リベラルアーツ研究家 麻生川静男氏 −世界にはばたくグローバルリーダーのためのリベラルアーツ(後編) 

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重要なのは、文化圏ごとの根本概念を把握し、それに立脚したコミュニケーションをすること

まず「グローバル思考」とは、どのようなものか。一つには「物事を根本から考える」ことが大切です。また、「理解して貰えるように話す」ことも欠かせません。自分が考えたことを相手に伝えるとき、相手が分かるロジックを使わなければいけない。こういった話になると、たとえばロジカル・シンキングですとかそういった方法論に直結するように考えがちですが、そうではありません。「相手が何を分かっていないのか」を理解したうえで、そこに適切な比喩を混ぜて話す必要があるという意味です。話をするというのは、数学ではありませんので、論理一点ばりではいけません。

相手が分からなければ、分かるところまで持っていかなければいけません。そこで「レトリックの重要性」という考え方が出てきます。日本では、残念ながら、今も昔もこのレトリックが大変軽視されています。しかし、中国、ギリシャ、現在の欧米、インド、東南アジア、あるいは中南米等々、つまり日本を除く全世界がレトリックの重要性を分かっているんですね。ですから日本人もこれを理解し、自分でも自由に使いこなせるようになければいけないと私は思っています。

それともうひとつ、国際人には「グローバル視点」というものも不可欠です。学生に国際理解という話をすると、「それなら私、やっていますよ」と反応するんです。しかし、「じゃあ何をしているの?」と聞くと「アメリカに行っていろいろな国の学生と話をしたら、国は違うけれど、よく理解出来た。インドに行ってもどこへ行っても、社会制度はちがっても友達として話せばお互いに理解し合える。だって同じ人間だもの」という風に答える訳です。

この点については「公的」と「私的」を縦軸に、そして「団体」と「個人」を横軸に置いた2軸チャート(下の図)で考えてみるとよく分かります。先ほどの学生が話していたのは「個人」と「私的」に寄った領域なんです。自分の知っている人、自分が直接対応している人、あるいはシンパシーを持ってくれる人たちですね。そういう人たちと対話をするのであれば話も伝わるし、大きな喧嘩になることもありません。それでどうもこちらの言うことがすべて伝わったような気持ちになってしまうんですね。「国が違うのに意見が伝わった」と。「だから自分はグローバル交流が出来るんだ」という風に考えてしまうんですね。

 

国際人に必要なグローバル視点

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しかし、皆さんのようにビジネスをされているとお分かりになると思いますが、我々が相手にしているのは往々にしてそれ以外の領域にいる人々なんです。「個人」であっても「公的」な人、「私的」であっても「団体」の人。「個人」×「私的」以外のところで付き合うケースがビジネスでは多いんです。

そしてこれら領域を動かしているのが、先ほど申しあげた社会制度、伝統や慣習といったものになります。ですから、そういった社会全般を包含した視点で物事を捉え、考える必要がある。たとえば紛争が起こったときも、当事者ひとりひとりと対話をしていれば別段問題にはならないかもしれません。しかし、団体や国全体という固まりで捉えると、なぜ個人と話している時のように理解しあえないのかが分からなくなってきます。公的や団体という軸で文化をとらえるようにしておく必要があると思います。

グローバル視点というものが分かったうえで、皆さんが修めるべきリベラルアーツがどのようなものかについてお話ししましょう。これにはまず、「リベラルというのは何ですか?」という問いに対する正しい認識が必要となります。「リベラルな人」というのは「自由人(homoliber)」であり、「リベラルアーツ(artesliberales)」というのはそんな自由人が修めるべきものです。自由人と対極にいるのが「奴隷(servus)」です。奴隷は自分で考えることを放棄した人のことで、自分で考えるのではなく、誰かの考えに従って行動します。

自分の意見をもたずに他人のいうことをそのまま鵜呑みにするというのは、たとえば、皆さんが自宅でパーティーを開くとしましょう。自分の料理に自信がないからデパートへ行って惣菜を買い、それを盛り付けるようなことに喩えられます。「それを誰が喜びますか?」というお話です。たしかに、それなりの美味しいものを提供できるでしょう。でも、手づくりであったらどうでしょうか。「美味しい」と言われるか「不味い」と言われるかは分かりませんね。お世辞もあるかもしれませんが、パーティーに来た人は納得してくれますよね。自由人である我々が持つべき意見というのはこの手づくり料理と同じなのです。一流の料理人がつくった料理ほど美味しくはないかもしれませんが、「味のよしあしに拘らず相手は理解を示してくれます。デパートの惣菜というのは、いわば「世間の常識であり定説」です。一方、手作りの料理は「自分独自の考え」というわけです。

