赤坂憲雄氏 「東北という沃野 〜もうひとつの歴史と再生への祈り〜」 

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赤坂:こんにちは。本セッションは私がひとりの講演ということで、とても寂しくて相手を探したのですが誰も相手になってくれませんでした(会場笑)。それで私ひとりが喋ることになってしまったのですが、全体のプログラムを眺めてみると私のところだけがなんだかとても牧歌的な感じがします(会場笑)。

政府による復興構想会議でさまざまな議論が行われましたが、そのなかでいくつか印象に残っている言葉があります。そのひとつは建築家である安藤忠雄さんのものでした。建築家であるにもかかわらずというか、建築家だからこそなのか、安藤さんの言葉はとてもエッジがたっているという印象があります。

東北はまだ「植民地」だったのか、と思わずにいられなかった出来事

そのなかでも強く記憶に残ったのが、「今から30年、あるいは50年後の将来の姿を考えながら、現在の復興を考えるべきだ」という言葉でした。これは、当たり前の発言に聞こえるかもしれません。しかし、復興構想会議は震災が起こってから一カ月と少ししか経過していない時期に始まった会議です。当時は当然ですけれども、「今そこで苦しんでいる被災者の方々に対してどういった支援が可能なのか」というところに議論が流れていきました。

そのなかで安藤さんが何度か言われたんですね。「30年後の日本。そこから今を照らし出す」と。もっとも、安藤さんご自身がその言葉を口にされたのではなく、そういう立場といいますか、思考の拠り所のようなベクトルが必要、という話だったのですが、それがとても印象的でした。そこで私としては東北におけるこれまでの100年を考え、そこから次の50年間にわたる日本を考えてみたいと思うようになりまして、これまでいろいろいろいろなメディアで発言もしてきました。震災が発生して間もなくのこと、最初に新聞で文章を書いたとき、私は「植民地」という言葉を使いました。「東北はまだ『植民地』だったのか」という言葉を呟くように書いたんですね。もちろんさまざまな思いを込めて、あるいは挑発も込めて使ったのですが、その言葉がいろいろな人たちに伝わって「あれはどういう意味だったんですか」とよく聞かれました。

私が20年前に東北を歩きはじめた頃、東北にはまだ戦前の記憶が鮮やかに残っていました。「男は兵隊、女は女郎、百姓は米を、東京に貢ぎ物として差し出してきたのが東北だ」と。そんな言い方をいろいろな人がしていたんです。私も聞き書きのなかで、そういった話をあちこちで聞いてきました。しかし私が東北を本格的に歩きはじめた90年代初頭、バブルがちょうどはじけた頃には、もうそういった内なる植民地的東北という時代は終わったんだと、どこかで感じていました。ところが今回震災が起こってみると、「いや、東北はまだ『植民地』なのかもしれない」と感じた。もちろんカッコ付きです。しかしいずれにしても、「植民地」なのかもしれないと思わざるを得ないような状況がいろいろなところに転がっていました。

まず何よりも東京で使う電気を福島がつくっていた。そのことは知っていたはずなのに衝撃を受けました。そして事故が起こって以来、その処理の形あるいは姿に関しては、今に至るまで納得できないことがたくさんあります。もしこれが東京のすぐ傍らで起こった事故であったなら、こんなにのんびりと事が進むはずがなかったと思います。220kmという絶妙の距離が、風向きもあって、「この程度なら東京には届かなかった」という油断や慢心、あるいは驕り。そんなことを感じる瞬間がありました。

私は東北を歩きはじめてから、象徴的にいくつかのことを考えるようになりました。ひとつは「東北は製造業の拠点だ」ということについて。これは復興会議でも資料のなかで繰り返し語られた言葉です。しかし東北を歩いてきた私の印象では、ここに違和感があったんですね。まあ民俗学者ですから、稲作や畑作、狩猟、そういうことにしか関心を持たないという悪い癖が視野を狭めていたという背景はあると思います。

ただ、被災地を歩きはじめてふと気がついたことがあります。あるとき、津波の被害を逃れた少し高台の集落を訪ねたのですが、ある農家の庭先にプレハブの建物がありました。なんだろうと思って訊いてみたら部品工場でした。とても気になったのでなかに入れてもらいました。すると村の女性たちが自動車向けに電子系統の配線を一つひとつ、図面に沿ってまとめてながら管に入れていくという、そんな仕事をしていたんですね。これは相当厳しい熟練仕事だと思います。ひとつでも配線が間違っていれば自動車は動きません。それに作業した方の番号がすべてふってあるので、最終的に元請企業で配線が間違っていると分かれば、作業した人に名指しで突き返されてくる。ですから結構きつい。10年ぐらいやっている人もいるという仕事でした。

そこで何に驚いたのかといいますと、賃金です。訊いてみると、その女性たちが手にする賃金は時給にすると300円前後なんですね。「そうか、ここにはまだ時給300円の世界がこういう形であるのか」と。もう孫受けの孫受けの、そのまた孫受けぐらいの仕事ですから。村に入ってきた段階ではそういう賃金ベースになってしまっているという現実があるわけです。実はその地域で10数年前、「余りにも賃金が低い」ということで条件闘争をやった工場があります。その結果どうなったかというと、企業に簡単に引き上げられました。「もうお前のところには仕事を出さない」ということで10年ほど置き去りにされてきた。その後、ようやくその家の方が交渉に交渉を重ねてとってきた仕事。それが賃金300円の世界です。「これはアジアにまっすぐに繋がっているんだな」と。東北はアジアに繋がると、私としては思わざるを得ませんでした。

