リベラルアーツ研究家 麻生川静男氏 −世界にはばたくグローバルリーダーのためのリベラルアーツ(前編) 

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麻生川静男氏(以下、敬称略):こんにちは。ご紹介をいただきました麻生川です。本日は、「世界にはばたくグローバルリーダーのためのリベラルアーツ」と題し、聴講者の方々へのクイズなども交えつつ進めていきたいと考えています。クイズというのは、米国の大学では「ちょっとした質問」というニュアンスで使われている言葉です。また、私の考えるリベラルアーツの説明とともに、皆さんがリベラルアーツの学習をする際、「一体どうすれば良いのか」という方法論も含め具体的な内容も盛り込んでいくつもりです。

まずは私自身の自己紹介をします。私は学生時代、京都大学の工学部で機械工学を専攻し、1977年、昭和52年に卒業しました。そのあと、サンケイ新聞社が出していたサンケイスカラシップの奨学金を頂いてドイツへ留学しました。当時の私はドイツ語が自分にすごく合っていると感じていて、将来はドイツ語で身を立てようとまで思って、一所懸命に勉強していました。

ドイツに留学してみて、それまで観念的にしか理解していなかったドイツ人の合理的かつ理知的な考えを目の当たりにし、日本との大きな格差を感じました。ドイツ人というのは、ひとことで言うと非常にしぶとく、徹底的に考え抜く、頑固で堅牢な人たちです。その時は、もう岩にぶつかったかのような印象を受けて日本へ帰ってきました。ドイツ留学とヨーロッパ各地の旅行は非常に大きな文化体験でした。この体験がその後もずっと、現在に至るまで私のものの考え方に大きな影響を与え続けています。日本に帰ってきてからもドイツ人とはさまざまな形での付き合いがあり、そのなかで日本とドイツおよびヨーロッパとの文化の違いというものを理解しようと努力してきました。

帰国後1980年に京大の精密工学研究科を修了し、住友重機械工業に入社しました。住友重機械は総合重機メーカーで、よく知られているものとしては、日本丸II世、海王丸II世といった帆船をつくった会社です。入社後2年目に社内留学制度に受かり米国ピッツバーグのカーネギーメロン大学に留学する機会を得ました。

ちなみにドイツ留学時代は、何のオブリゲーションもなかったので、勉強するというより、「徹底的に旅行をしてこよう」と思い、20カ国近くを巡りました。留学期間14カ月のうち8カ月は旅行をしていました。当時はまだ東西対立の時代で、チェコのプラハやハンガリーのブダペストといった共産圏の都市も廻ってきました。

しかし、今度のアメリカ留学中は「まともに勉強しないと修士号は取れないぞ」と、気をひきしめ頑張って、電気工学とコンピュータエンジニアリングの勉強をして日本へ帰ってきました。その後は、ほぼIT業界でソフトウェア・エンジニアとして働くこととなります。

さらに2000年には徳島大学の大学院で工学博士号を取得しました。博士号のテーマは「我々は声をどのようにして出しているか」というものでした。皆さんも声を出していますが、その声の発生原理を微分方程式で表しました。それを見つけのですが、わずか1行の微分方程式です。それで私は“1行博士”と呼ばれたりしていました。

1990年には社内ベンチャーを立ち上げ、アメリカのベンチャー企業とタイアップして、ニューラルネットワーク(神経回路網)を使ったビジネス・アプリケーションの開発を行いました。オリコやオリックスなどの信販系企業で使われました。私の経歴を振り返りますと、ビジネス・キャリアとしてはソフトウェア・エンジニアとしての期間が元も長くなります。あとはアメリカのベンチャーとの連携です。2000年に住友重機械を退職してから、複数のベンチャーの顧問などを4〜5年していました。

その後の2005年、カーネギーメロン大学が神戸に情報セキュリティの大学院を設立した際、3年間、プログラムディレクターとして働きました。その間、日本人大学生の英語力、そして発言力のなさを痛感いたしました。私自身も学生時代は同様だったのですが、教師という立場になってみると、「国際的みて非常にレベルが低いな」と感じます。直近の2008年から2012年までは、京都大学の産官学連携本部というところに所属していました。ここでは主として学生にベンチャービジネスに興味を喚起するのが仕事だったのですが、私自身が力を入れて取り組んでいたのはリベラルアーツ教育でした。今日はその経緯でこのようなテーマのお話しをすることとなった次第です。

