人生の先達から学ぶキャリアデザイン 

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大企業に務めていようが、転職を繰り返そうが、誰にでも必ず訪れるキャリアの変節点。時には人生の岐路ともなる節目を、どのように迎え、認知し、乗り越えていくのか。

海外160カ国に展開する医療機器大手のテルモの海外部門でキャリアを積み重ねてきた荒瀬氏はドン底を味わったことが大きな節目になったと振り返る。「仮に失敗しても命までは取られることはない」「自分の人生はひとつの成功や失敗で終わるわけではない」と開き直ることが出来たといい、「もがきながらも与えられた環境のなかで最善を尽くすという気持ちを忘れず、努力を継続することが大切」と話す。

また三菱重工業の社内病院事務責任者として経営改革を断行した竹中氏は、採用担当、火力発電プラントの営業、燃料電池新事業のマーケティング・マネジャー、原子力の技術部門、そして病院の経営と「あっちにいったりこっちにいったりという会社人生」を歩んできた。「長い会社員生活には必ずONとOFFがある。OFFのとききは悶々とするかもしれませんが、自分を信じて次のONに備え、さまざまな知識やスキルをストックしておく。OFFの状態にある“今”をプラスにするため、常に自己研鑽しながら進んでいくというのがひとつの解」と説く。

一方で、若くして在宅医療の事業を立ち上げた舩木氏は、考え過ぎるよりも、まず行動に移すことを促す。「社会が求めているものが次第に自分自身の形になっていく局面があるんですね。逆に事業をはじめる前にいくら志を語っていても、抽象論に終始してしまう面がある」。「まずはやってみないとだめだという気持ち」を大切にしているといい、「失敗をどれだけ積み重ねられるか。それが成功へのたしかな道のり」と訴える。

変革や創造に挑んだ3人の志士たち

安永:本セッションでファシリテーターを務めさせていただきます安永です。私自身はグロービス経営大学院で人材マネジメントや経営道場といった科目を担当しておりますが、その一方で島本パートナーズというエグゼクティブ・サーチ、ヘッドハンティングの会社も経営しております。また、浄土真宗本願寺派のお坊さんもやっておりまして、授業のなかでは必ず法話も行っております。それではパネリストの皆さんにも、同様に自己紹介をお願いしていきましょう。まずは荒瀬さん、よろしくお願いいたします。

荒瀬:おはようございます。私は1977年にテルモへ入社しまして、33年間テルモで仕事をしています。ですから転職の経験はありません。また、キャリア・デベロップメントは、ほとんど海外でした。国内のことを若干やった時期もあるのですが、ほとんどは海外です。駐在は2回。1回はアジア時代で香港に3年、直近の10年はヨーロッパに駐在していました。ヨーロッパではベルギーのブリュッセルに3年、フランスのパリに7年住んでいました。

会社の話も少々させていただきますと、ヨーロッパにおけるテルモの売上は10年前が1億8000万ユーロ、今のレートではおよそ200億円ぐらいでした。私が2006年にテルモ・ヨーロッパの社長になりまして、売上は、おかげさまで2桁成長を続けています。営業利益率もそれまでは2〜3%、ときにはマイナスだったのですが、現在は10%を超えています。また、足元の売上や収益とともに、2015年には7億4000万ユーロ、これは当時のレートで1000億円ですが、これを狙うための下地も構築しました。

ヨーロッパで中心となっている事業はカテーテルです。血管のなかに入れて診断や治療を行うプラスチックのチューブです。私はこの事業を担当しておりまして、1999年に4100万ユーロだった売上を2005年には1億ユーロ突破、2009年には2億ユーロを超える業績をあげることが出来ました。その間、特に注力たのは新しい領域での商品開発と市場導入です。運も味方してくれ、皆のお陰で実現できました。そして昨年帰国し、現在は本社で心臓血管カンパニーの統轄として、グローバル事業の責任者をしております。

安永:ありがとうございました。それでは三菱重工の竹中さん。

竹中:私も荒瀬さんと同様、三菱重工一筋で28年間務めています。ただ、営業プロパー一本道でキャリアアップしてきたわけではありません。「なぜこんな経歴なの?」というぐらい複雑な道のりを歩んできました。まず、初任地の神戸造船所では人事課へ配属となり、採用関係を3年間担当していました。その後、大卒事務系社員が4年目に全員異動するという私どもの会社ルールに則って、次は国内電力会社向け火力発電プラントの営業に異動しました。最初の勤務地は神戸造船所でしたが、その後、名古屋支社で中部電力さんの窓口となって5年間ほど勤務し、再度、神戸造船所に戻り、継ごう15年間営業を担当しました。

本来であればそのままポジションを上げてキャリアを終えるという、一般的なサラリーマン人生になっていたかと思うのですが、私の場合、実は神戸造船所が火力事業から撤退するという出来事がありました。それで「えらいことや」と、部内で燃料電池の新事業を立ち上げ、そこでマーケティングマネージャーとして勤務することになりました。でも、その燃料電池も開発の目途がなかなか立たないということで、また異動になり、原子力の技術部門への配属となりました。事務屋ですから少し違和感があったものの、そこで技術管理などを行うことになりました。ちなみに私どもの会社では、たとえば技術部門にいるのなら技師ということになります。私の場合は原子力機器設計部という部署に異動しましたから、そこでは主席技師、社内的にはエンジニアという肩書で4年間勤務していました。