自由人とは、自立的かつ批判的に考え、自分の考えと信念を持つ人のことです。皆さんのようなヤングエグゼクティブが学ぶべきリベラルアーツでは、日本人として、東洋人として、まず我々の足元にある文化を理解することが重要です。そのうえで自分たちの文化を客観的に、外からの目で見るべきです。よく、日本の文化に固執して、「だって日本人だからこう考えるのが当たり前だろ」というようなことを言う人がいますね。しかしそれは国内であれば良いかもしれませんが、国外に出たらどうなるでしょうか。韓国の方にとって竹島というのは自分の領土であって、彼らからすると「どこが悪いんだ?」という話になっているんです。そこで、「じゃあ国際的にはどうか?」という観点に立ってものを客観的に考えなければいけません。

そして最後になりますが、とても重要なのが、「世界の様々な文化圏の基本理念・根本概念を把握する」ことです。そして皆さんが個人としての、「人としての生き方を考え、確固たる信念(人生観・世界観)をもつ」こと。これがリベラルアーツでは欠かせません。ディティールにこだわる必要はありません。大事なのは「自分はこの文化はこういうもので成り立っている」という軸というか、核心というか、そういうものをつかみとることです。それが先ほど申しました“手づくりの料理”です。もしかしたら世間では「あなたの考えは甘っちょろい」などと笑われるものかもしれませんが、そんなことは気にしなくていいんです。自分自身でそれぞれの文化の立脚点を押さえ、そこを基点に色々と考えていくうちに、またおのずと考えが深まっていきますから。

今のお話をもう少し大きな概念でまとめてみますと、このようになります(下の図を参照)。まず「グローバルリテラシー」というのが一番大きな概念になります。「グローバル視点」を加味した「リベラルアーツ」ということです。この「リベラルアーツ」が何かというと、「リベラル(自由精神)」な人が持つ「教養」です。この「教養」を私は、「多様な分野の横断的理解」に基づく、「各文化のコアの把握」と考えています。

 

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この図で示したリベラルアーツや教養の概念というのは、世間で言うのとはかなり違います。先ほども言いましたが、世間で教養というと、たとえば「芸術をやりましょう」「万葉集やシェークスピアを読みましょう」、あるいは「歴史も知っておきましょう」といった話になりがちです。要は総花的なんです。分散しているんです。教養は多ければ多いほど良いというのが世間の考えです。もし、「それが多かったらどうなるんですか?」と尋ねると、「それは知らない。だけれども多いほうが良いでしょ?」という答えが返ってくるでしょう。それが世の中の、いわゆる教養というものを薦めている人々の意見です。

しかし、私はそうではないと思っています。強調したいのは、そういった数々の“教養”の要素に横串を通すことこそが重要であるということです。多様な分野の横断的理解が重要なのです。横串を通したうえで、最後に「文化のコア」がぽとりと手のひらに落ちてくるようにしなければいけないんです。

文化のコアというものを自分が分かる範囲でいいですからすくい取らないと、教養にはならないと私は考えています。総花的に教養を身に着けたようでも、それは、ただ持っているだけ。デパートの惣菜を並べただけの話です。幾何学で言うと、このコアの部分が公理や定理に該当します。公理や定理を自分で見つけたらそれを色々なところ適用してみることで、それらが正しいかどうか分かる訳ですね。そうやって公理を知ることが出来れば、次は自分で判断して、行動しやすくなります。ですから「何かを判断するときの基準になるそういった公理を持ちましょう。それによって今までの発散型教育から集約型の教育に変えていきましょう」というのが私の主張する教養というもの、教養人というものです。

地理的な拡がりと、長い歴史の中で捉えてこそ、理解できる

そういったことまで考えていくと、リベラルアーツの対象分野はどんどん広くなっていきます。人文、社会、宗教、科学技術、風俗あるいは一般的な生活史といったものによって、リベラルアーツから見た文化の全体像(下の図を参照)は形成されていきます。

リベラルアーツから見た文化の全体像

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現代の国際社会はあちらこちらで、ひとつの分野では解決出来ない、あるいは理解出来ないような困難な問題に直面しています。しかしそのときに歴史を遡ってみるとよく分かることがあります。短い期間、たとえば直近50年ほどの期間しか見ていなかったときには分からなかったことが、2000年という長期スパンで見ると分かるということがしばしば起こります。

たとえば、皆さんがお勤めの部署に「自分は日本が大好きだ」と言ってやって来たアメリカ人がいたとします。「日本のことをよく知っている」と彼は言うとします。そこで皆さんが「聖徳太子って知っていますか?」と聞いてみたとします。すると「え、聖徳太子?それどういう人?」となる。ではもう少し時代をさがって「源頼朝は?」と聞いてみると、これも知らない。「それじゃあ東大寺って知っていますか?」「え、そんなもの知らないよ」となったらどうでしょうか。もし、その人が知っている日本というものが最近50年の戦後日本だけであったとしたらどうでしょう?その人が「日本を知るのには、戦後50年だけのことだけで十分だ」と考えているとしたら、そういう人と日本についてまともに語ろうという気にはなれませんよね。「直近50年のこと」というのは、たとえば現代のビジネス書と時事問題しか見ていないということなんです。そこだけで日本のことを知って、「日本はこうしたほうがいい」といった話をされると、「少しピント外れだな」と感じるでしょう。