それからこういう話もあります。戦前には…、申し訳ありませんけれども「女は女郎」と言われて身売りというものがなされていた実態があります。貧しい家々が食えなくなってしまい娘たちを身売りする。そういったことがたくさん行われていました。「今はもう、いくらなんでもそんなことないよな」と思いたいところです。しかし震災のあと、私の周りにいるノンフィクションライターやジャーナリストたちにアンテナを張っていましたら、やはり引っかかってきました。私の友人であるジャーナリストが怒りを抑えながら教えてくれました。東北から女性が、札幌のススキノや東京のいわゆる風俗にどんどん流れているという話は以前から聞いていました。しかしそのとき聞いたのは、いわゆるアダルトビデオ業界が活況を呈しているということでした。安いお金で女性たちを使うことができるから、それでバブルになって皆が大喜びしているというんですね。「それを嬉しげに吹く奴がいた」というのです。

「なんだ、女は女郎という戦前の昔話が今もまだ続いているのか」と、そういうことを感じさせられた瞬間でした。もちろん植民地といってもカッコ付きです。そこで起こっていることを戦前のようなレベルで語ることは到底できません。しかしその現実を一つひとつ見たり聞いたりして確認しながら、私自身は昨年4月のはじめから東北を歩き続けてきました。ですから今日はそういったことを通して復興に関していくつかお話をしてみようと思っています。

日本が20〜30年後に直面するはずの超高齢化社会が、時間を早回しして今出現した

私のなかではこれまで、「30年後あるいは50年間の日本列島を思い浮かべて、いま何をなすべきかを考えるべきだ」という安藤忠雄さんの言葉が頭にずっと引っかかっていました。そのなかでいつしか考えはじめたことがあります。それは「8000万人の日本列島」というものを思い浮かべながら、そこからの光で現在を考えることができないかというものです。ここ1週間ほどのあいだに、「50年後、日本列島の人口は8700万〜8800万になる」という報道が話題を呼んでおりましたよね。実際は随分前からそういったデータは出されていたと思いますが、私自身はそれがずっと気になっていました。今回の震災を見てみると、とりわけ三陸の津波に洗われた村や町は今から20年か30年ののち、ゆるやかに辿り着くはずだった日本の現実というものを、もう猶予もなく剥き出しにさらしてしまったという印象があります。

津波の被災から1〜2カ月でたくさんの人たちが「ここでは暮らしていけない」と避難をはじめ、町から脱出をはじめました。小さな半島の村々では、「もうここに戻って漁村を立て直し、家を立て直し、生活を立て直すことは出来ない」と見切りをつけてコミュニティを解散するという動きも、昨年5月の段階からはじまっています。ただし、こうしたことはほとんどニュースにならないんですね。華やかな話ではないですし。ニュースとして取りあげられない。コミュニティの「解散式」にマスメディアを呼ぶということも恐らくないんですね。ですから、なかなかニュースを見ても引っかかってこない。けれども現実には、そういった厳しい状況が展開されていました。

また、東北を歩いていてすぐに気が付いたことのひとつが、市町村合併が被災地に与える影響でした。たとえば石巻。街の中心部は結構報道がされているんですね。ところが周縁部の合併によって石巻市に組み込まれた地域には目が届いていない。それも当然だと思います。それぞれ行政単位があった地域を経済効率のもと合併させた。ですから、たとえば村役場で30人いた職員を10人にしているわけです。しかも職員は中心部の役場に集まっている。当地では本当に呪わしげな声がたくさん聞こえてきました。「市長なんて、俺んとこには一度も来たことがないし、誰も来やしないよ」と。本当に無残な光景が、街の周縁部で吸収合併された地区に広がっていました。

残念ながらメディアはある意味で行きやすいところ、危険ではないところを撮っているようにしか私には見えません。しかし周縁部を歩いていると、本当に打ち棄てられたような被災地が8〜9月の段階でも残っていた。「こんなところがあったのか」といった状況がたくさんありました。そうした地域で聞き書きをはじめて気づいたのが、これは20〜30年後、我々日本社会が直面するはずだった超高齢化社会が、時間を早回ししたように被災地では剥き出しの状態で出現してしまっていたということです。

統計によって異なるのですが、今回の三陸を中心とした津波で被災した人たちのおよそ3分の2が高齢者と言われています。話を聞きながら歩いても、間違いなく老人の犠牲者が圧倒的に多かった。また、私がニュースに目を懲らしているときに注目していたのは、高齢者介護施設や特別養護老人ホームといった施設の被害が特に大きかったということです。恐らく理由ははっきりしています。価格が安くリスクの高い土地にそうした施設が建てられていた。これが現実なんだろうと思います。だからこそ高齢者介護施設や特別養護老人ホームで集中的に被害が発生した。当たり前だと思いますね。身体が不自由で逃げることのできない人たちが、実は最も危険な場所に置かれていたわけですから。

我々がそこから目を逸らしてはいけないのは、介護の現場で働いていた人たちもそこでたくさん亡くなっているという現実です。これはいくつかのニュースでも取りあげられましたが、地震が発生してから津波が来るまでには30〜40分の時間がありました。波がいくつもありましたから、実は避難することはできたんですね、普通であれば。ところが施設によっては数十人の寝たきり高齢者を抱えていました。そこで管がついていたりする人たちをどうやって避難させることができたのか。一人ひとり手当をしていた避難過程で多くの方が亡くなっていますが、避難すらできず、老人たちの傍らに留まって亡くなった介護者の方たちもたくさんいるはずです。

しかし、そういう事実はなかなかニュースで取りあげられません。施設だけでなく、家でそうした要介護高齢者を抱えていた家庭もまた、犠牲になっている人の確率が非常に高いと思います。私の教え子の家族も、寝たきりであった祖父の傍らに留まりました。その家にはおばあちゃんと母親と父親、そして姉と妹もいた。助かったのは父親だけです。津波に巻き込まれながら助かったのはほとんど男性ですね。体の頑健な男たちしか残らなかった。

