安藤美冬氏×駒崎弘樹氏×古市憲寿氏「10年後の社会・文化—今、僕らがやるべきこと」前編 

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「社会善とは何か。多数者がそれを決めるのか。炎上し世間から叩かれることは悪いことなのか」(為末)

為末大氏(以下、敬称略):今年の夏は世界陸上を観に行ったが、「やっぱりいいな」と思った。分かりやすい。ウサイン・ボルトの金メダルは一番良いことで、銀メダルはその次に良いこと。グラウンド上では何が良いかの基準が順位ではっきりする。しかし今、選手を引退した僕は世の中に難しさを感じている。本サミットは「日本を良くする」というテーマを掲げているが、良いというものの基準が実ははっきりしていない。その定義づくりが難しいのではないかと感じる。(01:27)

従って本セッションのテーマとして、まずは「良い」の基準というか、「社会善とは何か」を議論したい。まずは古市君。壇上の4人はいわゆる炎上経験者だ(会場笑)。炎上を定義すると、何かしら社会に叩かれるということだが、悪いことをして叩かれるのでなく叩かれること自体が炎上ということだ。炎上という言葉について社会的罪のような感覚を持つ方も多いと思うが、人に嫌われたり叩かれたりすることは悪いことなのだろうかと。もしかしたら、「皆が一緒でなければいけない」といった感覚がこのあたりに詰まっているのではないかと思う。この辺についてまずは伺っていこう。(02:44)

古市憲寿氏(以下、敬称略):有名でもないのに炎上だけはする(会場笑)。先月は「ももいろクローバーZと戦争」といった話をして、彼女たちのファンや韓国を嫌いな人から怒られた。2カ月前はテレビ番組で中学生の犯罪について「尾崎豊みたいで格好良い」と、やや肯定気味に言ってしまったら、それで炎上した(会場笑)。ただ、炎上したくてしている訳ではないし、無為なことだと思う。こちらが喧嘩を仕掛けた訳でもないのに向こうが一方的に怒る。しかもそこできちんとしたコミュニケーションを取ることが出来ない。批判者に反論して収まる話でもなく、結局、泥沼になってしまう。(04:15)

ただ、これは影響力が少々大きくなった人には誰にでも起こり得ることだと思う。ツイッターにしてもフォロワー数3000人であれば皆にスルーされていたことも、3万人になれば人目に触れる機会は増える。どこかで「これは自分の価値観と違う」と思う人は出るだろう。その意味では仕方がないことだとは思うが…。(05:14)

駒崎弘樹氏(以下、敬称略):「大変そうだな」と思いながら聞いていたが(笑)、僕もネット上では創価学会員で朝鮮人だと言われている。別にそうではないが、それでもあることないことを書かれて始終炎上している。その理由は、基本的にはネットで発言をしているからだと思う。ただ、これに屈してしまってはいけない。(05:52)

今、ネット上には希望もあるが全体主義的な空気もある。2011年以降のネット上は反原発的な空気が非常に強い状態だった。「原発が本当に必要か否かを冷静に、メリットとデメリットを分けたうえで考えよう」といったことが言える雰囲気ではなかった。僕は当時、被災地支援として福島に「ふくしまインドアパーク」という施設をつくっていた。外で子どもたちが遊べないのなら、せめて屋内で遊べるようにしたかったからだ。そのときもひどい非難がたくさん来た。「福島の子どもなんて今すぐ全員移住させるべきだ。お前は福島の子どもを被爆させ続ける張本人だ」という風に叩かれたりしていた。(06:22)

しかしそこで「本当に何百万人も移住させるのは現実的か?」と言えば、そんなことはなく、出来ることをやっていくしかなかった。結局、何が社会善であり最適解なのかをその時々で、限られたリソースの範囲で考えなければいけない。そしてそれはブラック&ホワイトにはならない。そうした連立方程式を解きながら物事を進めていくには対話しかないと思う。少しでも何かに触れたら炎上してしまうような、あるいは誰かを一斉に叩いてしまうようなネット文化からは皆早く卒業すべきだ。そして、「是々非々はあるけれども良いものをつくろうよ」と。そのうえで、政治家や官僚に任せるのでなく自分達で最適解をつくっていくという方向に早く進んで欲しい。(07:14)