私のリベラルアーツにのめり込むきっかけについて話をしたいと思います。それは、私がまだ京大の学部生の1975年、ちょうど20歳のときに大きな衝撃を受けたことがそもそもの発端でした。お渡しした資料にも書きましたが、それが「徹夜マージャンの果てに」という話です。徹夜マージャンの果てにどうなったのか?興味が湧きますよね。このタイトルは、私のブログにも書いていますので、お読みください。今日は時間もありませんので、経緯を端折って結論だけをお話ししますと、この20歳の時に、「自分自身が人生や世界についてまったく真剣に考えていなかった」ということを自覚したということです。

私は子どもの頃から典型的な理科系人間でした。得意科目は、数学、物理、工作で、逆に歴史や国語、特に作文なんて大嫌いでした。それが、ある夜の徹夜マージャンを境としてがらりと変わりました。その時に「工学部の勉強なんてやっていられない」と強く思いました。その代わり自分で取り組んでいこうと決めた目標が「人生の意義をみつけること」、ここで言うところのリベラルアーツだったのです。

当時の自分に人生の意義とか世界はどう動いているか、などについては、もやっとしか分かっていませんでした。知識自体は高校や大学までに、あるいは10歳頃から20歳頃までに、細切れに頭に入ってきている訳ですが、自分のなかでまったく結実していなかったことに当時の私は気付いたのです。それは大きなショックでしたが、同時に「自分はゼロスタート出来る」というポジティブな思いもありました。あとから振り返れば、自分にとってはそれがむしろ効果的だったと思います。

そうした経緯で約30年間、取り組んできた成果を、2008年から教鞭を執ることとなった京都大学で学生に伝えていこうと考えました。京都大学では日本語と英語によるリベラルアーツ教育を行いました。京大以外にも、関西大学や同志社大学で教えましたし今年は奈良女子大でも教える予定です。

ギリシャ・ローマ、中国、語学を自身のリベラルアーツ3大テーマに

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では「リベラルアーツ」とは何かと問われれば皆さんはどう答えますか?私は、基本的に答えを一つとは限らないと思っています。皆さんがそれぞれに「これがリベラルアーツだ」と、決めたら良いと考えています。もちろん私としても自分なりの考え方がありますので、今日はそれに添ってお話ししていきたいと思います。ただ前提としてご理解いただきたいのは、私がここでお話しするリベラルアーツが「世の中で認められているものだ」と言うつもりはありません。ただ、私自分自身が、もがきながら取り組んできたリベラルアーツというものが、「どうも世の中のそれと違うな」という印象を持っています。今日はそういった意味で、私の独自論のリベラルアーツについてお話をします。

少し昔の話になりますが、私はリベラルアーツの研究をするうえで三つの大きなテーマを持っていた時期があります。一つ目はギリシャおよびローマという西洋の大きな中心。二つ目は中国。我々は中国について、知っているようで実はほとんど知りません。間違った理解をしているんですね。そして三つ目は語学。つまり外国語です。外国語というと英語の話になることが多いですが、先ほど申しましたように、私自身はドイツ語で身を立てようと思っていたほどです。ですから学生時代には英語も工学部の勉強もすべてそっちのけでドイツ語を勉強していました。ほぼ毎日約6時間、ドイツ語だけを勉強していました。それで運もあったと思いますが、サンケイスカラシップの留学試験に受かりました。

ドイツへ留学してから色々な本を読んでいく内に「ドイツ語だけでは少し足りないな」と感じました。というのは、ラテン語とギリシャ語に大きな興味を持つようになったからです。この2つの古典語の勉強自体はずっとあとになってから開始することになるのですが、興味を持つようになったきっかけはドイツ人哲学者の(アルトゥル・)ショーペンハウエルでした。ショーペンハウエルというと女性嫌いで著名というか悪名高い人物です。彼の本を読んでいますと、ところどころラテン語やギリシャ語の原文が引用されているんです。こういった引用を何度も目にするうちに知らず知らずの内にラテン語とギリシャ語に大きな関心を持つようになったのです。

また話は戻るのですが、大学3年生のときのことです。京都大学では教養部の校舎が道路を挟んで本部校舎の向かいにあったのですが、当時の私は先ほど申しました通り、工学部の勉強はそっちのけでやりたいことを徹底的に優先していました。語学では、ドイツ語会話2コース、英会話1コース、そしてフランス語を2コース履修していました。

