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曖昧なことを曖昧に考える力

「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」。——ゲーテ『格言と反省』(高橋健二訳『ゲーテ格言集』より)

ドイツの文豪ゲーテが、同時に優れた自然科学者であったことはあまり知られていない。形態学の創始や色相環の発明など、その合理的、論理的、客観的な思考によって科学の面でも人類に数多くの貢献を残している。そのゲーテにとって、やはり「この宇宙とは何か?」「人間とは何か?」そして「神とは何か?」は、生涯を懸けて取り組んだ“大いなる問い”であった。その問いに対し、ゲーテは、“大いなる合理的・論理的・客観的思考”をもって解明をしようとしたが、ついに答えは出せなかった。出せなかったというか、最終的には「不可知である」という結論にたどり着いた。

彼は不可知であるという謙虚な前提に立ち、今度は“大いなる曖昧な思考”でもってこの宇宙をとらえ、人間をとらえ、神をとらえた。そして、大いなる示唆・暗示に富む戯曲『ファウスト』を書き上げた。この歴史的名作は、以降、“読める人が読めば”無尽蔵にその深遠さを与えてくれる文学として光彩を放っている。

今日私たちがこの『ファウスト』を読むことに困難を覚える理由として、キリスト教の観念・知識が乏しいから、昔の外国の文章だから、あるいは高尚すぎるから、といったことをあげるかもしれない。それらは一部の理由としてあるだろう。しかし私は、本質的な理由はそこにあらずと思っている。真の理由は、端的に言ってしまえば、「曖昧に考える力」を失くしたからである。

現代の私たちは、あまりに、物質還元論的な科学万能主義と、ビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、曖昧さを悪とし、不明瞭を避け、揺らぎに不安を感じ、目に見えるものに固執し、論理的客観的に考えることを賢いとし、具体的に記述することを奨励するようになった。これらは決して悪いことではないが、その偏向が大きくなるにしたがって、私たちは、曖昧さを肯定し、不明瞭を受容し、揺らぎを意図的に呼び込み、目に見えないものを求め、直観的主観的に考えることを賢いとし、示唆的に表現をする、ことが弱くなった。

つまり、日常生活や人生、社会には、科学がどれだけ発達しようと、依然、曖昧な問いだらけであるのだが、現代の私たちは、それに対し、曖昧さで強く考え、曖昧な強い答えを持ち、曖昧にどんと構えることができなくなってしまっているのである。

その代わりに、やたら情報を集めることで安心する、書物に載っている知識を得ることで答えを知った気になる、論理的な分析手法といわれるものに傾倒し、その行為に自己満足する、他人の書いた成功法則・上達マニュアルなどを鵜呑みにして実践する——といった見かけは具体的で合理的そうでありながら、その実、中身が詰まっていない思考で曖昧さから逃げることが増えた。

そんなところから、きょうは、曖昧に考えることを肯定する記事である。そして、世の中あげて具体的に形式化して考えることをよしとする趨勢が、実は私たちの思考力を弱くしている現状を見つめ直す記事でもある。

「ソリッド思考」と「ファジー思考」

さて、本記事では、人間の思考を「ソリッド思考」と「ファジー思考」の2つに分けて考える。

「ソリッド思考」とは、次のような要素を特徴とする。
・solid=固形の・硬い・実線の
・具体的に、定義して、明示して、形式化するように考えること
・関連語:tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、
logical(論理にかなった)、description(記述)

他方、「ファジー思考」とは、次のような要素を特徴とする。
・fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な
・抽象的に、輪郭を描かず、暗示して、示唆化するように考えること
・関連語:intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、
intuitional(直観の)、metaphor(比喩)

「ソリッド思考/ファジー思考」という軸に加え、もう1軸「中身が詰まった思考/中身の詰まっていない思考」を加えると下図になる。私たちはこの4象限をうろちょろしながら物事を考える。

上の4象限の説明を簡単にしておくと、ソリッド思考の陽面である「ダイヤモンドの彫刻刀」は、クリスタルクリアな明晰さで物事を鮮明に切り出し、造形することのできる思考である。

逆に陰面である「糸吊り人形」は、具体的・形式的に考えようとするのだが、実際は他人の受け売りや流行の方法を真似るだけで、思考が自分のものになっておらず、ギスギスとやせている状態をいう。頭でっかちで目がぎょろっとしていて、身体は骨ばった恰好、しかも実際は自分で動くのではなく、人から操られてぎこちなく動くだけという糸吊り人形から想起している。

他方、ファジー思考の陽面「濃厚な滋養スープ」は、どろどろと知識やら智慧やら洞察やら悟りやらが混然一体となり、形のない液状として柔軟に豊かな思考がなされていくことを言い表している。

また、陰面の「霧の中のボート」は、何をどう見てよいか、どう進んでよいかがわからずにプカプカと漂流している小船、そのような思考状態を想像していただければよいだろう。

「ソリッド」と「ファジー」のコミュニケーションモデル

さて、私たちは外界・他者から情報をさまざまに受信して思考を行う。その際にコミュニケーションが発生するわけだが、その原理を表したのが下図だ(ジェームズ・B.ベンジャミン著『コミュニケーション』(二瓶社)からヒントを得て筆者が独自に作成)。

