外国の曲でも魅力的に響かせられる そんな存り方を目指して
桐朋学園大学卒業の後、しばらくの間、職を定めなかった。なぜならば、目指すべきロールモデルがなかったからである。音楽大学卒業生の進路を見ると、とりわけ男性では、定職に就いている人を見たことがない。そのため、たまたまツテのあったアメリカのフィラデルフィア・カーティス音楽院に進学した。
音楽院の近くには、ペンシルバニア大学ウォートン校があり、そこに留学している人物で桐朋学園時代から知己のあった人と偶然に町で会ったときの一言が印象に残った。「音楽家もセルフマネジメントができなければダメだよ」と言ってくれたのだ。そのとき、「ビジネス」というものを初めて意識したように思う。
音楽院の近くには、ペンシルバニア大学ウォートン校があり、そこに留学している人物で桐朋学園時代から知己のあった人と偶然に町で会ったときの一言が印象に残った。「音楽家もセルフマネジメントができなければダメだよ」と言ってくれたのだ。そのとき、「ビジネス」というものを初めて意識したように思う。
親のために弾き続けた幼少期 ヨーロッパで音楽家になると決意
ところで、私がヴァイオリンを始めたキッカケは、自分の意志とは全く関係のないところだった。幼児期に親に楽器を持たされたのだ。それも、「皇太子がやっているから」「ピアノよりは費用が安く済むから(実際には高いのだが)」というような親の想いに乗せられた感じだった。
幼い頃は吸収力が抜群に良いもので、あの頃の自分は何でも弾けた。体の成長のために背骨を押し上げる感覚が脳を活性化させる――と言う話を聞いたことがあるが、まさにそれを体現していた。ところが、小学校に進学した頃のある日突然、弾けなくなった。そこからは、努力を重ねる日々となる。
周りの子供たちから「おぼっちゃま」などと呼ばれても、ヴァイオリンを弾くことは止めなかった。自分自身では何度も止めようと考えたのだが、いかんせん親が止めさせてくれなかった。子供が音楽を続けるか続けないかは、親の根気次第だろう。今思えば、私は母親のために一所懸命になって続けたのだ。
学生時代はコンクールが付き物だった。コンクールでは皆が1位を目指し、優勝すれば次回は出場しないため、消去法で1位になるという印象があった。唯一、出場を迷ったのが、前年2位だった回だ。順位を下げる不安もあり、賭けのような心境だった。しかもそのときは、前日に学内のオーケストラでビオラの主席をやらされるという楽器の切り替えが難しい状況。「翌日のコンクールで1位を狙っているのに…」と文句を言ったら、「先輩も超えてきた道だ」などと返ってきた。そんな中だったが、コンクールでは何とか優勝した。なお、当時の桐朋学園大学にはビオラ科がなく、ヴァイオリン科の学生がビオラを弾いていた。管楽器も同様で、東儀(秀樹氏、雅楽師)が洋装に着替えて、オーストリア皇太子の前で管楽器を演奏する場面もあった。
問題は、卒業後だ。「好きなクラシック音楽の演奏家は?」と聞かれると、たいてい外国人の名前が思い浮かぶ。日本人というと、せいぜい中村紘子さんぐらいと少数。「では男性である自分はどうする?」と思い、急に目標を見失ってしまった。そこでアメリカに渡った次第だ。その後、ヨーロッパ(ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院)に渡り、26歳のとき、ようやく心底から音楽の素晴らしさに出会うことができた。そのときは、「音楽家になる!」と興奮して、親に手紙を書いた。
ヨーロッパでは、2年学んで帰国。普通であれば、事務所に登録して仕事を待ち、バイトで食いつなぐところだが、「それでは、いかんだろう」と、仕事を取るための仕組みを自ら考えるようになった。先に話した、ウォートン校に通っていた知人から言われた「セルフマネジメントが大切」という言葉の意味を、そのとき改めて強く認識した。
幼い頃は吸収力が抜群に良いもので、あの頃の自分は何でも弾けた。体の成長のために背骨を押し上げる感覚が脳を活性化させる――と言う話を聞いたことがあるが、まさにそれを体現していた。ところが、小学校に進学した頃のある日突然、弾けなくなった。そこからは、努力を重ねる日々となる。
周りの子供たちから「おぼっちゃま」などと呼ばれても、ヴァイオリンを弾くことは止めなかった。自分自身では何度も止めようと考えたのだが、いかんせん親が止めさせてくれなかった。子供が音楽を続けるか続けないかは、親の根気次第だろう。今思えば、私は母親のために一所懸命になって続けたのだ。
学生時代はコンクールが付き物だった。コンクールでは皆が1位を目指し、優勝すれば次回は出場しないため、消去法で1位になるという印象があった。唯一、出場を迷ったのが、前年2位だった回だ。順位を下げる不安もあり、賭けのような心境だった。しかもそのときは、前日に学内のオーケストラでビオラの主席をやらされるという楽器の切り替えが難しい状況。「翌日のコンクールで1位を狙っているのに…」と文句を言ったら、「先輩も超えてきた道だ」などと返ってきた。そんな中だったが、コンクールでは何とか優勝した。なお、当時の桐朋学園大学にはビオラ科がなく、ヴァイオリン科の学生がビオラを弾いていた。管楽器も同様で、東儀(秀樹氏、雅楽師)が洋装に着替えて、オーストリア皇太子の前で管楽器を演奏する場面もあった。
問題は、卒業後だ。「好きなクラシック音楽の演奏家は?」と聞かれると、たいてい外国人の名前が思い浮かぶ。日本人というと、せいぜい中村紘子さんぐらいと少数。「では男性である自分はどうする?」と思い、急に目標を見失ってしまった。そこでアメリカに渡った次第だ。その後、ヨーロッパ(ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院)に渡り、26歳のとき、ようやく心底から音楽の素晴らしさに出会うことができた。そのときは、「音楽家になる!」と興奮して、親に手紙を書いた。
ヨーロッパでは、2年学んで帰国。普通であれば、事務所に登録して仕事を待ち、バイトで食いつなぐところだが、「それでは、いかんだろう」と、仕事を取るための仕組みを自ら考えるようになった。先に話した、ウォートン校に通っていた知人から言われた「セルフマネジメントが大切」という言葉の意味を、そのとき改めて強く認識した。




