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フランスワインの定着 その5:大衆化=販路の多様化

投稿日:2009/05/27更新日:2019/04/09

7〜8年前のこと、出張でパリに立ち寄ったとき、飛行機の出発時間まで半日ほどあったので、モンマルトルの丘まで足を延ばしたことがあります。パリに行くとほぼ必ず行くのが、サン・ミッシェル(St.Michel)にある本屋さんジベール・ジュンヌ(GibertJeune)です。その日は、そこで何冊かの大きな書籍を買い、それまで手ぶらだったものですから、「あー、荷物になってしまったな」と思いながらも、半日のパリでの贅沢な時間を無駄にしないためにも、鋭意、地下鉄に乗り込みました。

モンマルトルの最寄りの駅であるラマルク・コランクール(Lamarck-Caulaincourt)駅を降り立つと、天気があまり良くなかったせいもありますが、周りは何となく薄暗い雰囲気。「これがかの有名なモンマルトルなのか?」と思いつつ歩いていると、どうやらサン・ヴァンサン墓地の横の坂道を上っていました。これは、有名な画家ユトリロが眠っているところとか。海外の本はやたらと重たいものが多い気がするのですが、手に数冊の書籍が入ったビニール袋を持っていることもあり、さしてきついとも思われない墓地の横の坂道がとても長い坂に見えて、わずかなパリの時間を使ってここまで足を延ばすより、どこかのカフェでのんびりと昼からワインを飲んでいたほうが良かったかと半ば後悔しつつも、ひたすら「モンマルトルの丘」を目指しました。するとまもなく到着と思われる道沿いに「Mus_edeMontmartre」と、派手なエンジ色の看板が目に入ってきました。

なにぶん計画性なく思い立った、気ままな小旅行。重たい書籍がますますズシリと手に食い込み始めているところに、都合よく、ちょっとした休憩所を見つけた気分で、このエンジ色の看板をくぐりました。フランス語で「Mus_e」とは、もっぱら美術館。中をのぞき、しばらくいろいろなポスター風の絵画をみていると、ロートレックのポスターが。そして、どこぞで見たことのある「黒猫(ChatNoir)」、「ムーラン・ルージュ(MoulinRouge)」といった作品がありました。この時点で、手元の書籍袋は、握力が極端に低下しているため手では持っていられず、もはや抱えるように腕にぶら下げている状態。しかも、袋の紐が腕橈骨筋(わんとうこつきん)に食い込み、痛みを食いしばって堪えていました。

中世フランスの居酒屋「キャバレー」が消費層を拡大

よいキャバレーがある

男はなかに入り、食べ物を注文した

テーブルはすっかり整えられ、白いクロスがかけられている

そして、主人がすぐさま客に尋ねた

ワインはいかがですかと。。。

武勲詩「ボードゥワン・ド・スブール」(ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会より)

ムーラン・ルージュといえば、パリで今も有名なキャバレーです。「あー、ムーラン・ルージュこそが、この重たい本を放り投げ、我が骨を休めに行くべきところではないか」と思いながらも、ほのぼのとしたタッチでキャバレーの踊り子さんたちが描かれた絵になぜか癒され、モンマルトルの丘を目指して、再出発しました。間もなく丘の上に到着すると、最もにぎやかな広場には、無数の画家がイーゼルを立て、その上に自分の作品をおいて売る者、真っ白なキャンバスを載せて絵を描いている者、「あー、ここは芸術家の町パリなのだ」と実感した瞬間でした。

先ほど静かな美術館の中でみたロートレックの踊り子の絵と、丘の上にひしめく芸術家たち。この静と動のコントラストが、ここに、歴史と、今でもその歴史を引き継ぎ、新たな芸術を創造している時代の動きとが在ることを、ひしひしと感じさせてくれたのでした。

ところで、キャバレーには、どんな歴史があるのでしょうか。

今の日本では、キャバレーという言葉はもはや“死語”となっていますが、その言葉から艶麗なお姉さま方々が、紳士(?)の横でお酒を片手に時に嬌声をあげながら談笑・接客する風景が浮かびます。ですが、キャバレーも歴史と共に変化しています。キャバレーとはフランス語で「居酒屋」という意味。発祥は16〜17世紀ごろに遡り、先ほどの武勲詩にもありますが、今で言うところのレストランの雰囲気であったようです。