これらの語学がモノになったのかというと、今から振り返って考えると、YESと言えると思っています。というのは、確かにどの語学もレベル的には高くなかったのですが、ちょっとした火、つまり種火がついたんです。その種火は、普通の人の場合、大学卒業とともに消えてしまうのですが、私の場合はたまたま語学に興味があったのでその後も消えることなく残りました。

具体的に申しますと、フランス語なんて長い間、まったくやっていなかったのですが、アメリカ留学もあって、英語力が伸びたので、潜在的にフランス語の力も伸びたのです。それを今、フランス語で科学史の本を読んでいて実感します。それと同じ理屈でドイツ語の力が10あるとすると、何もしなくてもオランダ語の基礎力は4から5ぐらい、身に付いていることになります。森鴎外や福沢諭吉がオランダ語からドイツ語、英語に鞍替えしても短期間の内に新しい言語をマスターしたのはその実例です。

変わったところでは漢文も勉強していました。皆さんはいかがでしたでしょうか。高校で漢文をやっていた方はどのぐらいいらっしゃいますか?今は教育内容が変わって漢文を読んだことのある人は少ないかもしれませんが。(会場挙手)半分ぐらいしかいらっしゃらないですね。私が高校生のときは必修でした。正直言って、私は高校時代では漢文の勉強が大嫌いでした。何故なら、返り点などの読み方の規則を理解していなかったせいで、先生から読み方を教えられても、「それは貴方の勝手な読み方じゃないか」という風に、当時の私は心の中で思っていたほどです。しかしあるとき、漢文の読み方をきちんとマスターしてみると、返り点などの規則は、実に合理的に考えられていることがわかりました。

漢文の話は、今日のお話とあまり関係しませんが、すこし脱線したいと思います。江戸時代の子どもたちは今でいう小学4〜5年ぐらいの年齢になると、皆、すらすらと漢文を読めるようになっていたんです。それは、まず漢文を耳から聞いていたためです。子供たちは最初1〜2年間ぐらいは文字を見ないで、耳だけで漢文を習っていきます。そこで文章とリズムを暗記する。それができてから文章を見ると、文章が頭のなかで音を伴って響いてくるのです。それと同じようにやれば、漢文はだれでも読めるようになるはずです。私は実際にこれをしました。自分でiPodに漢文を吹き込むのです。吹き込み終わったらそれを聞きながら単に、文章を眺めるだけでいいのです。それを1年ぐらい続けていくと、必ず頭のなかで漢文が音を立てて鳴りはじめます。なにも文法の細かい規則を覚える必要はありません。

さて、先ほど申しました通り、京都大学では日本語と英語の2言語で授業していました。日本語のほうは「国際人のグローバルリテラシー」と「ベンチャー魂の系譜」の2つありました。前者がリベラルアーツ教育、後者は私が産学官連携本部というところに所属していたので、ベンチャー支援に関する内容です。実際は、この2つは続きものになっていました。前者は文科系というか人文寄り、後者はビジネス寄りという違いはありましたが、結局のところやっていたのはリベラルアーツだったんです(笑)。このあたりについてはまた後ほど説明したいと思います。

一方、英語の授業では、全60名ぐらいの学生のうち留学生と日本人の半々ぐらいの構成で、こちらも2つありました。一つは、「InformaticsinJapaneseSociety(日本の情報文化と社会)」。ここで言うところの「情報文化」は辞書や百科事典、あるいは歴史書といった、要は文字として書かれているものですね。そういったものを私は情報文化と呼んでいます。それ以外にも教育や蘭学をとりあげていました。このクラス一番人気だったのは‘Travelers’Views’というテーマです。日本にも江戸時代や明治時代にたくさんの外国人が来ました。一番早く日本に来たのはフランシスコ・ザビエルをはじめとした室町時代に来た人たちです。その人たちがさまざまな本を書いているのですが、そういった本の英訳があるのでそれを学生に順番に読ませました。ひとり4〜5行、長いもので20行ほどを読ませるのですが、これが非常に面白く、最も好評でした。あとは‘People’という項目もあります。。そこでは、高校の教科書などには載らないような人々をとりあげました。たとえば木村蒹葭堂とか、南方熊楠、森銑三です。普通の授業では、多少触れられることはあっても、力を入れては教えられないような、そういった人たちをテーマにしていました。