私は、日本についてこんなふうに考えています。「日本には2000年の歴史がある。そのなかでは色々と変革もあったが、芯(コア)の部分は思ったほど変わってはいない」と。今の我々の文化や生活のどの部分がその芯(コア)に該当するのかは分からなくても、そういった芯(コア)は現代にも脈々と引き継がれています。ですから日本というものは2000年のトータルで見るべきだと私は考えます。それを直近50年でチョップオフされたら、日本というものを正しく理解出来ないというのが我々日本人の立場からは言えることなんです。

逆に言えば、我々が世界へ出るときも、そのように世界を見なければいけないということです。つまり相手の国や文化を理解しようと思えば、少なくともここ数百年から1000年のスパンで考える必要があるということです。中国やヨーロッパに関して言えば1000年ではなく、2500年は遡って考える必要があると思っています。

また、グローバル視点のリベラルアーツ教育では地域的な広がりも考えていく必要があります。講演資料に書きましたように、我々現代の日本人にとって考察の対象とすべき地域として、「東洋(日本、中国、韓国)」「欧米(ヨーロッパ、北アメリカ)」、そして「イスラム(中近東)」が挙げられます。もちろんその3地域以外の、東南アジア、インド、中南米、あるいはアフリカも必要でしょう。しかし、そこまで手を広げると収拾がつかなくなるので、「まずは、東洋、欧米、そしてイスラムの三つの地域ぐらいは押さえないといけないのではないか」というのが私の考えです。ただ、かく言う私も残念ながら、中南米は行きましたが、アフリカ、インド、そして中国本土にはまだ行っていません。インドと中近東は、とりわけ中近東は日本経済にとって重要な地域ですが、正直言って私もあまり分かっていません。中国はだいたい分かっていると思っているのですが。

いずれにせよ、先ほどお話ししました、凝縮された「文化のコア」というのは最後に分かってくるものです。ですからその前に、まずはさまざまな観点から文化を見つつ、多様な本を読んでください、というお話です。

ちなみに、そういったさまざまな文化理解のなかで私が特にお薦めしているのは外国人の手によって書かれた旅行記と、そして生活史です。私が過去2年間、京大で行った英語授業のクラス「InformaticsinJapaneseSociety」のなかでも‘Travelers’Views’が一番人気だったというのはそういう意味もあります。ここでは、室町末期および江戸時代に日本を訪問した外国人の日本印象記を紹介しました。これは海外からの留学生にとって非常に興味をそそる内容ですが、日本人の学生の方があまり分かっていないのは、過去のものをあまり知らないからだと私は思っています。「高校のときに過去の日本についてどういうこをと習いましたか?」と聞いてみると、たいていは、「日本の歴史を学びました」とは言います。あるいは「源氏物語を少し読みました」ですとか、「奥の細道や古今集で和歌を少し読みました」とかいう答えが返ってきます。

これらは日本人が書いたものであって、日本の文化を知るために書かれたものではありません。外国から来た人にとってはすべてが目新しい訳ですから、我々からすると「え、どうしてこんなものに関心があるの?」というものに彼らは関心を示します。それが最も花開いたのは江戸末期ですね。1853年のペリー来航をきっかけに日本が開国して以来、多くの外国人が日本へやってきました。特にヨーロッパからたくさんの人々がやってきました。彼らは色々な旅行記を書き残しました。それらを読むと、「我々は本当に日本というものを知っていたのか」と自問すると、多分「日本人でありながら、日本のことをちっとも知らなかったのではないかな」という気持ちになります。。

ちなみに私が韓国および朝鮮に興味を持つようになったのは、実は十数年前からです。大学生の頃や社会人になってからしばらくはあまり関心を持っていませんでした。しかし十数年前、イザベラ・バードというイギリス人が書いた『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)という旅行記を読んで大変衝撃を受けました。それまでの私は当時の李氏朝鮮王朝に関して、何の根拠もないまま「江戸時代と大して変わらないのではないか」と想像をしました。単に「服が違う」とか、「科挙のような制度があった」とか、「両班(と呼ばれる貴族階級)がいた」とか。その程度のわずかな知識しか持ち合わせていませんでした。