そうこうするうち、もう一度転機がやってきました。病院への異動です。三菱重工には病院部門があるんですね。たとえば総務部と同じように病院部がありまして、院長がいわゆる部長職です。当時の病院は診療報酬制度のマイナス改定等の影響もあって、体制を見直そうということになり、私は事務総長という対外的な肩書きをいただいて2年半ほど病院で働くことになりました。今回お話しする内容もその経験が中心になっていくのかなと思います。その後、昨年の秋には内部統制推進室という部署へ異動となり、現在に至っています。ここは内部監査やリスクアセスメントといった仕事をとりまとめる部署です。こんな風に、私の場合は本当にあっちに行ったりこっちに行ったりという会社人生を歩んできました。

安永:ありがとうございました。それでは舩木さん。

舩木:こんにちは、舩木です。私は現在32歳で、グロービスは今春卒業したばかりです。現在の事業は2005年に始めたものですが、グロービスには2004年から通っておりましたから、まさに学びながら事業を始めるというスタイルでした。私がやっている事業は高齢者医療になります。医師としてはとても若いときに起業したのですが、当時は99%の方に「止めろ」とか「絶対にうまくいかない」と言われ続けていました。しかしやってみた結果、なんとかうまくいっているという状況です。

私が強く感じるのは、専門職になればなるほど顧客のことを忘れてしまうということ。知識や専門スキルが深まるほど、逆に顧客志向でなくなってしまうというのは、やはり真実なのかなと思っています。ですから知識や経験と顧客志向を両立させていくため、ニュートラルな視線でビジネスを俯瞰的に見る訓練が出来たという意味で、私としてはグロービスでの学びを生かせたのかなと思っています。のちほど、その辺についても少しお話をさせてください。

3人が経てきたキャリア・トランジションを追体験する

安永:ありがとうございました。現在壇上に並んでいる4人をご覧になるとお分かりになると思いますが、舩木さんがダントツに若いですね。私と荒瀬さんと竹中さんは、昭和50年代入社。私自身も荒瀬さんや竹中さんと同じように大企業に22年ほど務めていた人間です。その間、自慢ではありませんが、自分の希望通りに異動や転勤出来たことは一度もありません。私は入社してからしばらくのあいだ、ずっと海外で働きたいと言っていたんですね。それで留学生試験も4回ほど受けましたが、すべて最終段階で落とされていたんです。

その後、結婚して子供が生まれてからは、「もう海外は結構です。ずっと国内でやらせてください」と言っていたのですが、そうしたら海外に勤務しろと(笑)。結局、ロンドンで4年間、英語の研修も受けないまま、当地で地場企業の担当営業マンになりました。それで4年が経過しまして、「そろそろお役御免で帰りたいな」と思っていたところ、今度は中堅の管理職を留学させる制度が出来たということで、「まずお前行ってこい」と。それで2年半ほどケンブリッジに行きました。しかしその留学は3年間の予定だったのですが、その間に日本ではバブルがはじけて状況が大きく変わってしまった。それで次長人材が足りなくなり、「学位はいいから早く帰って来い」と言われて帰国しました。それからは、日本でずっと企画を担当していくことになりました。

そんないきさつがあった末、私自身が転職を決意したのは46歳のときです。かなり遅いですよね。現在はエグゼクティブ・サーチ、ヘッドハンティングの会社を立ちあげて10年が経過しています。このあいだも紆余曲折はありましたが、私自身も色々なキャリアを歩んできていると思っています。同時にヘッドハンターとして、様々な方のキャリアも見てきました。私がその人のキャリアを変えてしまったというケースも多々あります。そういった経験も踏まえまして、今日は色々な局面のなか、キャリアについてどのように積み重ねていくかということを皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

まずは神戸大学の金井壽宏先生が提示している「キャリア・トランジション・モデル」という仮説とともにお話を進めていきましょう。このモデルには4つの考え方があって、そのひとつ目が、「キャリアの方向感覚を持つ」という考え方です。自分のキャリアをどんな風に捉えていくのかという意味ですね。当然、「社会の役に立ちたい」「早く立身出世したい」「家族を幸せにしたい」「自分自身が成長したい」など、色々な方向が提起出来ます。まずはその方向感覚を持つことが大切という考え方です。

二つ目は、「節目ではキャリアをデザインする」という考え方。キャリアというものはなか思うように進まないところもありますが、節目というものは必ずやってきます。大学受験、大学卒業後の就職、結婚、あるいは大きな転勤…、そういった節目において、どのようにキャリアをデザインしていくかという考え方ですね。私のように50代になれば退職も迫ってきますから、退職後にどうしようといったデザインだって大切になるわけです。

それから三つ目は、「アクションを起こす」ということ。「これをやったら上司に嫌われるかもしれない」とか「会社の方向と違うかもしれない」といったことをくよくよ考えず、何らかの行動を起こしましょうということです。

そして四つ目は「ドリフト」。これはかなり深い意味のある考え方で、“漂流”とも言えます。キャリアというものはどちらへ転がっていくか分からないものでもあるということですね。私のように「海外はもう結構です」と言って海外に行ってしまうといった例もあります。逆に、望んだ場所へ異動させて貰えないというドリフトもあるでしょう。荒瀬さんも竹中さんも、そういったことを何度も経験しているかと思います。しかし、「そのような自分の意に沿わない流れのなかでも、楽しんで渡っていきましょう」と。金井先生のモデルでは、そういったことを言っているのかなと思います。

以下、このモデルに沿ってというわけではないのですが、お三方にはご自身の体験のなかで、どんな風にして成長の舞台を変えていったのかという点から伺ってみたいと思います。まずは、自身のキャリアと「way of life」といったものの関わりから聞いてみましょう。キャリアの方向感覚ですとか、志ですとか、そういったものについて、まずは荒瀬さんからお願い出来ますでしょうか。

「インターナショナルなビジネスマンになりたかった」(荒瀬)