そしてもう一つが「CraftsmanshipinJapaneseSociety(日本の工芸技術と社会)」です。文房具、彫刻、陶磁器、絵画、落語、など日本の職人芸が発揮されたものです。「現代日本の製造業が強い」と言われているのは、そうしたものによるベースがあるからなんですね。そのベースを少し遡ってみると、たとえば薬師寺の三重塔ですとか、たたら製鉄などからはじまっています。その伝統が室町時代や江戸時代に入ってからもずっと続いているんです。このベースが現代の産業にどう関係しているかといったことを学ぶ授業でした。こちらの授業ではトピック的に‘PositiveandNegativeFeaturesofJapaneseCraftsmanship’といったテーマでも話をしました。日本にはCraftsmanship、つまり工芸技術があって、それが大変強かった訳ですが、実際にはその強さが逆に弱みとなっていたところもあるんですね。このテーマは、日欧産業協力センターという所で、日本の産業についてEUから日本に勉強にやってきた社会人にも過去3年間教えました。

ニーダムの疑問「中国の科学技術がどうして西洋に負けたのか?」

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さて、ではそろそろクイズを出してみましょう。「中国の科学技術がどうして西洋に負けたのか?」。これは1900年代を生きたジョゼフ・ニーダムというイギリス人が抱いた大きな疑問です。本当はここで、皆さんの意見を聞きながらディベートしていくと面白いのですが、時間の関係で今回は私のほうから答えを申しあげます。

まず、ジョゼフ・ニーダムという名前を聞いたことがある人はどれぐらいいらっしゃいますか?おひとりですね。さすが、(この日のモデレーターを務めた)吉田(素文)さん。ジョゼフ・ニーダムはイギリスの科学史家ですが、彼は、「中国の科学技術は早い段階から高いレベルに到達していたにも関わらず、なぜ18世紀以降、西洋に負けたのか」という疑問を持っていました。

この疑問に応える前に、まず中国の科学技術がどのように進化していったかを見ていきましょう。ご承知の通り中国には「紙」「印刷技術」「火薬」「羅針盤」」という4大発明と呼ばれるものがあって、記念切手などにもなっています。

ちなみに中国の人々は、「文字」について「日本は漢字を使っているから特許料を支払え」と言っているようです。でも、私に言わせれば「特許料は払います。ただ逆に、明治以降、日本人が作った熟語については特許料を払ってくださいね」となります。現在、中国で使われている現代用語には、かなりの割合で日本から入ったものが含まれるんです。たとえば「人民共和国」「民主政治」なんかもそうです。ITの世界に基本ソフトと応用ソフトがあるように、応用ソフトにも特許がある筈ですから、基本特許であるところの漢字に特許料を支払う必要があるのなら、応用特許は逆にこちらが特許料を貰わないといけない、と(会場笑)。

いずれにしても中国には、4つの大きな発明があり、自国のみならず、世界の文化に多大な影響を及ぼしました。それぞれ発明された年代は異なりますが、紙はすでに紀元前1世紀頃に発明されているんですよ。通説によると、後漢の蔡倫が紀元後1世紀につくったとされていますが、考古学者の言うところでは紀元前1世紀頃には既に存在が認められています。

中国の科学技術はそれ以外にも、紀元前から色々と発展していました。たとえばメソポタミアでは紀元前2000年頃から天体観測を行っていますね。メソポタミア人はその記録を粘土に彫り、そして煉瓦を焼いて残しています。一方中国の天体観測では竹簡や木簡に記録を書いて残しています。ちなみに、過去からの観測結果を調査すると地球の自転はどんどん遅くなっているというのが分かりました。だいたい6万年に1秒ぐらいという割合で遅くなっているようです。

また、数学についていえば、後漢の時代にはすでに連立方程式も解いていました。医学についても同じく古くから黄帝内経や傷寒論のような立派な書物がありました。物理学で言うと、地磁気の偏角については西洋人より数百年前に知っていました。また、技術で言えば、魔鏡、あるいは時計台の脱進機駆動が西洋に先だって発明されています。中国ではこのように紀元前から科学技術が大変に進んでいた訳です。土木技術についてもそうです。我々の先祖が弥生時代にまだ裸のような格好で生活していた頃、中国はすでに巨大な建物をつくっていました。たとえば皆さんご存知の『項羽と劉邦』で、咸陽宮という始皇帝がつくった巨大な建物が「燃え尽きるのに3カ月ほどかかった」と言われていることからも分かります。それほど大きな建物をつくるだけの財力と技術力があったということです。