しかし彼女は1890年の終わりごろ、明治で言うと20年末に朝鮮を旅行して、当時の両班の振る舞いについて書いています。その内容が、とにかく凄まじいんです。日韓併合前の李朝の頃ですね。彼女が偏見を持たずに朝鮮を訪れ、そして「え、そんなにエグイことをやるの?」と感じたようなことは、自国民である朝鮮の人にとっては当たり前だから、わざわざ書き残されてはいないわけです。一方、イザベラ・バードは率直に書き遺しています。それは、彼女が理性的で、健全な批判精神を持っていたからです。例えば朝鮮の人々は、室町時代にも、江戸時代の日本にも十数回、朝鮮通信使という形で来ており、日本旅行記を書き残しています。そういった本を、私は数冊読みました。しかし、それはイザベラ・バードが書いたものとは全く違うものでした。当時の朝鮮人が書いたものは公式文書だったので、下手なことを書くと自分の首が危ないという事情もあったのでしょう、全く退屈する、単調な読み物にすぎませんでした。いずれにせよ、質の良い外国人の旅行記というのは、文化の本質を知るのに大変良い資料です。日本について知りたいのであれば、江戸末期に来ている外国人の旅行記を是非お読みになるようお勧めします。

「なぜ日本には社歴200年以上の企業が多数存在し、韓国には存在しないのか?」

ここで少し日韓の比較をしてみましょう。日本と韓国のあいだには竹島の問題や韓流ドラマの話題等、色々あります。私は韓流ドラマの歴史物が大好きでよく観るのですが、これはイザベラ・バードが書いた両班の像が脳裏に焼き付いているためです。現代の韓国人から見て、これら両班はどのような人たちだったと考えているのか、と言う点に興味があるのです。私の個人的な好みでいうと『王女の男』や『イ・サン』、『宮廷女官チャングムの誓い』といったものより、ひと昔前の、1990年頃に制作された歴史ドラマが好きですね。たとえば、『龍の涙』や『女人天下』といったドラマは時代考証が非常に優れていますね。イザベラ・バードが書いたような両班の横暴なニュアンスもきちんと描写してあります。それらを観て、私のなかでようやくすべてが統合されていったという訳です。映画やドラマは文化を知るうえの道案内のひとつとして観ているということです。

さて、ここで韓国社会について二つの問いについて考えてみたいと思います。日本に来た韓国人の若者が、作業着で街中を歩くとび職の人を見たとしまね。彼らはその姿を見て「え?」と驚くそうです。「何故あんな格好で街を歩いているの?」と。それで我々は「え?どこが不思議なの?」と思う訳です。もうひとつの質問です。日本には社歴200年以上の老舗が約4000社ありますが、韓国ではゼロ。これは何故でしょうか?この二つの問いは、テーマとしてはまったく違いますね。前者は現代の生活風俗に関することであり、後者はビジネスに関するお話です。

しかし先ほど言ったようにひとつの社会、この例で言えば韓国および朝鮮のコアが分かると、この二つが実は同じところから出てきている話である、ということが分かります。今日は時間がありませんので、残念ながら議論を割愛して結論だけをお話しします。この表をご覧ください。江戸時代の日本と韓国、あるいは日本と中国をいくつかの項目に分けて比較してみますと、次のような違いがあります(下の図を参照)。

 

日韓の比較(日本vs中国+韓国)  Differences : Japanese vs. (Chinese + Korean)

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まず、項目でいうと、政治力(PoliticalPower)、知力(IntelligentPower)、そして財力(MonetaryPower)が挙げられますが、日本では武士や富裕な商人など色々なところにこれらの力は分散していました。しかし韓国と中国では士(Literates)に集約されていたんです。ここで言う士は日本のサムライとは異なります。日本のサムライは中国および韓国でいう士とはまったく違っていました。サムライは向こうで言えば、‘Illiterates(無学者)’に属すると言っていい程度でした。日本でサムライが文字を読めるようになったのは江戸開府から暫くたってからです。また、サムライが文字の読み書きができたといっても、中国あるいは韓国のレベルで考えると全くお粗末な低さであった訳です。

次に、技術力(TechnologicalPower)についてはどうでしょう。鉄砲や時計は日本では、瞬く間に広がりましたが、これは腕のいい職人、‘Craftsmen’あるいは‘Artisans’が数多くいたためです。そういった職が代々引き継がれていたんですね。当然、中国や韓国にも同様の職人はいます。ただ、その人たちの社会的身分は最下層でした。売買される奴隷というのが職人の身分だったんです。中国と韓国では、職人の身分というのは上から見ると‘Illiterates’。俗な言葉でいうと「人間のクズ」という認識だった訳です。ですから一生懸命になってモノをつくろうとしないんですね。そして士といえば、先ほどニーダムが結論づけた通り、科学技術には無関心です。頭が良くてものが分かる人は、そういった職人の世界にまったく入ってこなかったのです。