荒瀬:私のキャリアに関する方向感覚では、やはり「海外」がキーワードになります。テルモに入ったのは海外で仕事をするチャンスが多い会社だったからということもあるんですね。1977年当時、すでにアメリカにもヨーロッパにも工場を持ち、アジアを含めて販売拠点を持っている医療機器の会社はテルモだけでしたから。入社した当時は、志というより、「インターナショナルなビジネスマンになりたいな」という漠然とした感覚でしかありませんでした。

最初はアジアで10年。香港にいたときは香港支店という販売支店の立ちあげで赴き、支店長として勤務しました。その後日本に帰ってきてからは、日本にいながらアメリカへ出張して仕事をやり、その後に欧州駐在となりました。ですからアジア、アメリカ、ヨーロッパと、グローバルに働くチャンスを貰えたと思っています。私のキャリアはテルモのなかでも非常に稀だったと思いますね。なぜかは分かりませんが、そのようなキャリアを形成出来ました。

ただ、具体的な仕事の中身は必ずしも自分が望んでいたものではなかったんです。たとえば70年代や80年代前半のアジアは、今のアジアとまったく違っていました。最初の担当はタイでしたが、当時のタイは高速道路の両側に柵がなかったり、その高速道路の真ん中を牛が歩いていたりして、大変のどかで、今のアジアと異なる景色があったんです。また、希望したわけではありませんが、一時期、国内で営業や商品開発、あるいは工場勤務をしていた時期もあります。それでも与えられた環境で一生懸命やっていたら、結局は「海外で出来る人材が足りない」ということで、改めて海外へ戻ったという経緯があります。ですから、必ずしも自分のキャリアにおける方向感を会社が分かってくれていたかというと、私はそう思っていません。今考えると運命的な部分も感じますね。

安永:ありがとうございます。竹中さんはいかがでしょうか。

「何か大きな仕事がしたかった」(竹中)

竹中:志という意味でお話したいと思いますが、私たちが入社した時代は、会社に入ったらそのまま一生過ごすという時代でした。そのなかで、「自分はどんなことやりたいんだ」というキャリアを具体的にデザインして入社した人は少なかったと思います。私も三菱重工を選んだ理由は非常に単純で、「何か大きな仕事がしたいな」という気持ちだけでした。ただ、何か大きな仕事をやるのなら、どの業種でも良いからリーディングカンパニーに入りたい。そのような考えから三菱重工を選びました。入社当初、人事にいた最初の3年間も、あまり具体的な志はありませんでした。

本格的に志を持つようになったのは、火力発電プラント関係の営業をやりだした頃です。私はボイラーを担当していたのですが、当時は国内だと日立グループなどが競合で、「競合には絶対に負けたくない」という気持ちが芽生えていきました。

でも神戸造船所からの火力プラント事業の撤退が決まったため、燃料電池に賭けたわけです。当時手掛けていた燃料電池は高温酸化物型と言われるもので、実は現在も実用化されていないタイプです。当時としては最先端の技術レベルでしたから日本経済新聞の一面でも何度かとりあげられましたが、数年では実用化出来ませんでした。当時はマーケティングリーダーとして何とか売り歩こうとお客さんにプロトタイプモデルを見せたりもしていましたが、燃料電池については残念ながら志を達成することが出来なかったことになります。

そして病院への異動となるわけです。当時、病院は経営改善が喫緊の課題であったということもあり、周囲から見れば気の毒とまではいきませんが、大変だと思われていました。でも、私自身はうきうきしていた。ここで自分が何かやれると思ったんです。グロービスでの学びがやっと活かせると感じてうきうきしていました。今は、「三菱重工を世界一の会社にするため、今、自分のポジションで何が出来るか」です。それを常に考え実行に移していく。そんな志を持っています。

安永:ありがとうございました。それでは舩木さん、お願いします。

「自分ひとりが食べていくのに必死だった」(舩木)

舩木:私もはじめから立派な志を描いていたというわけではありません。自分ひとりが食べていくのに必死でしたし、起業当初から志が完成されていたわけでもない。ただ、人と話をしたり言葉にして書いているうち、少しずつ志が本当のストーリーになっていった。社会が自分に求めるものが何かを考え続け、それを発信し続けていった結果、少しずつ、それが本当に自分の志じゃないかと思えるようになりました。何が言いたいかというと、少しずつ勘違いしていったという(会場笑)。

自分が口にした言葉は本当に自分自身の言葉なのか、あるいは相手が求めてきた言葉というだけなのか…。私のなかではそれがごちゃごちゃになり、その後少しずつ、自分自身の言葉になっていったという流れがあります。たとえば日本経済新聞の「私の履歴書」というコーナーで、経営者の方々が過去を振り返って素晴らしい話をしていることがありますよね。私はあれが、少々創作を含んでいるのではないかなと思っているんです。

あたかも最初から自分がそのように思っていた風に書いてありますが、恐らく話し続けることで自分のストーリーになっていった側面もあったのではないかと。私は起業して今年で5年目ですが、社会が求めていることをビジネスにしない限り事業に継続性は生まれません。だから社会が求めているモノやコトをひたすら考えます。しかしそれを続けていると、社会が求めているものが次第に自分自身の形になっていく局面があるんですね。逆に事業をはじめる前にいくら志を語っていても、抽象論に終始してしまう面がある。

ですから、グロービス受講生の中だけでそういった志について話し合っていると、少し“ぬるく”なってしまうのかなとも思います。なぜかと言えば、グロービスのなかでは「そんな志はだめだ」といった厳しい批判はなかなか生まれないから。社会で志の言葉を発信すれば、結構な確率で無視されたり、相当に厳しい評価を受けたりします。だから大切なのはグロービスの外に一歩出て発信し、厳しい環境のなかで言葉の選び方や志の高さを問われることだと思っています。リアルに打って出て、そして行動することによって志はさらに高まっていくんじゃないかと、最近は感じています。