「津波てんでんこ」という言葉が賑やかにメディアで扱われ、災害教育のなかにこれを取りあげようという動きもあります。これはとても悲しいのですが、「てんでんこ」というのはそれぞれに勝手に逃げろということですよね。家族を置いて逃げることができない状況になるが故に、そういう教えを親は子どもたちに語り聞かせてきた歴史があるんだと思います。私は大槌町で、新しく町長になった方の話を聞いたことがあります。もう子どもの頃から母親に「津波てんでんこだ」と、津波が来たら真っ先に自分のことだけ考えて逃げろと教えられていたそうです。でも逃げられないんですよね。逃げられないからこそ「私を捨てて逃げていいんだよ」というふうに、もう日常的に教えている。そういう言葉にしか私には聞こえません。

いずれにしても高齢化社会がさらに進んでいくのであれば、災害時にそうした災害弱者である高齢者や子ども、あるいは身体障害者や病人の方々をどのようにして守るのかが非常に大きなテーマになってくると私は考えています。そういった人たちを危険な場所に住まわせておけば、また犠牲者を増やしてしまう。そういう方たちには災害時でも被害が及ばない場所になるべく普段から住んでいただいたほうが、社会にとって犠牲が少なくて済みます。そんなふうに発想を変えていかないといけない。目の前の経済効率にばかりとらわれると犠牲が増えるのかもしれません。

中央集権的なシステムよりも、分散型のローカルな仕組みを

このほかにも、いろいろと聞き書きをしてきたなかで見えてきたことがあります。生き残った方々、あるいは災害被害を最小限に留めた方々を見てみると、そこにひとつ、コミュニティの存在があったという点。人と人との絆や助けあいの絆が残っている地域はそれ故に、犠牲者を出したりすることもありましたけれども、やはり助かる確率が高かったと思います。

東松島市のある地域を訪ねて気がついたことがあります。もうほとんど土台しか残っていない地域だったのですが、そこにはふたつの地区が隣り合わせに並んでいました。しかし片方の地区では200人の犠牲者が出ているのに、もう片方の地区ではその約10分の1の18人の犠牲者にとどまっていたんですね。それで後者の地区で「どうしてなんですか?」と訊きましたら、あるおじいちゃんが答えてくれました。「そうだな…、俺らは律儀に避難訓練してきたからかな」という言い方をされていましたが、それをもう少し丁寧にときほぐしてみると、恐らくその地区ではコミュニティが生きていた。村のどこに寝たきりの老人がいるか、そういったことを皆が知っていたわけです。それで避難の際、「あのお宅の老人は?」と、誰かが助けに行って学校やかんぽの宿に連れて行くという、そういったシミュレーションというか訓練がなされていた。実際、ある私の教え子のお母さんは、揺れるとすぐに隣に住む足の悪いおばあちゃんを訪ね、手を引いてかんぽの宿へ一緒に逃れて助かっています。

コミュニティ。これは古めかしいテーマでして、「そんなもの要らないよ」と思われがちなんですけれども、震災で生き残った人たちは確実にコミュニティに支えられています。ある地域では海に向かって最先端の場所にある島が、橋の崩壊で孤立していました。しかし島で生き残った老人たちは集会所のようなところに集まり、それぞれの家に残っていた食べ物を持ち寄って10日ほど生き延びたというケースもありました。そこでは明らかに人と人との、流行語にもなりました絆や助けあいといったことが当たり前のように行われていた。それ故に、およそ10日間、彼らは生き延びることが出来たわけです。

そしてもうひとつ。これもなかなか表には見えてこないのですが、私は「井戸かな」と思った瞬間がありました。現代に生きる我々のほとんどは上下水道が完備されている時代のなかで、「井戸」という、つまり敷地を掘って地下から水を汲み出すという、そういう古めかしい伝統的な道具を捨ててしまっていた。しかし実はそれが活用された場所があったと聞いています。この話をもう少し広げてみるとこんなが言えるかもしれません。震災で上下水道や電気といったインフラは寸断されました。そして数カ月も水道が通らない地域が出てしまった。いわき市内ですらいまだに信号がきちんと通じていないところがあるなど、電気・水道・その他インフラは震災で大きな打撃を受けました。ところが面白いことに、井戸のような極めてローカルな仕掛けを温存させていた地域が、それによって命を繋ぐことができたという事例をいくつも聞いています。

我々はさまざまな中央集権的な仕組みをどんどんつくってきたわけですが、それらが巨大災害のなか、極めて弱い部分をさらしたのかもしれません。もちろんそうせざるを得ない流れはあった。しかしサバイバルということを考えたとき、極めてローカルで伝統的な手段や暮らしのインフラを温存することもまた大切になるかもしれない、そんなことを私は感じました。

また、今回の震災で、スーパーやコンビニといった中央集権的に構築された効率的流通網は見事に寸断され、破壊されました。そのなかで面白いことに、地域の人々が自分たちで生産したものを持ち寄っていた小さな市場のようなところは生き残っていた。それらは少なくともサバイバルの場面で大きな役割を果たしたようです。私たちは、中央集権的なシステムの限界が露出したことをきちんと認めるべきなのかもしれません。もちろん限界があるからといって、それを捨てるべきと言う意味ではありません。中央集権的なシステムと補い合う形で、分権・分散型のシステムを傍らに置いておく必要があるのかもしれない、私としてはそんなことを感じているわけです。