他方、日本では職人芸というものがそれなりに評価されていますよね。金銭的に恵まれていなかったというのは事実ですが、それでも腕に技量のある人はそれなりに評価されていました。しかし向こうではまったく評価されなかった。それでイザベラ・バードも朝鮮紀行で書いているのですが、朝鮮では買うに値する美術品や民芸品をまったく見つけることができなかったようです。それはそうですよね。世間から全然評価されなかった人々がつくるものですから、たとえば「長持ちするように」ですとか、「使いやすいように」というようなことはあまり考えられていなかった訳です。このような歴史的背景があるので、とび職のような職業についている、というのは韓国人にとっては非常に恥ずかしいことなのです。それで、街中へ出るときには恥ずかしい職業についていることが分からないような恰好をしていくのです。ところが日本では、日中、街中をとび職の恰好をして堂々とあるいている人がいるので、彼らはびっくりした訳です。

江戸時代の日本では士農工商という身分制度は一応はあったのですが、固定的ではなくかなり流動的だったのです。たとえば侍の身分は江戸時代の後期ともなりますと金で売買出来るようになっていました。ですから町人が学者になったり侍になったりと、日本では身分制度はすごく揺れ動いていました。また、社会階級が多岐に分かれてもいました。階級が‘plural’に存在していたんです。

しかし向こうでは‘dichotomy’、イチかゼロです。要するに金を持っているか、持っていないか。文字の読み書きができるか、できないか。それで、社会身分が天地の差ほど開いてしまう訳です。日本と中国の社会の差を一番簡単に調べる方法があります。もし皆さんの職場に中国の方がいたら…、このなかで職場に中国の方がいるという人はいますか?(会場挙手)いらっしゃいますね。挙手された方々は、中国の方に「お金と権力、どちらが欲しいですか?」と聞いてみてください。

日本人に同じことを聞いてみるとどうでしょうか。日本ですと、だいたい8:2ですとか9:1の割合で「お金が欲しい」と言います。中国と韓国は逆なんです。9:1か10:0で「権力が欲しい」と言います。理由を聞くと、「当り前でしょ?」と。「権力があるところには金もあとからついて来る。しかし金だけを持っていても権力のある人に取られてしまう」と、彼らは言います。ですから共産党の汚職なんていうのは、あれはもう彼らにとっての自然の道理なんですね。彼らの社会では理に適っているのです。権力がある人間は他者の金を奪いとる権利があるという風に彼らは考えているんです。そして、それはイザベラ・バードが書いていた両班についても同じことでした。

中国や朝鮮のように、儒教がまともに入った国というのは必ずそうなります。私の結論は、日本には儒教が入っていないんです。こう言うと、皆、びっくりしますよね。「儒教は入っているじゃん」と。違うんです。これは、本物の儒教というものを知らいないからです。たとえば我々が知っているカレーライスというのは、とろみのあるルーがライスにかけてあるという食べ物ですよね。これは日本中どこでも食べることのできるカレーライスです。しかし、インドに行って本場のインド人がつくったカレーを食べた人はいますか?(会場:数人が挙手)本場のカレーは違いますよね。彼らは味噌汁を少し濃くしたようなルーを平たいナンにつけて食べている。日本でつくられているカレーライスは本場のカレーと違うんです。日本のものは、カレーフレーバーのする食べ物なんです。日本人が食べているカレーフレーバーの料理をインド人に見せて、「これは本物のカレーだろ?」と言ったらインド人もびっくりしますよね(会場笑)。本場で食されているインドカレーの概念を持っている人は、日本のカレーをそんな風に見ています。儒教も同様なんです。日本の儒教は儒教フレーバーであって、儒教そのものではないんです。時間がありませんので、儒教についてはこれぐらいにしておきましょう。

さて次は2つ目の質問の老舗についてのお話しです。200年以上の歴史のある会社は日本に約4000社あります。これが中国ですと100社に満たず、韓国に至ってはゼロ。その数字を彼らに見せるとたいていは、少ない理由として、「中国には動乱があったから」ですとか、「韓国には日韓併合や朝鮮動乱のような戦争があったから老舗は潰されてしまった」と言います。それも一つの事実でしょう。しかし、「では今から100年前、中国であれば150年前に戻って、そこにタイムセットをしたうえで同じ集計をしたらどうなりますか?」と考えてみましょう。確実な根拠の数字を持っているわけではありませんが、私の考えではだいたい同じ傾向になるはずです。それは何故か。先ほど言った通り、いくら素晴らしい技術力や職人芸があっても職人や商人は奴隷と一緒なんです。たとえば、たまたま自分の店を持っており、腕が良くて繁盛していて、それで儲けていた料理屋があったとします。そこで、店の子どもが「お父さん、私、大きくなったら店を継ぐよ」と言うと、「やめておけ。どうせ金を持っていても取られるだけ」と父親から言われる訳です。イザベラ・バードの本にもそう書いてあります。父親はこどもに「儲けた金でお前に官位を買ってやる」と。「だからこれから中国でも韓国でも人気の職業は役人だ」と言われます。