そういった技術があったにも関わらず、かつてのニーダムも現在の科学技術はすべてヨーロッパがつくった、と思い込んでいたんですね。ところが、あるときケンブリッジの自身の研究室に中国から留学生がやってきました。彼らと話しているうちに、ニーダムは「どうも自分たちが思っていたことと違う」ということに気付くんですね。ヨーロッパは科学技術において世界一を走り続けてきたという認識を持っていたが、どうやらそういうことでもなさそうだ、と。

歴史的に言いますと、ヨーロッパの科学というのは、ギリシャから始まり紀元後2・3世紀頃まで、つまりギリシャ文明の中心がアレキサンドリアに移った時代までヨーロッパの科学技術は繁栄していました。しかしそこからがくんと落ちてしまいました。その後、中世、つまり5世紀頃から13世紀頃まではイスラムが主体だったんです。イスラムというと中近東をイメージしますよね。もちろん中近東もイスラムですが、もうひとつの大きな拠点はスペインでした。スペインというのはアラビアから解放されてまだ500年ぐらいしか経っていないんです。イスラムを追い出して、解放されたのは15世紀の末でした。それ以前の700年はイスラム文化圏に属していました。

イスラムも当初は高度な文化や技術をギリシャから輸入して、自分たちなりに加工しました。それをヨーロッパへ再輸出していたというのが12世紀以降の話です。それによってヨーロッパ人は自分たちの先祖が持っていた技術をようやく理解して使うようになった訳ですね。しかしそれでもまだ、GNPで言えばヨーロッパ全体を束ねても小さなものでした。寒冷で、生産性の低い土地ですから。ところがその一方で中国のGNPは、18世紀頃まで世界の3分の1を占めていました。つまりヨーロッパ全体が束になっても敵わない大きな国力と産業が、当時の中国にはあった訳です。

ところがニーダムが言うように、それが科学技術という形では一向に結実しなかったのです。彼は1948年頃、あるプロジェクトを立ちあげます。「中国の科学技術がどうして西洋に負けたのか?」というテーマで立ち上げられたこのプロジェクトは、60年以上経った2012年現在もまだ完結していません。あと10年ぐらい続きますので70年ぐらいのプロジェクトですね。

ニーダム自身はすでに亡くなってしまっているのですが、亡くなる前に彼は「答えが分かった」と言っていました。「自分が探していた答えは中国の社会制度にあった」と彼は言うんですね。これはどういう意味かというと、中国では権力の一番上にいる人々はすべて科挙に合格した官僚です。彼らは科学技術研究のような手を使う仕事は賤しい者のすることだと思っていたのです。研究をするのであれば、たとえば実験をするには手を動かさなければいけません。しかし中国では、そういった手先を使った仕事を頭の良い人々は誰もしませんでした。実際のところ、やっても認められなかったのです。ニーダムは「こういった社会制度のために中国の科学技術は進展しなかった」と結論づけたのでした。

普通のリベラルアーツの授業であれば、ここで、「はい、おしまい。さあ皆さん帰ってまた色々と調べてきてください」という話になります。しかし私にとってのリベラルアーツは違います。私は、そういった話が我々日本人にとってどのような意味を持っているか、ということを考えます。

ニーダムの答えは「中国の社会制度」というものでしたが、それは彼自身がヨーロッパ人であるが故に「ヨーロッパのことはもう知っている」という気持ちで中国を見ていたから、中国のことだけに目が向いていたのです。しかし、私たちは日本人ですから、こちらからヨーロッパをみて、ニーダムの疑問に対する答えを見つけないといけないと思います。つまり、「どうして中国がヨーロッパに負けたか」だけでなく「どうしてヨーロッパだけが科学技術を発達させることができたのか」という問いかけが必要なのです。

ご存知のように、ヨーロッパでは長らく科学技術が全く発展しなかった暗黒の中世がありました。「中世は暗黒ではない」と考える方もいます。たしかに中世も色々な形でヨーロッパは発展しています。ただ、考えてみるとヨーロッパの中世、ざっくり言って5世紀から14世紀にかけての1000年という期間は、宗教以外のことはほとんどやってこなかったと言って良いほどの時代だったんです。

1000年というと、日本の歴史であれば源氏物語が書かれた藤原道長の時代から現代までに該当するほどの大変長い期間ですよね。そのあいだ科学技術はほとんど発展してこなかった訳です。それにも拘らず、その後、白雪姫のように突如として目が覚めて「おー、科学技術を発展させなくては」と、本当に思ったのでしょうか?「それほど簡単に宗教人から科学者に転身出来たのか?」という疑問が残るんです。つまり、私はニーダムの疑問を逆に捉えました。我々の視点から見て「ヨーロッパ人って一体どういう意識構造を持っている人たちなんだろうか?」と思った訳です。