震災前の「元に姿に戻す」ことにリアリティがない場所

とりとめもなく話を重ねていきます。南相馬市のあたりを歩きはじめた4月の21〜22日頃から繰り返し目にしていたのですが、一面に泥の海が広がっていて「ここはなんなんだろう」と思うような場所がありました。訊いてみるとそこはかつて田んぼだったというのです。田んぼが一面、泥の海になっていた。地名を訊いてみると“やさわうら”という名前でした。八沢浦。とても気になったので地域の資料をいろいろと調べてみました。すると深さがせいぜい2m前後の浦であったところを明治30年代から干拓していたことがわかりました。

明治初頭、日本列島の人口は3000万人でしたが、そこから爆発的に増加していった。昭和初頭には6000万人前後になっていた言われています。つまり人々を食わせなければいけなかった。食糧増産において大事な方法のひとつが水田を広げ、米で国民を食わせることでした。八沢浦は明治30年代に干拓がはじまり、そこから50年ほどかけて水田に変わっていました。震災後、そこが完全に泥の海になっていた。あちこち調べてみると、八沢浦だけではなく、福島や宮城周辺の海岸沿いは、かつて浦や湿地帯だったところを埋め立てて、水田、あるいは住宅街に変えていた場所が多かったんですね。そしてそれがいつの間にか町になった。昔の地図と並べて比べてみるとはっきりと、浦から水田へ、住宅へ、町へというプロセスが見えてきます。それが我々の近代開発史における重要なひとコマだったのかもしれません。

今回の震災ではそんな風にして人間が自然の懐に深く入っていった場所、あるいは開発してきた場所が、見事なまでに厳しい形で津波にさらわれています。先ほど触れた地区は東松島市の野蒜(のびる)という場所ですが、そこには私の教え子の両親が暮らしており、津波で家を完全にやられていました。先日そこにお伺いしてお話を聞いたら、実はその土地に住宅が建って人が住むようになったのは戦後だというのです。「戦前の写真を見ると、ここは海です」とおっしゃる。海を埋め立てて、住宅街にしていたわけです。塩づくりをしていた人たちがそこに住みはじめたと聞きました。渚や浜辺を生活の舞台にしていた人たちが、少しずつ住宅地に変えていったということなのかもしれません。

事例を一つひとつ挙げませんが、そんなふうにして宮城でも岩手でも、いわば人間が海のほうにせり出していったその最先端が、震災では完璧にやられてしまったという現実があります。現在では、津波によってたとえば泥の海になったそうした地区を今後どのように復興していくかという議論が行われています。そこで真っ先に、そして当然のように提案されるのが元々あった水田に復旧させようというシナリオです。

しかし私自身は、実際に提案したこともあったのですが、自然エネルギーに関わる場所に出来ないかと思っております。たとえば太陽光パネルを敷き詰めるとか、風力発電の基地にするとか、そういうシナリオがあると思います。今、南相馬市では利用方法でせめぎ合いになっていると思います。そこで何より考えていただきたいのは、果たして今、津波で泥をかぶり放射性物質が降り注いだ土地を塩抜きして除染を行い、もう一度莫大な資金と労力を費やして元の水田に復旧させることが本当に正しいのか、という点です。

私はとても疑問に思う瞬間があります。八沢浦でも聞き書きをはじめているのですが、当地を耕している人々の平均年齢は70を超えている。ですから「もう耕すことが出来ないね」ということで、集約化に向けた話が以前からはじまっていました。そもそもそれほどいいお米がつくれないんです。条件が悪いですから。それでもこれまでは、なんとかつくってきた。しかし高齢化が進み跡を継ぐ人もいないので、そろそろ集約化について考えなくてはいけないというところに、津波がやってきた。結局、今我々が復旧・復興と称して莫大な資金を注ぎ込み元の水田に復旧させたところで、耕す人たちの平均年齢はその頃には恐らく80近くとなっています。もう米をつくる力もなくなっている可能性が非常に高いんですね。

そうした現実を無視して、巨大な公共事業プロジェクトとして水田に戻すという形の復旧を進めることに、私はある時点から違和感を覚えはじめました。メディアは「海の傍らで暮らす老人たち」の姿を、ある種のノスタルジーを持って繰り返し報道していますが。高台居住の問題にも繋がると思いますが、元の姿に戻すことがリアリティを失っている現実をきちんと見据えておかないと、誰も耕さない田んぼを、誰も住まない町をつくることになります。そういうことが本当に起こりかねません。「それでも公共事業としてお金が使われていいじゃないか」という発想は、もうこれから右肩下がりとなっていく我々の経済を考えたらとても選ぶべき戦略ではないなと感じています。

そんなことを考えていくうち、私は「潟に戻してやればいいんじゃないか?」という、第3のシナリオを漠然と思い描くようになりました。たとえば今後20〜30年、風力発電の基地として利用する傍ら、水田ではなく潟に戻してやるような、そんな流れをつくることはできないだろうかと。こうしたことは日本全体で考えれば、人口8000万人となる将来の日本列島に向かって起こっているある種の地殻変動だと私は感じています。

たとえば現在、山であればその傍らに暮らす人たちが繰り返しこういう話をするようになってきました。「山が攻めてくるんです」と。これまで我々は自然を山の側にずっと押し広げていた。人間のテリトリーを人口1億3000万人になるまで最大限に広げていたのだと私は考えています。ところが少子高齢化が進むとともに、里山で過疎化が進んでいくと、そこで手入れができなくなってどんどん荒れてきた。今はその里山に、かつては山奥にいた野生の獣たちが集まっていて、逆に奥山へ入ると「不思議なぐらいに獣の影がない」という話を聞きます。つまり今、我々が山という自然の懐に深く入り込んでいた時代が壁にぶつかって、今度は自然が押し戻しはじめている。都会に紛れ込んだ猿や猪がニュースになりはじめたりもしています。これから10〜20年後には間違いなく、自然がもっと我々の傍らに来ている。街なかに熊や猪が現れる姿は、きっと珍しくなくなっていくと思います。