もちろん朝鮮の人たちにも手に職をつけている人はいます。日本で言うところの料理人ですとか、菓子職人ですとか、そういった職は当然あります。しかし韓国ではそういった職業はすべて、日本で言うところの河原乞食と同じように冷遇される境遇なんです。ですからそれを300年も続けてはいられない。「300年も続けているほうがおかしい。自分はほかのことをやって社会の上に行くんだ」と、皆が考えます。ですから100年前、あるいは150年前に遡ってみても必ず同じような集計結果になる、というのが私の結論です。

さて、日本と韓国、あるいは日本と中国に関して、日本人には盲点があります。それは、「彼らは日本人と顔も似ているので、心のなかも同じだ」と考えてしまいがちなんですね。しかし、顔と考え方はまったく違います。また、先ほども申しましたが儒教フレーバーと本物の儒教の違い。これも大きいと言えますね。中国と韓国の、いわゆる本物の儒教では血のつながりが我々の想像を遥かにこえて大切にされるんです。その辺は韓国のドラマにも大変色濃く反映されています。

皆さんも歴史で習ったように、日本に儒教が入ってきた時期は5世紀前後になりますが、天皇家は儒教を受け入れました。日本では、儒教が入ってきてからも天皇家において異母兄妹の結婚は珍しくありませんでした。中国人はそういった儒教の教えに反する習慣をみて疑問に思う訳です。本物の儒教ではそういう結婚は絶対あり得ません。その意味で、彼らからすれば日本人は儒教の本質を分かっていないということになるんですね。いとこ同士の結婚についても同様です。母方であれば許されますが、父方では絶対にあり得ません。日本ではあり得ますよね。養子縁組にしても日本の風習は儒教の概念からは外れています。

儒教の影響は、工業の進展に関しても大きな障害となっています。最近の韓国企業は、サムスンなどは特にそうですが、大変成長しているように見えますが、私は一時的なものだと考えています。たとえば韓国ではノーベル賞の受賞者がゼロですよね。これは技術者だけでなく、科学者すらも韓国社会では評価されないからです。『サムスンの真実』(金勇・著)という本に書いてあることですが、サムスンで一番出世をするのは賄賂を贈る人です。事業を上手く立ち上げたり、研究開発で良い製品をつくったりしても、彼らの発想では、つまり両班思想ではあまり評価されません。ですから韓国ではいまだに懐手をしながら人脈をつくり、そしてお金を動かす人が評価されるのです。そういう手練手管を駆使することができるようになるのが、彼らにとっては出世の一番の近道なんです。歴史ドラマなどでも見られることが実社会でも行われているのが、現代の韓国なのです。技術や技術者を評価しない韓国社会は、遅かれ早かれ、いずれ成長がストップする、というのが私の評価です。

ということで、韓国文化の本質を知るのであれば色々な韓国文化を見なければいけません。歴史、宗教、文学、あるいは風俗・生活史等々、さまざまな文化を集約していき、それを確認するツールとなったのが私の場合は歴史ドラマでした。つい先日は、ハングル文字をつくったテワンセジョン(大王世宗)のドラマが放送されていました。そのドラマにはチャン・ヨンシル(蒋英実)というスーパー技術者が登場します。その人はもともと奴婢の身分でした。しかし最後はテワンセジョンが彼の能力を認めて、両班クラスに引き上げた。すると大変なブーイングが起こり、皆がテワンセジョンにさえ逆らうようになりました。朝鮮王朝史では本当にそういった出来事があったんです。

で、そのドラマではチャン・ヨンシルが両班に上がって成功したシーンで、あるナレーションが入ります。「まだ我々はこれと同じことをやっていないか」というナレーションです。それは先ほど『サムスンの真実』で触れた話にも繋がっていきます。つまり、同じようなことが未だに続いているんです。李朝は500年続いた王朝ですが、この500年の歴史を見ていくと、そのなかに通っている太い筋、つまりがんじがらめの固定化された身分制度と厳格な身分差別、があるんですね。そのエッセンスを理解することで、今お話ししたような、現代の韓国社会の問題点、あるいはその結末がはっきり見えてくるという訳です。(参考ブログとして「沂風詠録:(第182回目)『韓国の老舗』」も是非、お読みください)

さあ、リベラルアーツを学ぼう

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あと5分ですが、どれだけ喋ることが出来るか(笑)。ここからは、皆さんがこの私の話を聞いて「リベラルアーツを修めたいな」と思ったときにどうすれば良いのかという‘How-to’についてお話ししていきたいと思います。4つのフェーズに分けて進めていきましょう。