「社会のなかに居場所を探す自己実現の過程で人と連帯し、結果、社会善に結びつく。それも一つの形と思う」(安藤)

為末:一方、もうひとつの方向として、社会にとって良いこととは何かを考え、それにコミットする若者が増えている。皆さまの周りにはそういう方が多いと思う。で、彼らの動機は何かというと、もちろんお金も大事だが、社会に良いことをすることが彼らにとってのインセンティブになっている。その心理についてはどうお考えだろう。社会善に貢献することが個人の幸福でもあると認識する若者が多くなっていると思う。(08:09)

駒崎:社会学者に聞いたほうが良い気もするが(笑)、まず、僕はフローレンスという従業員170人ほどの小さなNPO法人を経営していて、そこで病児保育と言われるものを手掛けている。通常の保育園は子どもが風邪をひくと預かってくれないので親が何度も会社を休まざるを得なくなり、ときにはそれで解雇されてしまうこともある。そのとき、保育園の代わりに子どもを預かるのが病児保育だ。(09:00)

で、僕の温度感で話をすると、最近は、「NPOを立ちあげたい」「NPOで働きたい」という若者がすごく増えている。学生だけではなく社会人も、だ。我々は求人広告に1円も使っていない。ブログやソーシャルメディアに情報を出すだけで大変多くの方が応募してくださる。中途でグローバル企業から来てくれる方もいる。時給1000円の事務職にMBAを持つ女性が、経理職に公認会計士の方が応募してくださったこともある。それほど社会善に対するコミットメントの意識が高まっているのだと思う。(09:36)

古市:個人の意識ということで言えば、日本がある程度豊かになって社会貢献を行う余裕が生まれたことも大きいと思う。特に若い子と話をしていると後ろめたさを感じているのが分かる。「日本はこれほど豊かで良い国なのに、まだまだ困っている人がたくさんいる」と。そこで何かをしたいという声がよく聞かれる。(10:27)

一方、福祉国家の行き詰まりもあるのではないか。ある時期まで、ある程度、社会善は共有されていた。「皆がごはんを食べることが出来るようにする」等々、社会が目指すべき方向はある時期までだいたい決まっていた訳だ。しかし近代化や産業化が一通り行き渡ると良い社会のあり方も個々人で変わる。ある人はもっと政治的な発言をしようと考え、ある人は病児保育に関心を持つ訳だ。だから「それらすべてを国家がやるのではなくNGO等色々な団体に任せましょう」と。良い社会が皆で共有されなくなってきたからこそ、そうした新しい動きが数多く起っているのかなと思う。(10:50)

為末:安藤さんにも伺っていこう。社会善にコミットするということは、基本的には何らかを犠牲にして組織や団体に貢献することだと思う。ただ、安藤さんが現在取り組んでいるのは個々人の自己実現だ。これ、日本社会では叩かれる一番のポイントでもあるように思う。「自分さえ良ければ他はどうでも良いのか」と。このあたりについては対立でなく両方実現する形もあると思うが。(11:46)

安藤美冬氏(以下、敬称略):今の若い人々がどんな思いを抱いて取り組んでいるかと言えば、自分の居場所を探したい、あるいはつくりたいということだと思う。社会善というと、分かりやすいものであれば会社を大きくして雇用を生み出す、あるいは慈善活動を行うといった取り組みがある。今は私自身も東北を応援する「解放食堂」というプロジェクト主催者の一人を務めている。ただ、それを行った当初の動機は、少なくとも私自身に関しては、正直、「社会のために何かやろう」といった思いではなかった。(12:35)

私は元々集英社という出版社で7年間働いていたが、その間、「これにコミットしよう」と思える領域を見つけることが出来なかった。そこでそのコンプレックスを逆手に取り、ソーシャルメディアというツールを使いながらものづくりやコラム執筆等、色々な仕事を行っていた経緯がある。で、そうした活動の動機は自分の居場所を社会のなかでつくることだった。(13:12)