漏斗(じょうご)を2つ横にして合わせたような図は、送り手が送りたい内容を何らかの表現に変換して、情報として発信し、受け手がその情報を受信して、読解作業を通し理解することを示している。

この基本図をさらに詳しく考察していこう。図3はこの一連のコミュニケーションの詳細を描いたものだ。

送り手が送りたいことというのは、実は図に示したように、色がはっきりしている部分とぼやけてにじんだ部分とがある。前者は、送り手が具体的に考え明示できる、いわば「ソリッドな内容」であり、後者は、曖昧に考え明示できない、暗示に任せたい、「ファジーな内容」である。

それに伴って、表現される情報も実線部分(ソリッドな情報)と、にじみ部分(ファジーな情報)ができる。

そして受け手は、この情報を受信して読解するわけだが、受け手が理解することもまた、色がはっきりする部分とにじむ部分とに分かれる。前者は、送り手の情報を逐語訳的・具体的に把握する「ソリッドな理解」であり、後者は、受け手自らが創造的・観照的に情報を解釈する「ファジーな理解」である。

では、このコミュニケーションモデルを実例で考えてみたい。図4の受信例〈1〉は、ソリッド情報のみが伝達されるケースだ。『JR時刻表』は、送り手から受け手に対し、羅列した数値情報を届けるもので、曖昧さを許さないソリッドな内容→ソリッドな情報→ソリッドな理解を実現するものとなる。

受信例〈2〉は、そこにファジーな要素が入ってくるケースである。松尾芭蕉は「古池や 蛙跳び込む 水の音」と詠んだ。この句を詠んだとき、芭蕉は眼前に広がる自然を具体的に描写しようとした。それが図の色が明確に塗ってある部分=ソリッドな内容である。

しかし、実際のところ、芭蕉が眼前に観ていたのは、具象的な景色だけではない。むしろ直接目に見えない多くのことを感じ、それを伝えたいと思った。それは図の色がにじんだ部分=ファジーな内容である。

芭蕉は森に深く身を浸しながら、ソリッドに、そして、ファジーに思考を巡らせ、「五・七・五」という文字形式にそれを結晶化させた。

そして受け手である句の鑑賞者は、その「五・七・五」を文字通りに解凍して、芭蕉の目に映った(耳に聴こえたというべきか)景色を自らの心の中に再現する。これがソリッドな理解となる。

しかし、鑑賞者も、その記述通りの景色の再現で終えるわけではない。鑑賞者それぞれは、それぞれの想像力に応じて、その「五・七・五」の行間を膨らませたり、必ずしも芭蕉が感じた世界とは同じではない別の世界を感じたり、そうしたファジーな理解を行うのである。このように、一級の芸術作品は、作者側の優れたにじみ表現と鑑賞者側の優れたにじみ理解の両方がなされてはじめて成り立つのである。

芸術作品より難解な哲学書を表したのが、受信例〈3〉である。デカルトが『方法序説』を通じて読者に伝える内容は、具体的明示の部分は少なく、抽象的暗示の部分が大きい。 「我思う、ゆえに我あり」という言葉の結晶は形而上の示唆に富み過ぎていて、 私たち一般人が理解できるのはそのわずかしかない。

哲学書と同様(いやそれ以上に)、抽象的暗示に富んでいるのは、宗教の経典である。キリスト教の『聖書』、仏教で例えば『法華経』、イスラム教の『コーラン』などは、その文章を逐語訳的に理解したところで、その教えのごく一部分しか分からない。その教義を理解するというのは、その大部分がファジーな思考・体験・確信によるのだ。

〈受信例4〉は、対自然の場合を表したもので、少し特殊である。なぜなら、自然は、私たちに実にさまざまなメッセージを発しているが、それらはいっさい形式化されないからだ。すべてがファジーな情報(現象、雰囲気、アナログな変化)として発せられるのみである。

だから、そのメッセージを受け取るには、道具を用いて観察値として検知するか(=ソリッド理解)、個々の五感・第六感を研ぎ澄ませて感知するか(=ファジー理解)になる。人間が自然の美しさを深く理解するのは、もちろん後者によってである。

このように私たちは、ソリッドとファジーの2つを複雑微妙に掛け合わせながら、物事をとらえたり、伝えようとしたり、理解しようとしている。大事なことは、物事が複雑になればなるほど、ファジー、つまり不明瞭な“にじみ”の部分が大きくなってくることである。このことは言い方を変えると、世の中の複雑なことをとらえ、伝え、理解しようとするには、ファジーに考える力をつけないとダメだということだ。

ソリッドに考えるということは、端的に言うと、物事を単純化して目に見える形にしてしまうことである。もちろんこういった思考も必要ではあるが、それに安易に偏向してしまうと、往々にして、真理を含んだ“にじみ”の部分を捨ててしまう、あるいは、曖昧の中に潜む本質を抽出できなくなってしまうことに陥る。実はこれが、いまビジネス現場でも、世の中一般でも起こっている現象なのだ。

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