人間が1億3000万の力を最大にして押し留めていたものがどんどん押し返してきて、人間のテリトリーに入り込んでいる。同じことは恐らく海でも起こるだろうと思います。我々が今目の前にしている人間と海との境界も自明のものではありません。時代ごとにどんどん動いてきました。ですからそこで無理をせず潟に戻してやろうと。潟に戻してやることで自然の生態系はどんどん復元します。かつて日本列島の海岸部には潟がたくさんあり、そこは生物多様性の宝庫でした。八沢浦でも鰻を捕ったり海苔を養殖したりするような仕事で生活していた人たちがたくさんいました。もしかしたらそうした潟に戻ろうとする世界をそのままに受け入れたほうが、新しいシナリオがつくりやすくなるかもしれない。少なくとも津波に洗われたその場所に再び町をつくり、巨大な津波に備え堤防をつくるといったやり方に特化していくのは、とるべきシナリオではないのではないかと感じています。

福島原発付近で、農業・漁業ができなくなり、野生動物が増大する

もう少しだけお話を続けましょう。原発問題について。別のセッションできっと厳しい議論が行われていると思いますが、私はここで少し違う角度から考えてみたいと思います。たとえば飯舘村あたりを車で走らせていたとき、道端で猿の群れに出会ったことがありました。木の実を漁っていたのですが、人間を恐れることもなかった。放射性物質が降り注いだその森で暮らすそんな野生の獣たちが今後どうなっていくのか、私は大きな関心を持っています。

実はチェルノブイリの事故で汚染された地域は、人間が去ったことで野生の天国になっているんですね。私は日本でも恐らく同じことが起こるだろうと思います。しかしチェルノブイリのケースと異なり、日本では野生の王国と化していくそのエリアと隣り合わせして、農業をはじめさまざまな形で暮らす人たちが生きていかなければならないという現実があります。そのような状況では、否応なしに人と自然との関係が変わっていかざるを得ない。人間は恐らくこれから10〜20年、そこで山菜や木の実、あるいは茸といったものを採らなくなります。「汚染されている」、「食べてはいけない」と言われていますし。ところが獣たちはそんなことを知りませんから食べます。

今、野鳥が減りはじめているというデータも一部で出ているようですね。しかし、恐らく熊、猪、猿、あるいは鹿といった大型の獣たちは人間が入らないが故に食糧が大変豊富になり、大いに繁殖していくだろうと思います。熊や猪に「ここから先は20km圏外だから出ちゃいけない」と言っても、繁殖して増えていけばどんどんエリアの外に出てきます。そんな状態で農業はこれからどのようになるのか。

たとえば昨年11〜12月、狩猟解禁の季節になったというニュースを見ましたが、今はもう誰も山に入らなくなってしまっている。狩猟する人たちも「仕留めたって食えるわけじゃないから」と言っていました。それで行政が仕方なく1頭につき1万円以上の報奨金を出すといったことをやっていたのですが、この問題、実はかなり深刻だと私は思っています。

どうして野生動物たちの個体数がそれぞれ、ある一定の数でバランスしているか。それは狩猟者たちが一定数捕獲しているからです。その狩猟者たちの…、これを「狩猟圧」と言うのですが、圧力が“あるライン”から入ってこようとする野生動物を押しとどめる力となっているんですね。ところがこれからは間違いなく狩猟者たちが山に入らなくなります。今後20〜30年、南東北から北東北にかけて狩猟がなくなる状況となるかもしれません。誰だって食べもしない獣を殺したくはありませんから。かなりしっかりした報奨金なり手当を支給するような対策をとらないかぎり、おそらくは狩猟そのものがなくなっていきます。

そうなると野生動物たちが爆発的に増えていく。溢れ出していきます。農業、できなくなると思いますね。たとえばすでに中国地方のある地域では、村で耕している田畑のエリアをすべて電気の柵で囲い、人間たちがその柵の内側で農業をしているといった状況も生まれています。恐らく、今度もそういったやり方が必要になるだろうと思います。そうでもしなければ農業を続けることができない。また、そもそも風評被害その他でブランド力がここまで低下して、農業を継続できるのか。一次産業の農業や漁業、あるいは林業が壊滅的な状況に追い込まれています。

そういうような状況で、単に除染をするだけで再び村を立て直せるとは、私にはとても思えません。恐らくかなり広大なエリアで、農業や漁業といった一次産業に依存する暮らしが不可能になる場所が生まれてしまう。その傍らには野生の王国が生まれます。我々はそんなふうに将来のシナリオに描いたことが一度もありませんでした。しかしそれもまた、人口8000万になる日本列島と考えれば、極めて生々しくリアルな将来にならざるを得ないと思います。

いずれにせよ人口8000万人の日本列島というものが被災地を中心にして、今まさに出現しつつある。そのことを我々はどのように受け止めたらよいのでしょうか。仙台などでは現在、さまざまな資金が投入されて復興バブルのような状況が生まれています。仙台の国分町あたりは大賑わいです。つい最近までは飲みに行くとぼったくられるような状況だったのですが、ともかくもそれを生き延びた人々が今、復興バブルに湧いています。けれどもそうした古めかしい公共事業型の復興が数年で去ったあと、東北には一体何が残っているのか。一次産業が厳しい状況は20〜30年確実に続くわけですが、そこでどのように人々が暮らしを立て直していくことができるのか。