ただ、そんな風にツイッターやブログで発信していくうち、周辺にコミュニティが形成されていった。そこに同じ志を持った人たちが集まり、そしてなんらかの発信を糧に小さなアクションを起こしはじめる個人が増えてきた。そんな風に連帯していった結果として社会善になっていくというのが、私が思う自然な流れでもある。従って必ずしも最初から大きな夢やビジョンを掲げずとも、まずは個人が個人の出来る範囲でソーシャルツールを上手に使いながら自分自身を表明していくこと。その小さなうねりが少しずつ大きなムーブメントに繋がるのではないかと、実体験を通じて感じている。(13:37)

「飛び抜けようと思うと世間を無視せざるを得ない。けれどそれが弱者への想像力を奪う弊害もある」(古市)

為末:すごく好きな映像がある。動画共有サイトで視聴出来ると思うが、とある会場で一人の若者が狂ったように踊りだすと、それにつられて二人目が一緒に踊りだす。で、そうこうするうち、三人目、四人目という風に踊り出す人が増えて大きなムーブメントになるという映像だ。ここで重要なのは、「馬鹿げているように思えたとしても最初のリーダーシップを取りなさい」という意味でなく、実は二人目のリーダーシップが思ったより重要ではないかということ。ひとりの愚か者をリーダーに変えるのは一人目のフォロワーであるという話だ。日本にリーダーシップが必要なことは分かるが、すでに良いリーダーはかなりいるという気もする。ただ、良いリーダーほど叩かれる。良いリーダーが活躍しはじめると今度はフォロワーがそっぽを向きはじめる、もしくは一人目のリーダーに一人目のフォロワーがなかなかつかないということがあると思う。(14:31)

そこで僕が強く感じているのは、日本には世間様と言われる何かがあって、ここからずれると相当に危なくなるという点だ。世間様というよく分からない社会や世の中を見ながら、その空気を読み、その常識を外れないよう行動する。イノベーションを起こすには何か弾けたことをもう少しやらなければいけないのだが、本当にやってしまうと世間様の怒りを買ってしまうかもしれないと考えてしまう。しかし、それを突き抜けていかなければいけないときもある。この辺のバランスが難しいと感じる。(15:32)

古市:フェイスブックをやっていると希望に満ち溢れてくる。「日本は大丈夫だ」と(会場笑)。一方、ツイッターをやっていると絶望的な気分になる(会場笑)。フェイスブックの友人等は階層も自分とある程度似ていて、ビジネスや研究等において第一線で活躍している人が多いからだ。しかしツイッターは違っていて、あらゆる階層の人から発せられるツイートを見ることが出来る。だからどうしても世間様を意識してしまう。それで本当に能力ある人が自分たちで固まってしまう危険性はあると思う。どこかで飛び抜けようと思うと世間を無視せざるを得なくなってしまう。それが結果的に弱者への想像力を奪うことに繋がるかもしれないという弊害が一つあると思う。(16:36)

安藤:ツイッターに関して言えば、「何故この人が?」と思うような人たちからあからさまに叩かれはじめたのはフォロワーが1万人を超えてからだ。そのときに「何故だろう」と考えたのだが、私は最近、ツイッターのフォロワー数を場所に置き換えて考えるようにしている。たとえば今は4万8000人ほどのフォロワーさんがいる。だいたい東京ドーム1個分だ。で、いつもそこで満員の観衆に向かってつぶやく自分を想像している。フォロワーさんが数百〜数千人、つまり小さなコンサート会場や会議室でつぶやいていた頃は一人ひとりの顔が見えていた。また、そうした方は自分が発信する「ソーシャル」あるいは「ノマドワーキング」といったキーワードに割と沿ったうえでフォローしてくれた。だから自分と階層や考え方が似ていた訳だ。(17:40)