安永:ありがとうございました。三者三様に自分の志、キャリアの方向感覚についてお話しいただきました。もちろんいまだ成長中の方々ですから、「こうやって成功しました」という類のお話ではなかったですよね。舩木さんのお話しにもありましたように、こんなことをやりたいと口にして、他者の反応を聞いてみる。そしてリアルに行動を起こしていくことで初めて志を高めていくことが出来るという気がしました。大企業のなかにいるお二人についても、色々なドリフトのなか、どこかでチャンスを見つけ、そこで「やりたい」を口にしているうち、どこかで実現出来たわけですよね。意に沿わぬ転勤などがある状況でも、「いつかはこういうことをやってみたい」という種を育てていく。そのなかから志といったものが自然に育っていくのかなと感じました。

続いて、皆さんのキャリアにおいて出会ったいくつかの節目について伺ってみたいと思います。節目というものをどんな風に捉えてきたか。では、今度は舩木さんからお願い出来ますでしょうか。

舩木:何らかの節目を正確に意識していたわけではないのですが、私のキャリアでは、大学卒業後に医師となってから3年で起業したという節目があります。冒頭でも触れましたが、医師としてのキャリアを積んでいくことで知識や経験は身に付くものの、私がやりたいと思っていた高齢者医療ではそれが逆に何らかの足枷になるんじゃないかと思いがありました。だから早めに起業しようと思っていた。起業の2年前にはすでにやると決めていましたね。今から考えると自信過剰で(笑)、「絶対成功する」という思いだけでした。失敗する姿が思い浮かびませんでした。もちろん実際にやってみると失敗の連続でしたが。

「石の上にも三年」という言葉通り、まずはやってみないとだめだという気持ちがあります。だから起業後の2年間は、ビジネスモデルや目標に関する議論といったものはちょっと脇に置いて、ひたすら実行し続ける期間にしていました。実際、物事を実行するフェーズで考え過ぎると迷ってしまい、突破出来るところも出来なくなるんじゃないかと思っています。だからとりあえず突破し続ようと。それで3年経って、課題がある程度見えてきたところで改めて方向修正していく。現在はそれが一回転して、さらに突破を試みている段階です。ある程度考え直す時期は必要だと思っていますが、その修正を行っていくためにも数年単位で突破の時期が必要になるのかなと思っています。

現在、実は違う事業もはじめていて、かなり苦労しているところです。それでも今お話したような気持ちがあるので、とりあえず3年ぐらいの節目を考えながら、引き続き展開していこうかと思っているところです。

安永:なるほど。ありがとうございます。では続いて荒瀬さんと竹中さんにもお伺いしましょう。今日、こうやって参加していただいている皆様のなかには、舩木さんのように「来年から起業しよう」と思っている方がいるかもしれません。しかし大多数の人は大企業や中堅企業の組織において、自分をどんな風に生かし、どんなキャリアを積み重ねていけばいいのかと、考えているのではないでしょうか。実は参加者の方からも、「自分が認められていない」とか「どうも今いる会社が自分に合わないと思える。どうしたら良いですか?」といった質問をたくさん受けました。ですから、企業においてどのように自分のキャリアを積んでいけば良いのかということも、本セッションでは大きなテーマになると思います。大企業のなかでドリフトしながらキャリアを積まれてきたお二人は、この点についてどうお考えでしょうか。荒瀬さんからお願いします。

「惨敗しても、それを肯定的に見ることが出来るほどの逞しさがないと生きていけない」(荒瀬)

荒瀬:私の節目は二つほどありました。ひとつは大きなチャンスであり、もうひとつはどちらかといえば修羅場のような節目でした。前者は2006年で、私がテルモ・ヨーロッパの社長になった年ですね。当社はそれまで財務系や管理系をトップに置くことが多かったのですが、私のバックボーンはどちらかと言えばマーケティング。しかしカテーテル事業で大きな結果を残していたので、会社は恐らく「あいつなら、何かやってくれるんじゃないか」という期待感で私を指名したのではないかと思います。

テルモ・ヨーロッパは80年代の投資で大失敗していました。その影響で、当時は非常に保守的で後ろ向きだった。人も辞めるし売上もあがらないし、当然利益も出ないという状況で、まず経費を絞る。そんな会社でした。そこで私は、とにかく儲かる事業に新商品を投入し、それを全社の牽引役にする方針をとりました。次に手を付けたのが赤字部門の黒字化です。生産性の向上、赤字ビジネスのカット、あるいはBtoBモデルへの転換などですね。それで、テルモ・ヨーロッパ設立以来ずっとい赤字だった部門が黒字になりました。一方で、その転換を支えるために企業文化の変革にも挑戦していきました。そもそも当時のテルモ・ヨーロッパは、人に何かをやって貰っても、「ありがとう」が言えないような社風だったんです。だから「THANK YOUカード」というもの作って手書きで感謝の気持ちを伝えるとか、他者の気持ちを理解するために他部門で3日間だけ仕事をするといったプログラムを実施しました。

もうひとつの節目はチャンスとは逆に、修羅場で、人間関係から生まれたものです。私は会社が大好きなので土日出社もまったくな気にならないタイプでしたが、そんな私ですら会社に行くのが嫌になりました。今でこそ人の話も聞けるようになりましたが、若い頃はTPOもわきまえず、言いたいことを言う性格で、いわゆる扱いにくい社員だったと思います。それで人間関係のトラブルになりまして、もう修羅場でしたね。自分の考え方や生き方、あるいは人格まで全否定されるほどの逆境に置かれました。それを通して組織のなかにいる個人の限界を思い知らされた経験があります。でもそこで“開き直り”を学びました。