福島は原発に依存しない生活スタイルに転換せざるを得ないと、私はこれまで語り続けてきました。そういった状況において、再生可能エネルギーや自然エネルギーは数少ない東北の新しい産業であり、雇用の場として期待されています。これを上手に育てていくことが、これからの日本が進むシナリオのなかでも大事なテーマになるだろうと思っています。少なくとも50年後、人口8000万人の日本列島において原発というものが存在するのか。私は存在しないと思います。すでに原発産業は斜陽産業になっている。今後、福島の人たちがそんな原発にまだ依存し、目の前にある暮らしの厳しさを和らげてくれるモルヒネのように原発の再稼働を求めるといった状況だけは避けたいと思っています。そう考えていくと、改めて自然エネルギーや再生エネルギーを東北の新たな産業としてきちんと根付かせていくことが必要になるだろうと思います。

それは、ひいては日本社会がこれからエネルギー問題についてどのようなシナリオを描くことができるのかという問いでもあります。私としては、原発、あるいは石油などの化石燃料輸入に頼るスタイルではないと考えています。やはり日本が持っている技術力を最大限に生かして、太陽光、風、地熱、波…そういった自然そのものからエネルギーをつくり出していく。そこに進んでいかなければ恐らく日本社会はさらに、経済的にも厳しくならざるを得ないのではないでしょうか。まだ辛うじて余裕が残っている今のうちに、そうした新しいシナリオを現実としていくために動き出さなくてはいけないだろうと、今はそんなことを考えています。

つい先日発表された50年後に人口が8700万〜8800万になるという統計の報道自体は、恐らく何らかの誘導もあると私は思います。ただ、報道とは別に我々の社会は現在、足元からそういった時代に向かって地殻変動を起こし、動きはじめているのではないかと思うのです。8000万人の人口がどんな意味を持つのか。戦後のある時期、昭和30年前後がそのぐらいだったのでしょうか。いずれにせよそういった将来を我々はどのように引き受け、今ここに生きていくことができるのか。私は被災地を歩きながらそんなことを考えはじめていました。それでは一旦、この辺で締めさせていただきます。ありがとうございました(会場拍手)。

電力のコストと雇用についてのお考えは(会場)

司会:ありがとうございました。残りは質疑応答の時間にしていきたいと思います。ご質問のある方、いかがでしょうか。

会場:赤坂先生、本日はありがとうございました。ご自身で仰るように語り口調も大変牧歌的というか、柔らかく伺うことが出来ました。質問は経済人としてのトピックになります。電力の安定供給という意味ではふたつのポイントがあると思っておりますが、先生がどのようにお考えになっているかをぜひお伺いしたいと考えておりました。

まず、これは私の理解が違っているのかもしれませんが、電力のコストについて。現状で私が理解をしている範疇では、発電のそれぞれの方法を低コスト順に並べていくと、原子力、水力、そして火力となり、その下に太陽光や風力が続くと。つまり自然エネルギーは大変コストが高いということが一般的には言われているという理解をしています。そこで質問なのですが、本日のお話は復興財源を投じて設備投資を行い、それによってたとえば新しく風力発電の設備を東北につくるといった理解でよろしいでしょうか。私としてはいかに廉価な電力を手に入れることができるかという問題さえクリアできれば、東北を自然エネルギーの拠点として復興させていく話も見えてくると思っておりますので、まずはその辺をお伺いしたいと思っております。

赤坂:私としては、我々が2011年にこの震災と遭遇したことも恐らく大変重要なポイントだったんだろうと思っています。10年前であれば恐らく再生可能エネルギー云々という新しいシナリオを求めることは出来なかった。ただ、幸いなことに再生可能エネルギー関連の技術は現在までにさまざまな形で一定の水準まで進歩してきました。私が技術的にも可能性があると思っている背景として、日本は風力の環境も日照環境も良く、地熱もあればバイオマスもあり、そして潮力なども利用出来るという点です。その環境で再生可能エネルギーの技術が一定水準まで到達したとき、ある意味では日本が資源大国にもなり得るのではないかと。そんなふうに私は想像しています。本会場には藤野さんという専門家がいらっしゃいますのでのちほど付け加えていただいてもよいのですが。

勉強会のなかでいろいろなことを教えていただき、たしかに今、私は小学生か中学生ぐらいの実力しかないと思っています。けれども私はやはり自然エネルギーの可能性を育てていくしかないと考えています。10年、15年かかるかもしれません。しかしその間、石油をはじめとした化石燃料の助けを借りながらでも、とにかく急ピッチに政策の転換ができれば私は可能だと思っています。これまでエネルギーに関する国の研究費はほとんど原子力関連に投入されていました。一方で自然エネルギー関連の研究費は数%にしか過ぎなかったんですよね。しかしそこで、たとえば若い人たちがきちんと、冒険的にでもその研究分野に参入出来るような状況が生まれたらと思っているわけです。もう今後は原子力分野の研究に進みたいという若い研究者もほとんどいなくなると思います。自然エネルギーを研究する若い世代をきちんと育てていくためにも、そういった研究費のシフトなどが起これば劇的に変わっていく可能性があるのではないかと私は思っています。

私自身は当初、「福島県を自然エネルギーの特区に」と言っていました。現在、福島は原発事故によって激しく傷ついていますから、それも考えると特区という発想も部分的には正しいと思っていました。しかしもう少し大きな目で見てみると、東北全域を再生可能エネルギー特区として育てていくほうがリアリティがあるなと、今は思いはじめています。たとえば太平洋側で風が良い季節と日本海側で風が良い季節は異なります。そういった環境を東北全域で複合的に組み合わせながら供給体制をつくっていく。それが出来れば安定的な電力供給という課題がクリアできるかもしれない。蓄電や蓄熱関連の技術も現在では急ピッチで開発が進められていますし。ですから東北全域を特区として、たとえば「風力はここ、太陽光はここ」ですとか、あるいは地熱は…、たとえば国立公園では温泉との兼ね合いなども考えながら、とにかく複合的に考えていく。実際、いわきのほうでは海上風力発電の実験がはじまっていたり、秋田では『風の王国』という海岸線沿いなどにおける風力発電プロジェクトもスタートしています。そんなふうにして全体を見渡してコントロール出来るようになれば、かなり安定的に電力を供給出来る可能性が出てきていると思います。ただ、そういう大きなシナリオを描く人がどこにもいないというところが、ある意味では致命的なのかもしれないとは感じています。