しかし東京ドームを満員にするほどの観衆となると性別ぐらいは分かっても、それぞれの仕事や考え方までは分からない。顔もよく見えない。レイヤーのまったく異なる人たちが来ているから。ただ、そうなるとある程度の諦めとともに、それでも自分の軸を持って変わらず発信し続けることの大切さを逆に強く感じる。単純な話、結局は勇気やメンタリティといった部分が大事になるのだと思う。(18:50)

駒崎:僕は、世間様というのはフィクションではないかと思う。僕は病児保育を立ちあげたとき、保育業界で活動していらした先輩方に挨拶で伺った。すると、そこで偉い方々の8割ぐらいは「貴方、舐めているの?」と言う。「私は60代で、貴方は今23? 私が30年やって出来ないことを昨日今日生まれたお坊ちゃんが何故出来るの?」という感じだ。僕としては良いことをするのだから皆が祝福してくれると思っていたが、そんなことはまったくなかった。ただ、それでもやろうと思った。そもそも僕のビジネスモデルは、基本的にはそれまでの保育業界にない形だったから。実際、立ちあげ後も「あいつはお金儲けのためにやっているんだ」と言われていた。神聖な保育の仕事を、お金を貰ってやっているという感じで大いに叩かれていた。(19:36)

しかし事業にビジネス的問題があったかというと、まったくなかった。価値を感じてお金を払ってくれる人、共感してお金を払ってくれる人、あるいは共感しようと思って寄付をしてくれる人がいたら、ソーシャルビジネスは問題なく廻る。従って、そこで反対する人がいるかどうかは関係ない。自分が「有りだ」と思ったら、そして本当にその向こうに社会的課題があり、困っている人の顔が見えるならやるしかないと思う。(20:44)

為末:反対者の方のほうが声は大きく、むしろ賛成者は静かに待っているだけかもしれない。政治にたとえると分かりやすい。世論が変わる方向にしかなかなか動けないのが政治のもどかしいところだ。ただ、会場の皆さんは色々な形でパワーを持っていて、オピニオンリーダーとして社会に比較的強く発信出来ると思う。先ほどは世間様と呼んだが、要するに社会の空気が変われば投票行動等の変化も起きる。そこで色々なことが変わるのだと思う。つまり僕らはフォロワーシップのあり方を変える可能性も持っているのではないかと。ただ、それをどのようなアプローチで変えていけば良いのか。そこで我々は具体的にどんな役割を果たせば良いのだろう。(21:12)

「江戸時代の勧進のように、民や公共が社会インフラにコミットした歴史と精神的DNAが我々にはある」(駒崎)

古市:投票についても炎上したことがある。今年の参院選で駒崎さんとともに、とある選挙番組に出演した。ただ、僕が選挙に行ったのはそのときが初めてだった。それを番組で言ったら、「初めて選挙に行ったやつがこんな番組に出るのはけしからん」と(会場笑)。ただ、何故選挙に行ったかというと、駒崎さんに「この人に入れて欲しいんだけど」とLINEで言われていたから。結局、そういうことだと思う。大上段に構えて「これをやってください」と不特定多数の人に訴えてもメッセージはなかなか届かない。ツイッターのフォロワーが80万人いるアーティストでも実際のCD売上は5万〜6万枚な訳だ。ただ、顔が見える身近な人の一言はすごく大きい。そういった力については空気を変えるうえでも信じたいなと思う。(22:26)

駒崎:投票率を上げるというアプローチがあると思う。僕自身、それにコミットして色々な運動をしている。ただ、選挙のときしか政治に関わらないというのも良くない。特にNPOは政治を汚らしいものとして遠ざけがちだ。「特定政党とだけ付き合うとどう見られるか分からないから」ということで、色々な政党と付き合うか、あるいはまったく付き合わないかという、そんな距離感の取り方しか出来ていない。しかし政治は汚いものでもなんでもない。我々の代表が集まり我々の制度について話す訳で、それにはコミットすべきだ。「敷居が高いし政治家と話すチャンスなんてほとんどない」と思う方は多いが、草の根ロビーイングという方法もある。(23:43)