居酒屋、レストランといったお店は、ワイン消費の広がりに重要な意味を持ちます。販路が拡大するということは、消費層も拡大していることを意味するからです。

当時の都市におけるワインの販路は、ホテル、飲み屋(タヴェルヌ)、居酒屋(キャバレー)、仕出屋(トゥレトゥール)、レストランといったものです。このような販路は、中世以降、パリを中心とした都市の拡大とともに発達しました。都市の発達は、都市生活者だけではなく、旅行者の往来の増加にも起因しますので、必然的にワインの消費量も増えますし、国王や貴族だけでなく、より多くの民衆にもワインが飲まれるきっかけとなりました。

中世における飲み屋(タヴェルヌ)と居酒屋(キャバレー)の違いは、前者は料理を全く出さないが、後者はワインとともに食事も提供するということです。したがって、今回のコラムで艶麗なお姉さまのお話が読めると思った方は残念ながら、普通の居酒屋のお話ですのでご容赦ください。

レストランという言葉は17世紀ごろに生まれた新しい言葉です。17世紀頃、ホテルの主人に加えてトゥレトゥールという結婚式の食事を準備して提供する商人たちがいました。彼らの仕事はワインの商人であるとともに、旅行客やホテルの宿泊者に毎日食事を提供することでした。その後、トゥレトゥールの仕事が一般化し、大都市で働く人たちの昼休みに食事を出すことも大きな役目となりました。更に、裕福な人たちに対して、お店を構えてゆったりとした食事を提供するトゥレトゥールが現れ始めました。こうしたお店を表す言葉の必要性から生まれた言葉が、レストランです。「レスト」というフランス語で「滞在」と言う意味の言葉と、「トゥレトゥール」という言葉が一緒になったのです。

結局、このころは飲み屋、居酒屋、レストランの順番で高級になっていくイメージです。これだけお酒(ワイン)を出すお店が細分化されていったのも、都市国家発達のおかげです。

中世の大都市パリとその周辺庶民の土地所有を牽引した飢饉、黒死病

弁護士も、検事も、商人も

良質のブドウ畑を求めてやって来る

司祭や僧侶たちでさえも

ぶどうに目がない

誰もがブドウ農夫になりたいとおもっている

美味なるワインを飲むために、と口を揃えて言う

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五百人いれば五百人、千人いれば千人がいうだろう

オーセール中で、自分のワインが一番だと

だれもが自分のワインを褒めたたえる

作者不詳「良きブドウ農夫の独り言」

この時代の詩を読むと、どのような人たちがワインを飲んでいたかが窺えます。中世になるまで、ワインの中心的な消費者は国王一家や貴族たちでありましたが、時代がくだるにつれて中産階級から庶民へとワインの消費が広がっていきました。冒頭の詩から、弁護士、検事、商人といった中世の中産階級の人たちが、ワインの消費者であるというだけでなく、「ブドウ農夫になりたい」と考える中産階級の人たちはブドウ園を所有しワインを生産していたということが想像されます。そして、弁護士、検事というのはいわゆるホワイト・カラーですが、このような職業の人々が多く生まれるのは、これも都市国家が成立し始めている一つの証拠です。

それにしても、書籍が重たい。にぎやかなモンマルトルの丘にいくつかカフェが並んでいます。わたしは、そのうちの一つのカフェに入って、身体を休めつつ、すっかり渇いたのどを潤すことにしました。フランスで「Uncaf_(onecoffee)」と頼むとエスプレッソがデミタス(halfcupの意)に注がれて出てきます。そのコーヒーを飲みながら、カフェのテーブルから芸術家たちの様子をしばらく眺めた後、再出発です。