会場(続き):ありがとうございます。電力についてできればもう一点、産業構造の裾野についてはいかがお考えでしょうか。東北全体がエネルギー産業の最も大きな拠点となっていくことによってどれだけの人間を支えていくことができるのか。これは経済人が考えなくてはいけないのですが、たとえば農業であれば何十万人という方が東北にはいます。しかしエネルギー産業はむしろほとんど管理業務だけになってしまうぶん、ものすごく裾野が小さくなります。そういった点について「こういった考え方があるのではないか」というものがあればお伺いしたいと思っております。東北にいらっしゃるどれだけの人々を支えられるかも大きなポイントだと思っておりますので。

赤坂:これは会場の藤野さんにものちほど詳しくお聞きしたいのですが、それもいろいろ調べていくと管理業務だけではないんですね。たとえば風車1台をつくるのに1〜2万点の部品が必要といいます。その生産拠点もたとえば東北のどこかに工場としてつくれば、下請けではない形の地場産業を育てていくことができる。そんな風にして再生エネルギーに関わる製造業の拠点としても育てていくことができる可能性はあるのではないかと思っています。原発の場合は基本的に地場産業になり得ません。すべて大企業とゼネコンがつくるものですから。調べてみてすぐにわかりましたが、原発と地場産業は両立しないんですね。しかし自動車産業は地域に小さな拠点をつくっていくことができていた。ですから再生可能エネルギー産業にも同様の可能性があるのではないかと思います。そのあたりについて、藤野さんはいかがでしょうか。

藤野純一(独立行政法人国立環境研究所 地球環境研究センター 温暖化対策評価研究室主任研究員):新しいエネルギーの選択肢に関する考え方で言えば、私自身は雇われ研究員として国立環境研究所というところにおりますので、ただいまそういった計算をしている段階ではあります。ただ、たとえば国家の新成長戦略では「30万〜40万人の雇用を再生可能エネルギーで創出する」といったことも謳われています。そのなかにはもちろん工場をつくるというのもありますし、工場と研究施設を組み合わせることでイノベーションが生まれやすい構図をつくっていくといったものもあります。町のなかでメンテナンスをする人々が出てきたりすることも考えられます。

もちろんその一方では矛盾といいますか、エネルギーがあまりに安いと逆に雇用が生まれないこともあります。ですから自然エネルギーのような半永続的に使えるエネルギーの価値をどのように見ていくかは重要な課題です。ただ、いずれにせよ今までは化石燃料をどこかから掘ってきて回していました。しかし、化石燃料、つまりオイルピークをはじめとした有限性の問題が指摘されているものに我々はいつまでも頼り、ビジョンを描いていくのか。あるいは頼らないビジョンを描くことで、アジアに向けても「次に向かうところはこちらですよ」と示すことができるかどうか。そのあたり、先ほどのセッションで成長というキーワードもありましたが、重要なのはその成長の先ですね。安藤忠雄さんが示された「30〜50年後の日本」の手前、そこでまだ皆さん、どうも揺れているというか、いまだビジョンを描くことができていないところがひとつの問題ではないかと思います。

やれば必ず何か生み出されます。もちろん最初はお金もかかったりするでしょう。ただ現在は一応、風力に関しては世界的にみてもかなり競争力がある状態です。そういうこともあってヨーロッパや中国は積極的に投資をしている。もしかしたら一部の、少し昔のデータがビジネスリーダーの方々の頭のなかに残っていて「再生可能エネルギーが高い」といった話が伝わり過ぎているところがあるのかもしれません。しかし逆にそこはチャンスなのかなと私は思っています。

マイクを振っていただいたので併せて赤坂先生にお伺いしたいと思いますが、20〜30年後の姿というものについてもう若干質問をさせてください。「東北は今もカッコ付きの植民地だったのか」というお話がありました。その場合、どうやって東北の方々に主体性を持って自分たちのビジョンを描いていただくべきか。どうすれば自分たちで地域を新しくつくり直していただけるのかという部分について、現場を歩いていらっしゃる赤坂先生にご見解をいただければと思っております。

福島で地域密着型、草の根のシンクタンクを

赤坂:これまでは要するに自分の頭で考える必要がなかったんだと思います。市町村レベルでも県と国が何かやってくれるのを待っている。ずっとそれで来たじゃないですか。それが今、限界にぶつかっているのではないかと感じています。今後は自分の頭を使って必死で考え、生き延びようとする人々が市町村単位でどれだけ育ってくるか。それ次第で将来の姿が地域ごとに大きく変わっていく時代に入ってしまったと思います。ある意味では弱肉強食なのかもしれません。福島を歩いて感じたのですが、県については背中しか見えないんですよ。一般県民のほうを見ていない。国のほうばかり見ています。国の役人と交渉して、どれだけお金をたくさん持ってくることができるかばかりを考えている。実際、たくさんお金を引っ張ってきているんですよ。でもそのお金を使って何をやるのかというビジョンがどこにもないからちっとも動き出さない。

ただし、現在は「それならば」と、地域の人々のあいだで「自分たちの頭で地域をどうしていくか考えて動き出すしかないね」といった雰囲気が、少なくとも草の根では確実に生まれているように思います。ですから私は福島で地域密着型というか、草の根の力に支えられたシンクタンクのような組織をつくることが出来ないかと考えています。NPOでも財団でも良いのですが、逆にそういうものをつくっていかないと何もはじまらないような気がしますね。