いろいろな本を読み、考えた結果、私は、ヨーロッパにおける14・15世紀以降の科学精神は、それ以前の宗教精神と全く同じメンタリティを持っていたという風に結論づけました。ここで言う、ヨーロッパ人の持っていたメンタリティとは、「原理・法則を追求する」というものです。原理・法則を追求する熱意、あるいはその思考回路が宗教人であった時代と同じであるからこそ、科学者にも転身出来たと私は考えています。分かりやすく言いますと、数学を知っていれば色々なところにつぶしが効きますよね。機械をやることも出来ますし、電気をやることも出来ます。理工学も出来る。数学というものを知っていれば色々なところで転用が効く訳ですね。それと同じで、彼らは原理・原則を追求する情熱をまず持っていました。その情熱があったために宗教も追求出来たし科学技術も追求出来た。そんな風に私は考えています。

しかし、ヨーロッパの科学の進展は一筋なわではないのです。ヨーロッパの科学の発展のうらには現代の科学技術の隆盛へと至るまでに死屍累々の失敗が転がっているというのがヨーロッパにおける科学技術史でした。たとえば大きな木の枝からは、さらにたくさんの枝が派生していますよね。それと同じことなのですが、科学の発展には成功した本筋以外に、いっぱい失敗した枝があるのです。しかし現在の科学技術史を見てみると、そこにはまるで1本の筋しか残っていないように見えます。それと同様の話であって、我々が今習っている科学技術史は、ほとんどの枝が切り離されたような状態になっているんですね。では本当の科学技術史がどうなっているのか。それを見ていくと失敗事例が死屍累々であったということが分かります。ですから原理・法則を追求するメンタリティだけでは必ずしもいつも成功するとは限らないということです。

あらゆる問いの背景には、それを取り巻く社会制度や歴史が控えている

「原理・法則を追求するメンタリティはヨーロッパにはあったが、中国にはなかった」。これがニーダムの疑問に対する私の答えになります。ニーダムの疑問を考えてみると、彼も言っているように科学技術だけの問題ではありません。結局、科学技術の問題について考えようとしたら、その後ろにいる人、そしてそれら全体をとりまく社会制度についても考える必要がある訳です。さらに言えば、それらは大きな時の流れのなかにあります。歴史という時間のなかにあります。そういった大きな括りで考えないと、こうした問題を理解することは出来ないのです。

恐らくすべての問題がこれと同じでしょうね。つまり、小さな世界を見ているだけでもひとつの解は出せますが、大きな世界で見るとまた違う解が出てくる。(右上がりの曲線を描いて)たとえばこういった線があったとしますよね。どんな風に見えますか?近くで見ると直線に見えますよね。しかし遠くから大きな視点で見ると曲線の一部であると分かります。小さなところで見て直線だと思っていたものが、大きな流れで見ると曲線に見える。「この場合はどちらが正しいのか」というお話です。だからこそ、私は物を正しく判断しようとすれば、視野をもっと広げて見なければいけないと思っています。

先ほども言いましたようにヨーロッパ人が原理・法則を追求する情熱について天文学を例にとって考えてみましょう。中国の天文学にも日食や月食の正確な記録は残っています。ただ、中国には天体に関する理論がありませんでした。「太陽や星はどのように廻るのだろうか」という理論がなかったのです。中国では天文学とは現象を記録するだけで、その奥にひそむ天体の運動原理というものを考えようとはしなかったわけです。しかしヨーロッパ人は天体の運動の仕組みについて考え、そこからサイエンスとしての天文学というものが生まれました。

アリストテレスは「地球は丸く、宇宙のまん中で制止している」と言いました。彼はそれを、そう思うというような曖昧な形で言ったのではなく、そのことを証明した、と宣言したのです。このアリストテレスの証明を受けて、紀元後2世紀のアレキサンドリアに住んでいたクラウディオス・プトレマイオスは「この考え方を発展させていくと宇宙というのはどう見えるのか」と考えました。実際には、たとえば木星や金星はいわば逆の動き、これを退行、あるいは逆行といいますが、をする訳です。しかし彼はこの逆行がどのようにして起こるかを説明出来る筈だと考えました。「神が宇宙をつくったのなら、こういった不可思議な運動をするものにもすべて論理がある」と信じていたんです。また、運動に関してアリストテレスは「完璧なものは円あるいは球であり、円運動をする。円運動こそが永遠に運動し続けることが出来る」とも言っています。ケプラーの法則を知っている我々現代人から見れば、間違っていることはすぐに分かりますが、古代の人々は万学の師のアリストテレスのこの論を信じました。