多くの画伯らが集まる広場から、やや歩くとサクレ・クール寺院という有名観光名所に到着です。それはそれは威風堂々とした寺院です。高さ83メートルの寺院が丘の上にあるものですから、体感の高さはそれ以上。圧巻です。そして、中に入ってみると、どうやら寺院の上に登れるらしい。お金を払い、さらに中に入ると小さな螺旋状の階段。手には重量書籍。一瞬思案し、入り口の横にあるわずかなスペースに、「この本をここに置いていってもいいですか?」とカウンターのおばちゃん(きっとパリジェンヌ)に、ある種の緊急事態になると気のせいか流暢になるフランス語で尋ねると、「Non!」とつれない返事。やや沈黙の後、力なく「D’accord!」(OKの意)と返事し、書籍をもったまま、いざ螺旋階段へ。

人生に試練というのは時に突如として現れますね。階段を上りながら、かつて中学高校時代にバレーボール部で、学校で一番長い階段を1階から屋上まで上り下りしたトレーニングを思い出し、パリの真ん中で中高時代のトレーニングを想像する滑稽さを感じながら、後ろから上ってくる他の観光客に追いつかれまいと、必死に登ったのでした。

そして、ようやく頂上へ。もはや着ているシャツは汗でびっしょりでしたが、頂上のそよ風で気分爽快。そこから見えるパリの景色は絶景です。そして、手に持っていた書籍のことはすっかり忘れ、遠くエッフェル塔を臨みながら、ただただひたすら続く、建物、建物、建物。このパリという世界有数の大都市の広がりにしばらく立ちつくしていました。

この大都市パリの14世紀ごろの人口は8万人から20万人と推定されています。当時にしては強大な都市でした。パリは国王が住む街であるとともに、ワイン、塩、羊毛の河川交易の商業の中心地として発達しました。

しかし、このパリの発達の背景には良いことばかりあったわけではありません。特に、14世紀は、フランスにとって苦難の時代です。10世紀ごろに500万人いたフランスの人口は、13世紀になると1500万人から1900万人に増加していましたが、1315年から1317年には大飢饉が発生、穀物生産量が3分の2にまで減少しました。さらに、1347年から1348年にかけては黒死病(ペスト)が大流行し、人口は30%から50%近く激減。その後も黒死病は止まらず、1596年までにパリでは22回流行したと記録にあります。

このような苦難の時代、人口がかなり減少したのですが、生き残った農民にとっては、土地を取得し自立しやすい環境でありました。領主にとっては、人口減により税収が減ってしまっていますので、農民がより税率の有利な土地に移ってしまわないように、農民を引き止めておくことが必要になりました。結果、農民は自らの減税要求を領主にのませつつ、自ら土地を所有できるようになっていきました。さらには、土地の所有者は農民だけではなく、都市生活をしているブルジョワ(中産階級)の人たちにも広がっていったのです。

この中世の時代は、領主が土地を封じて社会を統治する封建社会でありましたが、飢饉や黒死病の流行によって、農民や中産階級の都市生活者がパリの郊外に数多くのブドウ畑を所有するようになっていったのです。そして、これが、都市への食糧への供給基地ともなって、ますます都市を発展させていったと想像されます。

実際に、13世紀から14世紀ごろの主要都市の周辺には、菜園、果樹園、酪農場、ブドウ園などが広がり、都市に向けて生産物が出荷されていました。とくにフランドル地方の周辺には多くの都市が存在し、都市の廃棄物を肥料として利用することができたため、高い収穫量を得ることが出来たということです。

中世フランスの農業の進化と貨幣経済

当時の農業は、どのような発達をしていたのでしょうか。『CambridgeConciseHistories』(ロジャー・プライス著、訳書は『フランスの歴史』(創土社))によると、畑に蒔く種子の量と収穫量の比率は9世紀から13世紀の間に、2.5倍から4倍に増加しているようです。と言っても、毎年の収穫量を個別に見ていくとそれなりに不安定ではあったようですが・・・。

そして、12世紀後半には大農場や北部フランスでは、牛と人力による農業から馬と鉄製の鍬、鋤、鎌、新型農機具、荷車、馬具、樽が使われるようになり、土地を早く耕したり、収穫したりすることが可能になり、生産性が向上しました。