最初のフェーズは「準備」です。まずは何でもいいですから、100の分野に興味を持ってください。私が京大で行っていた「国際人のグローバルリテラシー」という授業では、地域で6つに分けました。「欧米」「イスラム」「インド、東南アジア、南米」「日本」「中国」「韓国」。そしてそれぞれに5つぐらいのテーマを与えていきました。たとえば日本は「科学技術の発展」「出版物の流通」「六国史、大日本史、中国の歴史書との関連」「江戸末期・明治初期の西洋人の記録」「日本人論」、中国は「哲学(儒教、老荘、韓非子、墨子)」「仏教」「歴史(史記、資治通鑑)」「科学技術の発達」「庶民生活(唐、宋、元、明)」「現代中国の諸問題」といった具合です。これで25のテーマができますね。そこにさらに4つほどサブテーマを与えていけば、瞬く間に100ぐらいの個別分野にはなります。それぐらいアンテナを広げることが重要というお話です。さらに、これら個別分野ごとに具体的にどういったことを知りたいかという質問を考えてください。

フェーズ2は「読書」、つまりインプットになります。フェーズ1で立てた質問を、今度は解く方法を探します。さきほどお話しした「普通のリベラルアーツで言われているような総花的教養」が駄目だと私が評価しているのは、この点です。つまり、「問題意識も持っていない状態で、読んだ本から何を得ることが出来ますか?」ということなんです。問題意識なしに本を読んでも、読んだあと、ほとんど何も残りませんよね。それでは駄目なんです。たとえば私がチャン・ヨンシルのことを知りたかったのは、イザベラ・バードが書いていた両班のやり方が本当にそれほどえげつないものであったか、ということを確かめたかったためです。そんなふうに自分の問題意識を解くための読書をする。能動的に本を選んでください。何が書いてあるか分からないような本は捨てましょう。自分の関心のある分野の本を主体性をもって読書をすることが大切です。そして、解説本よりも原典に取り組んでください。原典だけではなく古典というものお勧めします。

本を選ぶ際には、「主食」、「副食」、そして「特別料理」という風に、3パターンに分けて組み合わせよく取るのがいいですね。主食というのは中心軸になる評価の定まった重要図書のことです。しかしそうした本は寝転がって読めないし、重たいから指も疲れます。そのときには副食として新書のような本や雑誌、百科事典などを読んでください。そこから関連知識を吸収してください。そして特別料理というのは外国語の本ですね。外国語で書かれた重要書を時間をかけて読んでください。外国語といえば、まあ、ほとんどが英語で良いと思います。

古典について敬遠する人が多いですが私は古典を読むことを勧めます。それは、古典を読むのは“三角測量”をするためです。古典と呼ばれるものは、当然ながら、著者が生きた時代ならではの倫理観や常識に基づいて書かれています。同じ日本人であっても我々との間に距離がありますね。その距離が離れていればいるほど、現代に生きる我々との考え方や習慣の差が浮かび上がってきます。つまり三角測量をするためには、底辺の2点が離れている必要がありますが、それと同様に考え方の違う古代の書物を読むことで、初めて物事を立体視できるのです。時代だけでなく、地理的にも異なれば、つまり外国の書物を読めば、距離は更に拡がりますから、より良いと思います。

中国の古典では儒教の本、論語や孔子の話がありますよね。私は、論語というのは何度も読んで内容は分かっていたので、「次は孟子をやってみよう」ということで、学生時代に孟子を読んだことがあるんです。これがなかなかの曲者でした。1回読んだだけでは、書かれたことが、まったく分からない。何を目的として何を説明するためのものかさっぱり理解できなかった。それは、孟子と私の問題意識が違い過ぎたためです。離れているから良いと言っても、孟子の場合は離れ過ぎていて全く分からなかったのです。でもそれは最初だけでした。1回目は分からなくても気にする必要はありません。タップからビールを注ぐ場合、最初に出てくる泡は捨てることがありますよね。それと同じ要領です。1回目に分からなくとも、2回目に読むと、なぜかおかしなことに、捨てた筈の泡がなにかこう、自分のなかに残っているんですね。ぼやっと何となく言っていることが分かるんです。そして3回目になるといよいよ「この著者はこういう問題意識なんだな」ということが分かります。古典は分からないという、ほとんどの方の読み方というのは1回目の途中で読むのを止めてしまっているんですね。ですから「古典って面白くない!」という話になってしまのです。そうではなく3回ぐらい読むと、ようやく古典の価値が分かってくるんです。

