リーマンショックが起こったことで契約が破棄されてしまった。おかげでまたゼロからのスタートになりました。当時、お世話になっていたアドバイザーの方から「今のまま続けても泥沼にはまっていくようにしか見えない。ここでいったん会社をたたんで再起すべきだ」と助言されたほどです。

その話の後、品川のルノアールに集まって今後のことを3人で話しました。私には毛頭やめる気なんてありませんでした。でも、もしかしたら新野と稲垣がここでいったんリセットしたいと言い出すんじゃないかと思っていたんです。が、それは要らぬ心配で、2人も全くやめるという選択肢がなかった。それもあって、このメンバーだったら絶対に大丈夫だ。もうやるしかない、行けるところまで行こうと心から思えた。創業からこれまでいくつもの試練を乗り越えられたのは、世界一の経済メディアをつくるという明確なビジョンがあったことと、全幅の信頼を置ける仲間がいたからだと思っています。

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