どん底にいる自分を感じる体験というのはなかなかできるものではありませんが、それを経験しました。そこから学んだのは、難しい課題と向かい合った時、「仮に失敗しても命までは取られることはない」と思えるようになったことです。良い意味での開き直りですね。それに、自分の人生はひとつの成功や失敗で終わるわけではないということも覚えました。たとえ惨敗しても、それを肯定的に見ることが出来るほどの逞しさがないと生きていけないということです。もちろん当時、修羅場の真っただ中でそう感じたわけではありません。当時はそこを乗り切ることだけで本当に精一杯でした。でもその経験から4〜5年後ぐらい後に、「ああ、あれが自分の節目だったな」と感じるようになったんです。

安永:竹中さんはいかがでしょうか。色々と紆余曲折があったようですが。

「自分は気がつかなくても、誰かがどこかで自分を評価してくれていることはある」(竹中)

竹中:グロービスとの出会いは節目だったと思いますね。火力発電プラント営業だけをやっていたら通うことはなかったと思います。燃料電池でマーケティングリーダーになったとき、やはりビジネスモデルや販売計画といった要素に向き合う必要があったのですが、そのときに「俺はぜんぜんスキルがないな」と、はたと感じました。これはまずいと。もちろんそこで諦めるわけにはいかないのでグロービスの門を叩きました。基礎科目を6科目ほど受講し、「これで燃料電池をやっていこう」と考えていた矢先、今度は異動です。もう「ぎゃふん」となりましたね。そしてその後、なぜか技術部門でエンジニアの肩書きになったという流れです。

私が担当した技術管理は社内的な業務が多く、自分の時間をある程度コントロール出来る。ですから、特に目的はなかったのですが「グロービスで学んだことをやれるところまでやってみよう」と考え、GDBA(グロービスオリジナルMBAプログラム)の大阪1期生に入学しました。そこで2年間、力の限り勉強しました。40代になって若い方についていくのはしんどかったのですが、もう脇目もふらずに学んだ。当時の職務環境ではGDBAで身に付けたスキルを活かすといっても難しい状況だったと思いますが、その頃は自分が変わりたいというオーラでも出していたのでしょうか。上のほうから「病院の経営改善をやってみろ」という話があったんです。

「なぜ私なのか」という不思議な気持ちはありましたが、上の方々には「入社当初は人事にいた竹中」という見方がまだ残っていたようで、「あいつにやらせてみたらちょっと面白いかな」と思われていたみたいです。そういった意味で、自分は気がつかなくても、誰かがどこかで自分を評価してくれていることはあるものなんだと、その時は感じました。これがひとつの大きな節目です。

病院に行ってからは、「ここで何とかやってやるぞ」と、最初は意気揚々でしたが、組織風土がまったく違う。医務職はもう感覚から違うし、そもそも三菱重工に勤めているなんて誰も思っていません。病院に勤めているということしか頭にないんです。ですから当初はコミュニケーションひとつとるのも困難でした。でも医務職の方から信頼を得るために、診療報酬などについても必死で勉強しました。医務職の方が何か言ってきても、「こうすればこのぐらいの点数が取れますよ」といった提案が出来るように努力していました。ちなみに歴史観のセッションで、「議論する際は、数字と事実とロジックの三要素のみを使え」と伺いましたが、私もまさにこれだと思います。常に数字、事実、ロジックの三要素を客観的に考えながら話をするようにしていたんです。

病院は厳しい状態だったというのに、それでも自分がやりたいことがなかなか出来ませんでした。さらに、看護師の方々の大量退職をきっかけに、現体制の維持という問題にも直面しました。その時、私は、今まで抵抗があり、実現できなかった許可病床数削減による外来加算獲得、看護師集中配置による看護基準のアップといった現在の医療報酬制度に関連したシステムを最適なものにデザインすることで、危機からの脱出を図っていったというわけです。

安永:ありがとうございました。お三方とも、今日にいたるキャリアは決して順調ではなかったということですね。特に荒瀬さんと竹中さんは…、私も同じですが、大企業においてキャリアを築いていくなかで大きな挫折も経験しています。むしろ思うようにならないことのほうが多かった。でも、そのときどんな風に開き直ることが出来るか。これが重要なんですね。昨日のセッションで旭化成の蛭田史郎さんが仰っていたように、大企業に勤めている人間は命まで取られるわけではない。失敗しても左遷される程度だし、特に日本では退職させるのがとても難しい。それを考えるとかなり気が楽になります。だから、ときには良い意味で開き直って節目に向き合いつつ、そこからどうやって突破口を見出していくのかが大きなポイントになるのかなと思います。

それでは次に、「アクションを起こす」という部分についてお話を聞かせてください。お三方ともMBAにチャレンジし、それを生かしてこられました。ではMBAの学びというものがどんな風に自分のキャリアで生かされていったのか。その辺をちょっと先輩にお伺いしていきたいと思います。まずは舩木さんから。

「MBAを学んで良かったところは経営上死なない自信が付いたこと」(舩木)

舩木:私は事業をはじめてからグロービスに入ったのですが、当初は「グロービスで学ぶと失敗が減るんじゃないか」と思っていました。失敗を避けながら最短距離で成長出来るんじゃないかと考えていたんですね。でも実際には、「結局、失敗はするものだ」ということが分かりました。MBAを学んでも失敗を防げるわけではないんです。よく考えてみると、医学だってそれを学んだから病気にならないというものではないですよね。病気になったとき、死なないで済むといったものです。MBAも同様で、学んで良かったところは経営上死なない自信が付いたことです。何も知らずに突っ込んで失敗すると、すべてが「THE END」になってしまう可能性がある。