「特別料理」として外国語で読むことを勧めましたが、外国語で読む利点の一つは、ゆっくりとしか読めないところにあります。いくら語学に長けた人であっても、日本語で読む以上に早く読むことは出来ないでしょう。それがいいんです。意味が分からなければ次に進むことも出来ない。そうして、ゆっくり読んでいるなかで、自分で考える時間が出来ます。日本語でも外国語でもそうですが、本を読むというのは、頭の中にあかの他人の考えが侵入してくるわけですから、初めから自分の脳としっくりとくる筈はありません。著者の思考が、自分の脳の思考になじむための熟成期間が必要なのです。外国語でゆっくりと読むのはこの熟成期間を長くとれるという利点があるのです。もう一つの利点は単語、ボキャブラリーです。単語が日本語に翻訳されてしまいますと、本来どういう単語で表現されていたかは推察できません。たとえばどこかの料理店に入り、そこですごく旨い料理を食べ、「ああ旨かった。ところでこれは何の肉ですか?」と聞いて、「蛇だよ」と言われるに近い感じがします。(会場笑)。つまり、翻訳にはもとの単語が、本国人にとって易しい単語なのか、それともめったに使わない難しい単語か、そういったことが一切見えなくなってしまっている、そういった危険性があるんですね。

外国語の本を読むと、原語と訳された言葉の間の距離など、単語を通じていろいろな面で文化の重層的理解ができるようになるという利点があります。私は最近、フランス語で科学史の本を読んでいます。この中の医学関係の部分を読んでいて気づいたことがあります。驚いたことにフランス語の医学用語の8割はギリシャ語なんですね。フランス人も普段はギリシャ語を使いません。つまり、医学用語というのは、普通のフランス人にとってはちんぷんかんぷんな単語のオンパレードなんですね。見たことも聞いたこともないような単語だらけです。医学用語をしゃべられると、多分2つ3つの単語以外はすべて分からない。そんな言葉をフランス人の医者は使っているんです。

私たちは日本語の医学用語であれば、大抵は分かりますよね。医学用語といっても大体において、漢字とやまと言葉で書かれています。それで、翻訳された日本語で読んでいくと、「え?この文章のどこか難しいの?」となります。しかしフランス語では先ほど言いましたように、医学用語はギリシャ語がほとんどですから普通のフランス人にとっては医学書の文章は、たとえフランス語であっても極めて難しいのです。最近、何回かバイオや医薬の分野のセミナーに出席したのですが、この分野でも新しい用語のほとんどがギリシャ語で出来ているんです。人間の命や健康にかかわることが、その専門分野の人にしか分からない単語で書かれていると言うのは、由々しき問題だと私は思います。IT用語は違いますよね。ほとんどが普通の簡単な英語です。メモリ、ハードディスク、あるいはネットワーク等々。これは誰にでもわかるから、技術もどんどんと広がりますよね。ギリシャ語の専門単語を多用する医学ははっきり言って非常に問題があると思っています。このようにして読書などを通じて、自ら立てた問いへの解を探す中、次第に全体を通す軸、文化のコアのようなものが、つかめてくるでしょう。

フェーズ3は「アウトプット」です。自分の決めたテーマについてある程度いろいろな本を読んで、「この分野の事はだいたいわかった、さあ次はどの分野に挑戦するかな?」という時期に、たとえば「じゃあこれこれのテーマで講演をしてください」などと言われたらどうしますか?知ってることも再度、間違っていないか確認しないといけないし、知らないことについては自分なりにさらに色々と用意しなければいけないですよね。それが一番の勉強になるんです。人前ではなすことで、考え足りなかった所が分かりますし、聴講者からの質問で思いつかなかったことを気づかせて貰える訳ですから。たとえ講演は無理としてもFacebookやブログで意見を発信すれば同様のことが行えます。

そういった発表とともに、フェーズ4として「実務で検証」してみてください。社会人である以上、皆さんも自分自身の意見と会社の意見が異なることは経験しますよね。あるいは仕事上のことで自社と他社との意見が異なるということもあるでしょう。そんなとき、本から得た知識が実務のなかで生かせるかを検証してください。単に記憶しているだけの教養か、あるいは自分の思想の根幹にまで根を下ろしている教養か、分かるでしょう。また、魅力あるビジネスパーソンに出会ったときや外国人とのアフターファイブにおいて、相手に自分の意見をぶつけてみてください。相手からの反応で、自分の考えのレベル、視野、視点についての評価を知ることができるでしょう。それによって自分の足りない点、間違っている点が分かりますから。

私が皆さんのようなヤングエグゼグティブに一番必要だと思っているのはグローバルなレベルで通用する考え方をもつことです。日本のこれからの国益を考えるうえでも、やはり外国の企業や国家に対して意見や発表が出来る代表になって欲しいと思います。そのためには、給料や昇進に直結する資格試験には注力するが、いつ必要となるか分からないようなリベラルアーツには無関心でいる、という態度は改める必要があるでしょうね。また、日本人だけ、あるいは国内だけで通用する議論からは脱却して、グローバルな場で通用するような議論の仕方を身につけることです。

最後は少し駆け足になりましたけれども、こういったリベラルアーツがその一助となればと願っています。ご清聴ありがとうございました。

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