明智カイトさんという方の例を挙げたい。LGBTということでいじめを受け続けてきた方で、自殺未遂の経験もある。ただ、今は20代中頃で、会社員として働く傍ら数多くの政治家を訪れていた。そして自らがLGBTであることを伝え、自殺に関する法案にそうした方々をサポートする文言を入れて欲しいというお願いを続けていた。LGBTの方の自殺率が高いためだ。ただ、最初は誰にも相手にされなかったという。ある議員には「お前は何を言っているのだ?」と、罵詈雑言を浴びせられたそうだ。しかしそれでも活動を続けていくうち、意外に多くの政治家が会ってくれた。そして彼の味方になり、自殺総合対策大綱のなかにLGBTに関するサポート強化の文言が入った。(24:39)

彼の事例から分かるのは、政治との距離は意外に近いという点だ。一般の人でも「会って」と言えば会ってくれる。国会議員だけではなく地方議員も、だ。だからこそ「世の中は変わらない」「政治なんて汚い」なんて言わず、きちんと関わる。そうするうち、「あ、政治家も人間なんだ。よくやっているんだ」と分かってくる。僕も昔は政治家なんて「うっしっし(笑)」なんて笑っている越後屋みたいな人たちだと思っていた(会場笑)。しかしNPOを立ちあげ、色々な政治家の方とお話をしていくなかで自分と同じ人間ということが肌感覚で分かるようになってきた。これは大事なことだと思う。(25:43)

官僚の方々も財界の方々も同じだ。頭のなかにモンスターをつくり敵と味方に分けて、「あいつらは…」なんていう陰謀論を口にしたところで社会は少しも良くならない。とにかくセクターを越えて対話することで、「なんだ、課題は俺たちと同じじゃないか。それなら一緒に変えていこうぜ」という風にしたい。(26:28)

為末:NPOのような非営利セクターが発展していくと…、たとえば「これはNPOにやって貰おう」という話が増えたら、政治はこれまで手掛けていたことを切り離してどんどん小さくなり、逆に非営利は大きくなると思う。ただ、それが行き過ぎると統括出来ない面も出てくると思う。その辺のバランスについてはどうお考えだろう。(26:50)

駒崎:時代と我々が抱える課題によると思う。たとえば江戸時代、大阪には「八百八橋」と言われるほど数多くの橋が架けられていた。ただ、幕府がつくった公儀橋はそのうち10本に満たない。それ以外の橋は町人や商人がお金を出し合って建設されていた。昔は勧進なんていう言い方をしていたが、今で言うところの寄付で社会インフラをつくっていった訳だ。(27:34)

そんな風にして、民あるいは非営利の社会セクターが非常に大きな役割を担っていた時代が日本にもあった。寺社仏閣が何故1000年以上続いていたかと言えば、歓進僧と言われるファンドレイザーが各地で寄付を集めていたからだ。で、それによって出来た寺は宗教施設であるとともに医療や福祉あるいは教育施設でもあった。そんな風にして、民あるいは広い意味での公共が社会インフラにコミットしてきた歴史と精神的DNAが我々にはある。戦後は中央集権で官僚や政治家に任されていたが、もう少し我々の手に公共を取り戻さなければいけない。「どこかの偉い人が担っている」とか「公共といえば行政サービス」ということでなく、企業でもNPOでも公共は担うことが出来るのだという風にしていかなければいけない。(28:16)

バランスということで言えば今は官に頼り過ぎだと思う。もっと我々に出来ることはある。自宅前で猫が死んでいたら市役所に電話して怒鳴るような、そんな文化が日本にはまだある。そうではなく自分達で出来ることは自分達で。「仲間とともに我々の街を良くしよう」としたそのうえで、「ただ、出来ないこともあるよね」と。その制度に関しては政治家と一緒にやっていく。また、外交や国防あるいは警察機構も、やはり皆でお金を出してきっちりやっていこうという話になる。そのバランスや線引きこそセクターを越えた対話によって是々非々で、そして時代に応じて変える必要があると思う。(29:22)

※後編は11月19日に掲載の予定。

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