MBAを学んでからは失敗からのリカバリーがかなりスムーズになったと感じています。失敗の際、「あ、この失敗パターンだな」と理解し、分析し、それに対するアクションを考えてすぐさま手を打つ。そんなリカバリーができるようになったと思っています。ケーススタディも座学であって、それを学んでも実際の失敗は避けられないと思っています。大事なのはそこでいかに早く失敗して、いかに早く学ぶか。その積み重ねが成功への近道だと思っているんです。私は早くに起業してたくさんの失敗を経験したので、失敗の蓄積がたくさんあります。それならMBAのメリットも生かせているんじゃないかと感じています。ですから、結局は行動の伴った学びが大事になるのかなという思いがあります。

安永:たしかにMBAを学ぶと「成功する企業経営を学べる」とか、「色々なコツが身に付けられる」と、思いがちですよね。そのために高いお金を払って来ているという気持ちがあるかもしれない。でもMBAで習ったことはあくまでもセオリーであり、応用が求められる実際の経営ではそのまま使ってもうまくいかないことが多々あるでしょう。もちろん舩木さんの言う通り、失敗したときのリカバリーが早くなるというのも間違いないと思います。

では、こんどは大企業の一員としてMBAを勉強し、それを生かしてきた荒瀬さんに、組織のなかで何が生かされていったのかをお伺いしたいと思います。

「MBAでは人としての生き方は学べない」(荒瀬)

荒瀬:たしかにビジネススクールで知識とスキルを学びました。私は営業と一緒に現場を回っていたマーケティングだったので、いきなり社長をやれと言われたとき、MBAで身に付けた知識がなかったらかなり困っていたと思います。特に大きな組織をマネジメントしていくためのツールを体系的に身に付けようと思ったら、MBAの知識とスキルは大きな力になると思います。

ただ私の場合、それが逆に失敗へ繋がった例もありました。たとえば、一つの戦略を策定した際、それにこだわったために失敗しました。ヨーロッパには色々な国があり、医療ひとつとっても、そのレベル、システム、競合、価格など、すべてが違うわけです。だからひとつの戦略では多様性に対応できないのに、こだわってしまいました。また、仮説思考による失敗もあります。ある仮説を現場で検証する際、その仮説をサポートする情報だけを集めたり、あるいは違う情報を都合良く解釈してしまいました。結果的にその仮説をもつことで、ミスリードしてしまい、実際にやってみたら失敗してしまったという経験があります。

あともうひとつ。もう皆さんもご存知かもしれませんが、MBAでは学べないことがたしかにあります。それは人としての生き方です。人間力を鍛えるといってもいいかもしれません。だから私はヨーロッパの社長になって3年目に、コーチングの勉強にいきました。経営にはコミュニケーションがとても大切なのに、それまでの私はMBAで学んだロジックで話をすれば…、あるいは分かりやすいプレゼンをすれば、誰もが理解してくれると勝手に思っていました。でも、そう簡単ではありません。コミュニケーションとは、実は人の感情に賢くなるということなんですよね。MBAは、どちらかと言えばそこに目をつぶっているように、私は思っています。

安永:ありがとうございます。では竹中さん、お願いします。

『三つの「き」を活かす』(竹中)

竹中:MBAについてはお二方がお話しされた内容でほぼすべてだと思います。知識は必ずつきますし、説得力のある資料も作れますし、プレゼンの力もつくでしょう。それとグロービスの場合は疑似体験が出来ますから、これも有効に活かせると思っています。ただし現実では、疑似体験や仮想体験とまったく同じことが起こることはまずあり得ません。状況次第で大きく変わりますから、そのときに自分がどう判断し、実行するかが大切です。

ただ、ひとつだけ皆さんに言葉でお伝えできることがあると思います。それは「き」を掴むということ。私としては、「き」は漢字で三つに表現出来ると思っています。ひとつ目は兆しの「き」。二つ目は機会(機械)の「き」で、これはスキルですね。そして最後が時期の「き」で、タイミングです。この三つの「き」が合わなければ、いくら知識を身に付けてもだめだと思います。たとえば兆しがあり、かつ時期が来ていても、スキルがなかったら何も出来ません。この三つをバランスよく活かすことが大切ではないかと思っています。

安永:ありがとうございました。MBAの生かし方も三者三様ですね。こうやって色々とお話をいただいておりますが、順調なキャリアを歩んできた方はひとりとしていません。必ずどこかで障害にぶつかる。そしてそれをどんな風に乗り越えるかが大切というお話こそ、本セッションの要点かなと思います。「正面からぶつかれば必ず開ける」なんていう根性論は言いません。でも、舩木さんが言ったように、失敗をどれだけ積み重ねられるかは、成功へのたしかな道のりです。また、どうやって人心を掴んでいくか。これも大きな課題ですし、荒瀬さんはイギリスまでコーチングを習いに行ったと聞いています。そして人の気持ちや機微を動かすため、どのようにコミュニケーションするか。ロジカルシンキングばかりを信仰していると、たしかにここまでは出来ないと思います。

さらに竹中さんのお話にもあったように、単なる知識だけではなく兆しや時期を感じ取る力も大事になるでしょう。今回はもっともらしく「キャリア・トランジション・モデル」と言ってお話を進めましたが、そもそも自分の評価は他人様が決めているのですから、自分のキャリアなんてなかなか思うようにはならないものです。それをどのように捉えていくのか。今回は皆さんの生き方そのものも問われたセッションにもなったと思います。ではこの辺で、会場の皆様からも質問をいただきましょう

「もがきながらも与えられた環境のなかで最善を尽くす」(荒瀬)