さて、プトレマイオスは色々と考えたすえ、79個の円を使った天球図をつくりました。その理論というのは、単に円運動するのではなく、円に離心率をつけたり、小さい円を円の上につけたりしつつ、ケースバイケースに分けたうえで79個の周転円を使って惑星の運動をほぼ正確に記述することに成功しました。そこで彼は「アリストテレスの言うことは正しかったし、自分は神の意図を見付けた」と考えました。現代の我々からみれば、このプトレマイオスの理論は間違っていますよね。ただ、彼は原理・法則を追求するという意味ではひとつの成果を挙げています。これがヨーロッパ人の流儀なんです。

当然、そういった原理・法則の追求はプトレマイオスの例以外でも色々とあります。そういったヨーロッパ人の追求を「哲学・心理・社会」と「自然現象・物理現象」に大別し、例をあげてみましょう。まず前者にはプラトンのイデア論があります。物には目に見える物体としての物とは別に、物そのものとしてのイデアが存在していると考えたのです。たとえば「馬であれば馬のイデアというものがあり、それを受け継ぐと馬になる。この論法を推し進めていくと、イデアが分かると人間を正しく理解出来る」とプラトンは考えたのです。

また、ヨーロッパを1000年支配したキリスト教について言えば、ビザンティンの教父たちは三位一体論を理論づけました。「父なる神、御子キリスト、そして聖霊の三者は一体である」として、その三者がそれぞれ独立の相をなしていると彼らは言いました。

あるいはトマス・アクィナス。聞いたことのある方はいますか?一度、彼の本を図書館で読んでみてください。ぜんぜん面白くないですから(会場笑)。『神学大全』のなかで、彼は「神というのはこういう性質のはずだ、とか、こういうことを考えている筈だ」といったことを書いています。私たちは小学生の頃に火星人や土星人の姿を想像して描いたりしていましたよね。「火星の重力はこうだから、こういう人種がいたに違いない」と考えて「ひょろりとした足と大きな頭があって」ですとか、そんな風に想像していましたよね。もし今、私が火星人について本当にそういった論文を書いてどこかの学会で発表したとすると、どういう反応があると思いますか?「そんなの、おかしいよ」と言われるに決まっていますよね。「そもそも火星に人はいないのに何故火星人の話なんてするんだ?自分で見たこともないし存在が証明されてもいないのに、何故火星の人たちがそんな格好をしてそういう行動をしていると分かるんだ?」と聞かれるに決まっています。それと同じことをやったのがトマス・アクィナスです。本会場にキリスト教の方がいたら絶対に怒られますね(笑)。ただ、トマス・アクィナスの『神学大全』は実際にそのぐらいのレベル、つまり火星人の話とおおよそ同じ類の妄想であると私は考えています。

しかし、少なくとも彼らはそんな風に興味を持って神というものの実体を追求し、論理的にも、一定の枠内では矛盾が起きないよう努力していました。我々はその点を理解する必要があります。ヨーロッパやアメリカの文化を理解したいと思ったなら、我々はそのような根源部分を理解しなければいけないと思います。そうでなければ我々は彼らがやっていることを理解したことにならないし、逆に言えば彼らも我々のことを理解しなくなるという風に考えています。

以上が、ニーダムの解答と、それに対する私の解答ですが、ニーダムの疑問はもっと別なところへと波及していきます。それは先ほど申しました通り、科学技術の発展は社会制度に関係しているというお話ですね。次は、そうした社会制度についても考えてみましょう。

献上された機械式時計と鉄砲からその後の科学技術を発展させた日本

たとえば機械式時計というものがあります。これは私が最近読んだ『時計の社会史』(角山栄・著)という本に書いてあったことですが、内容を簡単にまとめますと「ヨーロッパの機械式時計は、まずフランス・ドイツにおいて16世紀頃から色々な形で発展しましたが、17世紀にはいって、イギリスやスイスでさらに精度の高い時計がつくられて普及した」ということになります。その原因は、フランスがユグノーを追放したり、ドイツ30年戦争などで、国土が疲弊したために、腕のよい職人がイギリスやスイスへ逃亡してしまいました。その結果、時計産業が地理的に拡がり、普及していったのでした。ただ、フランスとイギリスを比べてみると普及の仕方がまるっきり違っていました。