正直、私は除染だってほとんどうまくいかないだろうと思っています。たとえば現場の町内会に50万円といった単位で除染費用が配られたのち、実際はどうなっているのか。多くの町内会では川浚いか道普請のような感覚でおじいちゃんおばあちゃんが引っ張りだされて何かをやっているという程度の状態です。それで「除染しています」と言われても成功しないのではないかと思います。ですからそういうことに疑問を持って、もう少し自分の考え、自分たちの地域をどのようにしていったら良いのかという議論をしていくしかない。その動きを応援するシンクタンクのような組織を東京にもいるさまざまな人々と繋がりながら興していく時期なのかなと感じています。

会場:私は縁あって仙台の大学で仕事をしており、しばらく暮らしているなかで東北のあちこちを自由に回っておりました。そのご縁を切りたくなかったので、今も東北大学で客員をしております。そうしたなかで今回の震災が起きて、復興を支援するさまざまなプロジェクトを見ていくなかで個別に思うところがあります。私が親しく付き合っている友人たちもボランティアやNPOで支援をしているのですが、今日は彼らの多くが悩んでいることと同じお話をお伺いできたと感じました。ですから先生がおっしゃった部分と私の質問は重複するかもしれません。

どういうことかと申しあげますと、たとえば地域を元の状態、つまり本当の意味でサステナブルな状態に戻すことを目指し、高台移転なども含めたさまざまな提案を友人たちもいろいろとしております。で、しばらくは「そういうことだね」という具合で話が進むそうです。しかしやがて…、これは私なりの理解でものすごく単純に言ってしまいますと「それじゃあ金が落ちないじゃないか」となってしまう。「公共事業で自分たちがやりたいんだ」という方々が現れてきて、結局、いつの間にかプランがそちらの方向でまとまってしまうそうです。逆に言えば現在、行政の仕組みとしてはまさにそれぞれの自治体で考える仕組みに一応はなっていて、そこに誰かが強制的に何かを言うことはできません。そして自分たちで意思決定したものは「では、そのプランでいきましょう」となる。こうなると、結局は元に戻ってしまうそうです。

それについて外からあまり言っていると、最後は「お前たちは他所者だろうに」となってしまうんですね。ですから先生が仰った「自分たちで考えるモメンタムが出てきている」という状態に大変な期待や希望を感じつつ、他方で先生としては現状をどう見ておられるかをお伺いしたいと思いました。見ておられるからこそ、先ほどのようなお話になったのかなと思うのですが、そのあたりの程度を併せ、確認の意味も込めて教えていただければと考えておりました。

赤坂:津波の激しい被災に遭ったある地区のお話をさせてください。そこでは住民同士の対立が大変厳しく、もうぐちゃぐちゃになって町長は常に吊るし上げとなり、議会は紛糾して何もできなくなっていました。しかし1年近く経ってみると、そのなかでも育ってくる人たちがいるんです。皆さまのように入ってきた方々にいろいろと知恵をもらったりしつつ、一方では「そんなことできない」なんて言ったりしつつ、です。ですから実際のところ、行きつ戻りつだと思います。ふと気が付いてみると、ある段階になって支援する方々の知恵や力に大学の学生さんたちなどが「ああ、やはり」となる。一人ひとりでは頼りないわけです。しかしそういう支援が結局自分たちを支えてくれていると気がついて、それを上手に使う。そしてささやかでも自分たち自身で先に進めるようなシナリオをつくっていくことができるかもしれない、と考えるようになる段階があるわけです。

今はちょうどそういったことが気づかれはじめている時期なのかもしれません。被災地の状況は本当に刻一刻と変わっていきます。もう無茶苦茶な対立のなかでぐちゃぐちゃになっているかと思うと、「もうこんなことをやっていたら俺たちは溺れるよ」と気づいた人たちが、すうっと醒めていく。「あの人は結構いいことを言ってるじゃないか」と冷静になったりする瞬間があるんです。だから私としては、「ああ、捨てたもんじゃないな」と。ですから諦めないこと。たしかにボランティアの人たちに対する批判で無茶苦茶なものはありますよ。よく聞いていると、「どうしてそんなわがままを言うのだろう」というものもあります。もっともなこともありますが。

でも、人間がぶつかり合うって恐らくそういうことですから、そもそもそんなに上手く理想的に事が運ぶはずはないんですよね。それでも、そんな衝突のなかでひとつでもふたつでも小さな成功例が見えてくるとそれに励まされる。そして「それならこんなこともやってみようか」となります。とにかく今残っている人たちは、「ここで暮らしていこう」という覚悟をなんとか固めている人たちだと思うので、そういった動きはだんだん大きくなっていくと感じています。

高台移転の議論をはじめ、福島でも新しいコミュニティをどんなふうに、そして汚染を避けてどこにつくるのかというのが新しいテーマとして今は生まれつつあります。そこで国が出来ることは造成してインフラを整えて復興住宅をつくることだけ。それが限界なんですよ。それはほとんど単なるスタートであって、肝心なのはそこからどういった産業や雇用をつくっていくことができるのか。そこはもう民間の力なんですね。民間の力とどのように繋がっていくのか。ときには大企業の力も借りなくてはいけませんし、ときには小さなものづくりの会社と繋がっていくのかもしれない。この先はもう知恵合戦と言いますか、とにかくその過程で覚悟を決めてどこまで踏ん張れるか。踏ん張った地域が新しい姿を見せてくれたらそれが他の地域に向けた励ましにもなります。今はそんな状況なのかなと思っています。

司会:ありがとうございました。それでは時間となりましたので、これにて本セッションを終了とさせていただきます。改めまして赤坂先生に拍手をいただければと思います。本日は誠にありがとうございました(会場拍手)。

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