会場:荒瀬さんと竹中さんにお伺いしたいのですが、本日、お二人からは「必ずしも望んだ異動ではなかったことがある」というお話がありました。そういった状況については、過ぎ去った今は冷静にお話が出来るかと思いますが、当時はどんな風にして、「これをやるんだ」という“ぶれない自分”を保っておられたのでしょうか。私自身も1年半前から不本意な環境へ異動となり、当初はかなり斜めに構えていた時期がありましたので、ぜひアドバイスがいただければと思っています。

荒瀬:私の場合はかなり、もがきましたね。たとえば、3日間で20万円もする自己啓発セミナーに行ったりして、家族に「どうしてそんな馬鹿なお金を使うのか」と言われたり(笑)。基本的に酒好きではありませんが、その時期はかなり酒におぼれましたし、過食になって太ったりもしました。だからもがいたのは事実なんです。ただ、当時も「どんな環境でも最善を尽くす」という自分の信念は貫いていた意識があります。私には三つの信条があり、残りの二つは「人や仕事に対して真摯であれ」と、「変化を恐れない」です。それまでのキャリアとまったく関係のない部署へ異動になれば、それは新入社員と一緒ですよね。それでも私は最善を尽くそうと決めていました。結果的には他の人より良い数字が出せましたし、周りの人々の支援ももらえました。ですから、もがくのは良いと思います。ただ、もがきながらも与えられた環境のなかで最善を尽くすという気持ちを忘れず、努力を継続することが大切ではないでしょうか。

竹中:荒瀬さんに同感です。私としては常に、今ここにいる自分が一番良い状態だと考えるようにしています。つまり、最善感を持つということです。そもそも、長い会社員生活におけるONとOFFを考えれば、ONであり続けられることはないと思いますので。ONがあれば必ずOFFがある。たしかにそのときは悶々とするかもしれませんが、大切なのはOFFのときに何をするか。自分を信じて次のONに備え、さまざまな知識やスキルをストックしておくんです。OFFの状態にある“今”をプラスにするため、常に自己研鑽しながら進んでいくというのがひとつの解だと思います。

安永:ありがとうございます。他にはいかがでしょうか。

会場:舩木さんに質問がございます。私は将来起業したいと考えており、そのためにグロービスで学んでいます。しかし先程、「グロービスだけではぬるくなってしまう」といったお話がありました。たしかに皆で熱く語ることはありますが、そこには仲間意識があるので、「やはりぬるいところがあるのかな」と思い、私もどきっとした次第です。ただ、実際に自分が現在所属している職場で起業や独立について話しても、噂が広がるだけで終わってしまう現実があります。そこを打破するために、あるいは辛辣なご意見をいただける場というのは、どうすれば得られるものなのでしょうか。

舩木:私としては顧客の意見を聞くか、もう少し上のレイヤーにいる人々の意見を聞いたほうが良いのかなという気持ちがあります。起業したときは、いわゆるトップの人々と会うようにしていたんですね。トップの人々なら何となく分かっているんじゃないかという思いがありましたので。実際、訪れてみるとかなり有意義なディスカッションが出来ました。で、中途半端なレイヤーの人だとあまり良い議論が出来なかった経緯があります。ですから受講生がだめというわけではまったくありません。単に、同じレイヤーにいる人々からフィードバックを得るのはなかなか難しいということなんです。やはりトップの方々に意見をぶつけて批判的な言葉を貰ったり、顧客に投げて「ふーん」という冷めた意見を貰ったり(笑)…、そういう厳しい体験をしないといけないと思っています。誰に話しても良いというわけではなく、ある程度は人を選ばないと建設的な意見が貰えないと思っています。

会場:「MBAのスキルで病院を改革した」というお話について、竹中さんにもう若干教えていただきたいと思っています。私もMBAのスキルで医療現場を変革したいという思いがあって、ある大手医療グループでコンサルティングをしたりしてします。しかしドクターやナースといった病院関係者の方々は、まず目の前にいる患者さんに対して真摯な気持ちで取り組んでいこうという気持ちが先に出るため、経営という部分にはなかなか目線がいかない。これを何とか変えたいと思っているのですが、どのような対策が必要とお考えでしょうか。

竹中:なかなか難しいところがあると思いますが、やはり管理会計が重要だと思います。コストを正確に把握し、損益分岐点を明確にする。私の場合は診療科別に設定しました。あとは、「これをこうすればこうなります」という目標設定を口にしていました。たとえば「もう少し入院患者さんが増えたら、ここまで損益が改善するんじゃないでしょうか」、「数字的に達成出来てかつ病院にも貢献出来るから、貴方のところは、これだけ良い状態になります」といった風に、です。私はそんな言い方をしながら管理会計を使っていましたね。病棟の費用や設備を考えると損益分岐点などを診療科別集計するのはとても難しいのですが、ある程度割り切って管理していましたね。損益分岐点の説明は、かなり納得してもらえたと思います。

安永:ありがとうございました。では最後におひとりだけ。

会場:今日は貴重なお話をありがとうございました。欲張ってお三方にお伺いしたいと思っています。とても単純な質問なのですが、荒瀬さんと竹中さんは企業のなかでご活躍しながら、「独立してみよう」といった誘惑に駆られたことは一度もなかたのでしょうか。舩木さんには逆に、「このまま大学組織のなかで続けても良いかな」という誘惑に駆られたことはなかったでしょうか。

荒瀬:結論から言いますと、あります(笑)。

会場:そこで思い留まった一番の理由は何だったのでしょうか。

荒瀬:結局、転職して成功するかどうかを検証したとき、やはり難しいだろうと思ったんです。成功するためには能力、人間関係や人脈、そして運という三つのファクターが必要になると、私は思っています。でも転職すれば今まで持っていた人間関係を捨ててしまう側面もあるわけですし、能力的にも今まで培ってきたことをどれだけ活かせるか分からない。それで運だけに頼ることになっても、私の場合は勝てないだろうと思ったのでやめました。でもその誘惑は、たまにというか…、定期的にやってきます(笑)。