フランス人は時計というものをデコレーションと捉えており、正確な時間や耐久性といった要素をまったく求めませんでしたので、華美・装飾を旨とする方向へと発展しました。一方、イギリス人は「時計はビジネスのためにある」と考えていました。我々が使っている腕時計と同じ感覚ですね。ビジネスに遅れないようにするため、時計を使う。つまり実利目的で時計を購入した訳です。そんな風にして実務的な用途で時計を使うため、正確で長持ちするものを彼らは求めていました。そんな風に時計ひとつをとっても、同じヨーロッパ文明のなかでフランスとイギリスの時計技術に求めるものは違っていたんです。

では次に中国における時計のあり方を見てみましょう。実は中国と日本ではほぼ同じ頃、1500年代の後半にイエズス会士によってもたらされました。中国では100人以上の時計技術士が皇帝専属の技術者として日夜、最高級の時計修理に従事することとなりました。康熙帝、乾隆帝などは何千個という膨大なコレクションを持っていたんです。それらが止まったり壊れたりするたび、技術士たちが修理をしていました。ですから時計のことを非常によく知ってはいたのですが、時計は中国でまったく普及しませんでした。

同じ頃、日本に入ってきた時計はどうなったか。あるとき徳川家康に献上された時計が壊れたのですが、それを尾張の鍛冶職人が修理しました。その職人がその時計とそっくりのものをつくっていったんです。そこから時計というものがじわじわと広がって、最終的には加速度的に普及していきました。しかも、その時計の製造技術が次はからくり人形に応用され、そこからさらに近代機械産業へ発展していったという訳です。

つまり一台の時計、あるいは種子島に来た2丁の鉄砲が、日本における機械産業の種火となり、それが大きくなっていったという訳です。そういったことを考えていくと、またひとつの疑問が湧いてきます。

先ほど、朝鮮半島を通して入ってきた技術によって建造された大仏や五重塔の写真をお見せしましたが、その後、日本で作られた工芸や技術の多くのものは、これら朝鮮および中国の流れをくむものでした。しかしその後の1550年頃、種子島に鉄砲が入ってきます。その次に時計も入って来ました。二つの本当に些細な技術輸入が、からくり人形、そして現在の日本の工業にまで一気に広がっていったという経緯は先ほどお話ししました。

ここで中国と日本を比較してみましょう。どちらにも同じように時計はあった訳ですよね。技術者も同じように育てられました。中国の場合はそのレベルがさらに高く、環境も良かった訳です。というのも、イエズス会の何人かが中国の宮廷に雇われて技術を伝授したんですね。一方、日本では、時計の仕組みを手取り足取りとは、教えてはもらえませんでした。それでも日本のほうが広がっていった訳です。そして最終的には近代日本における産業技術や製造技術の発展にも繋がっていきました。

つまり社会制度として見ると、日本でたまたま偶然に工業技術が普及していったという話ではないんです。中国や韓国が言うようにラッキーな訳でもなかった。普及していくようなメンタリティ、あるいは社会制度のベースがあったのだ、と私は思っています。中国で普及しなかったのは、先のニーダムの結論のように科挙に代表される社会制度の影響を多いに受けていた、ということになります。

いずれにせよ、私が考えるリベラルアーツでは、このようにテーマを広くとっていきます。ひとつのテーマを多方面から見て判断します。従来の日本のリベラルアーツ教育の大きな欠点は、人文系しか扱わないという点であると私は考えています。リベラルアーツと言った途端、「芸術をやりましょう」とか「歴史をやりましょう」とか「万葉集を読みましょう」とか、そういった話になってしまいます。そして今お話ししたような科学技術が少しも入ってこないという点です。

しかし、我々は実際に生活をしている訳ですから、そのベースを支えている産業基盤、いわゆるインフラストラクチャーも私たちの考え方を反映しているんです。そこを全く外して儒教であるとか封建制度であるとか、そういった観念論的な領域の議論に偏っては何事も分からない。トータルして考えなければ結局は何も分からないというのが私の主張するところであります。

かなり独断で、結論めいた話になりますが、グローバル視点のリベラルアーツ教育というのは以下のようものになると私は考えています。時間の関係もありますので、多少、割愛しつつご紹介していきます。

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