農業が発達すると、自分たちで消費できる以上に穀物が収穫できるようになり、税金としての徴収分と自分たちの消費分を差し引いて、余った穀物を交換する貨幣経済が発達してきます。そして、その対極側には、自分のサービスを提供して貨幣を得て、それで食糧を買う人たちが生まれます。こうして、自ら農業に携わらなくても、何らかのサービスによって生計を立てられるようになりますので、都市生活者が増え、都市文明が発達するのです。狩猟生活をしている場合は、収穫量が大抵ぎりぎりで不安定ですので、なかなか貨幣経済は発達しません。

農民も貨幣を持つようになると、農業技術の発達と共に、貨幣を農機具の購入に使ったり、領主、教会、国王は、農民に対して貢租や税を金納したりするように要求するようになりました。こうして、封建社会の農民は自然と貨幣経済に組み込まれていきました。

結局、農耕社会が広がっていくとともに、徐々にモノやサービスと貨幣を交換する経済が発達し、引いては都市が拡大、すると益々都市の食糧需要が増加し、近郊の農業が発達するという循環が起きていたと考えられます。そして、都市の中で発達して行ったのが、キャバレーであったり、レストランであったりするわけです。こうして、中世のワインは、大衆消費への販路が拓かれ、一気に市場が爆発的な勢いで広がっていくことになったと考えられます。

ワインが、国王や貴族、または教会の司教だけの飲み物だけでなく、大衆に広がるためには、農耕社会の発達とモノの流動性を高める貨幣経済の発達がポイントであったということです。

そして、この貨幣経済は人々の思考を変えて行きます。その思考とは、「合理主義」です。モノとモノを貨幣を通じて交換するには、合理的思考が欠かせません。Aというモノと、Bというモノが同じ値段であるとすると、それらが同じ値段であるという理屈がないと人々は納得しません。当然、値段を計算するための算術思考も発達します。そして、貨幣は、「価値」という抽象物を「貨幣」という実体を通して見える化しているものですから、貨幣経済は、人々に極めて論理的な抽象思考を要請するのです。中世のルネッサンスの時代に、初めて先物取引やオプション取引といった金融工学が生まれたのも偶然ではなかったのだと思います。

貨幣経済は都市の発達を後押しします。都市は、ある意味、何もないところに築かれるのですから、富の移動は都市建設の重要な要件です。付加価値や富を産むのは、土地以外には、モノまたはサービスがあります。土地とモノ・サービスの違いは、動かせるか動かせないか。そして、モノとサービスの決定的違いは、蓄積できるかどうかです。モノは蓄積することができますが、サービスは時間の商売であることがその本質ですから、本来的には蓄積することはできません。となると、富を移動させ蓄積できるのはモノしかありません。実際には、モノそのものを移動させると大変ですから、貨幣に交換して移動するという手段がとられます。結果、農地から得られた富の源泉である食糧が貨幣によって交換(抽象化)されることによって、富の移動が容易化(流動化)したのです。そして、富が封土から都市へと移動し、パリのような大都市が築かれていったのでした。

さらに、貨幣経済が中世以降発達し、間もなく17世紀から19世紀にかけて、科学技術が大きく花開くことになります。物理学や解析学の基本をことごとく解明したアイザック・ニュートン(1642-1727)も17世紀の科学者です。こうした17世紀から18世紀の科学の発展は、中世以降に本格化してきた貨幣経済によって鍛えられた抽象的合理的思考の発達の結果なのかもしれません。ということで、次回と次々回の2回にわたっては、「科学がどう発展したか」、「ワインの神秘が科学によってどう解き明かされたか」をお話ししてみたいと思います。

*参考文献

ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会

▼「ワイン片手に経営論」とは

現在、ワイン業界で起きている歴史的な大変化の本質的議論を通して、マネジメントへの学びを得ることを目指す連載コラム。三つの“カクシン”が学びのテーマ。一つ目は、現象の「核心」を直感的に捉えること。二つ目は、その現象をさまざまな角度から検証して「確信」すること。そして、三つ目は、その現象がどう「革新」につながっていくのかを理解すること。

【お知らせ】本欄の著者・前田琢磨氏の翻訳書『経営と技術—テクノロジーを活かす経営が企業の明暗を分ける』(クリス・フロイド著、英治出版刊)が発売になりました。さまざまなベストプラクティスを取り上げながら、技術マネジメントの在り方について議論した一冊です。

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