安永:ヘッドハンターが狙っていますから(笑)。

竹中:自分のスキルで独立していけるかどうかを検証した結果として、転職を考えたケースは私にはありません。そもそも私が三菱重工に入った理由は大きな仕事がしたいというものでしたから、やはり三菱重工という組織のなかで…、大きく言えば日本のなかでどれだけのことができるか。それが重要な指標だったんですね。転職して自分が独立したとしても、世の中に大きく働きかけられるほどのスキルがあるわけではないし、荒瀬さんのように海外勤務の経験があるわけでもありません。だから「まず出来ないよね」となりました。

安永:舩木さんはいかがでしょう。逆の意味になりますが。

舩木:実は私、今でも大学に所属しております。大学の医局で大学院生をやっているんです。自分がやりたいことを実現しようとしたとき、起業というアプローチが良いのか、大学院のほうが良いのか分からなかった。ですから少々せこいのですが(笑)、今も両方の道を残している状態です。いきなり独立して皆を敵に回すのは良くないという思いもありましたので、かなり政治的に動いて、敵を作らない戦略をとっています。私もキャリアを将来に渡って完全に見据えているわけではないので、組織に戻るという選択肢も実は残っています。もちろん起業という選択に至ったのは、それが社会を動かすうえでより有効だと思ったからですし、やはり起業したことでより大きなインパクトを与えることが出来たと、今では思っています。たしかに今でも大学の教授や院長と話すと、「お前、よく頑張った。そろそろこっちに戻って貢献しろ」と言われるので、とてもブレます(笑)。でもやはりグロービスで学んだからには、起業家という道で進んでいきたいなと思っています。

安永:ありがとうございました。残念ながら時間になってきましたので、最後にパネリストの皆様から会場の皆様へ、おひとりずつ熱いメッセージをお願いしたいと思います。

『粘りに粘って「何としても」と思う気持ちを持つこと』(竹中)

荒瀬:私は普段、自分に言い聞かせていることを皆さんにもお伝えしたいと思います。ドリフトしたり、意に添わなくて時間が出来てしまった時期、割り切って何か勉強したり楽しむことが出来たりする方は、ぜひそれを続けてください。私はどちらかというと意に沿わない異動などに落ち込むタイプでしたから。その時に自分にいつも言っているのは、「失敗というのは成功の一部だ」ということです。失敗は成功に向かう第一歩なんですね。本当の失敗は、「次に勝つための努力を諦めた時」だと思います。一人ひとり一度きりの人生です。今日この日は、皆さんにとって残りの人生の最初の一日です。自分を信じ、ぜひ信じている方向へ一歩踏み出して欲しいと思います。

竹中:まずは担当者としてばりばり働いておられる若い方へメッセージを。世の中の環境は色々と変化しますが、自分がどうしようも出来ないことに時間を費やすのは本当に無駄です。自分の意に沿わない異動となったとき、そこで愚痴を言って何かが変わるわけではないですよね。それなら、その時々で自分が能力を発揮するにはどうすれば良いのかと、前向きな気持ちを持っていただきたいと思います。ワールドカップで日本が大会前の評価を超えて活躍出来たのは、自分たちの実力は世界レベルで見た場合、かなり劣ると認識したからなんですよ。その状況を踏まえた上でどうすべきかと考えたからこそ、懸命にボールを追いかけ回す執念で勝てたんだと思います。何か成し遂げる場合、最期は粘りです。もう粘りに粘って「何としても」と思う気持ちを持つことこそ、何かを成し遂げる力になるのではないかと信じています。

もうひとつ、管理職の方にもメッセージをお伝えしたいと思います。仕事というのは自分ひとりではできません。配下に人々がいて、チームになるからこそ良い仕事が出来る。そのためには、現場に行ったりして人を観察することが大切になると思うのですが、私は人を見るとき三つの要素があると思っています。これは孔子が言っていたことですが、ひとつは視力。事実を「視る」力ですね。次が観察力。この行動はどういうところから生まれたのかといったことを「観る」力です。そして最後が観察の「察」の部分。これは結果のことですね。結果として動いた人が、何を得ようとしてそういうことを考えたのかを認識する力とも言えるでしょう。この三つの視点で人物を評価していくとで、物事が多面的に見えるようになるのではないかと思っています。

舩木:今後、自分のキャリアをどこまで考えているかというと、実はあまり考えていません。ビジョンや理念といった「どこへ行きたい」という希望は強烈にあります。でもどんな風にそのステップを刻むのかについては、今はあまり深く考えてないんです。考えがおよぶとすれば、「なかなか、思うようにはいかないんだろうな」という気持ちぐらいでしょうか。いずれにせよ私はチームで経営していますから、そのチームでプロセスを踏みながら楽しくやっているということが、結果的には事業の継続にも繋がっているのかなと思っています。ですから本日は偉そうにお話してしまいましたが、私自身の今後に向けたキャリアパスはあまりないので、そんな感じでも良いのかなと思っていることを最後にお伝えしたいと思いました。

安永:ありがとうございました。私としては人生で無駄なことは何ひとつないと思っています。皆さんがキャリアのなかで出会うことは、すべて必然的に出会っていることだという気持ちがあるんですね。ですから、それを受け止めたうえでどのように生かすか。何ひとつ無駄なんてないんだと思えば、そこから新しいステップが必ず開けると思います。本日は本当にありがとうございました。

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