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やると言ったら絶対にやる男 プラス ジョインテックスカンパニー 伊藤羊一さん

投稿日:2008/07/10更新日:2019/04/09

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伊藤羊一さん41歳。大手文具・オフィス家具メーカー・プラスグループで、主に法人顧客を対象に通販事業を展開するジョインテックスカンパニーのオフィス用品ソリューション企画部長を務める。企画部の前は、マーケティング企画部、物流企画部に所属。2003年、36歳で転職して以来、所属した各部門で、大きな改革を成功に導いてきた。

前身は、いわゆるエリート銀行マンだった。新卒で日本興業銀行に入行し、同期160人の中で、一番早く課長代理に昇進した。法人への提案営業で実績を積み、国際本部の担当者も務めた。行内の過半が反対する融資案件を強い情熱を武器にして前に進め、結果として「第6次マンションブームの火付け役となった」と評されたこともある。

人も羨む出世街道をひた走っていたが、30歳後半を前に「実績を作ることに、ある種の“飽き”を感じ始めた」。顧客をカネの面から支えるサポート役としてではなく、自らが現場で事業を創り上げる側にまわりたい・・・。転職を決意するのと、バブル崩壊後の金融再編、興銀のみずほフィナンシャルグループへの統合が偶然にも時を同じくした。

「粗利を1%上げて、物流コストを1%減らせば、利益が2%上がりますよね」。銀行マン時代には、そんなふうに机の上から眺めていたビジネスを、もっと肌身に感じたいと考えた伊藤さんは、転職に際し、自ら志願して物流部門に籍を置いた。財務部や経営企画部に行けば即戦力となれるのは分かっていたが、敢えてリスクを取ったのだ。実際、物流の現場に立つと、見える景色は一変した。

「例えばボールペンの発注があったら、物流センターでパートの方が実際にボールペンをピッキングして梱包し、配送担当が夜、物流センターを出発して、朝にお客さんに届ける。それで初めて、1本100円という単位でお金が入ってくるわけです」

1年半をかけて現場を見て回った伊藤さんは、05年5月、物流企画部長に登用される。早速、物流のコスト構造改革に取り掛かるが、ここからが大変だった。

四面楚歌のプロジェクトリーダー

興銀からの転職先にと伊藤さんが選んだジョインテックスカンパニーは、通販事業「アスクル」で気を吐くプラスグループにおいて、法人顧客に対するコスト削減などの提案営業を付加した「スマートオフィス」事業を03年に立ち上げ、成長している流通カンパニーだ。文具小売店の営業マンが顧客に対し、効率的な文具やオフィス用品調達のための試算をし、顧客はネットで商品を発注する。ジョインテックスは、スマートオフィスや環境に配慮した製品への切り替えなどのサービスを開発して文具小売店を指導、発注に用いられる約4万アイテムに及ぶ商品データベースを管理し、また、発注に応じて商品を翌日配送するロジスティックス機能を担う。

伊藤さんが着手したのは、この事業における配送コストの削減プロジェクトだった。05年5月当時、ジョインテックスの物流センターでは、文房具だけで年間25億円、オフィス家具なども合わせると40億円におよぶ配送費が使われていた。そして、その一方に、顧客からの受注を得るたびにダンボールがスカスカの状態のまま梱包され、発送されている実態があった。

例えば、ある顧客からファイルの注文があり、30分後、同じ顧客からボールペンの注文が入ると、これらは全く別な注文と認識されて、二つのダンボールに梱包されてしまう。配送料はダンボールの数だけかかるから、同じ顧客からの注文を“名寄せ”できれば、コストは容易に削減できる。

「一定時間が過ぎるまで梱包を止め、ダンボールの容積をいっぱいにしてから配送すればいいのではないか」。会議で出てきたアイデアに、伊藤さんは飛びついた。「それだ!そうしよう」。実現可能性の多寡や起こり得る課題について充分に想定するだけの情報量や経験を持たない“物流素人”ならではの判断だった。

「甘かったです。書籍のように同じような形、サイズの商品を取り扱っているのなら話は簡単ですが、ジョインテックスが扱っている商品は、消しゴムからトイレットペーパー、卓上棚まで、大きさも壊れやすさも多種多様なわけです。縦×横×高さという単純な容積計算で合算していったからといって、ダンボールがピタリといっぱいになるわけではない」

「商品の容積を指標に名寄せをするという発想自体は間違っていないはず」という直感を信じるあまりに、強引にプロジェクトを引っ張ろうとしたため、現場の物流センターや物流子会社には愛想をつかされた。伊藤さん、システム開発部長の長谷川治さん(51)、物流企画副部長原正人さん(52)。たった3人で、開発を始めた。センターの積極的な協力を得られないゆえに、システムの正確な要件定義からしてままならず、何とか作ったプロトタイプも全く用を成さない。物流センターでのテスト稼動では、特定のアイテムの注文がダブったり、顧客への請求金額がめちゃくちゃな計算になってしまったりと、初歩的なエラーを頻発した。

毎週金曜日になると、所沢の物流センターまで長谷川さん、原さんと3人、システムの試運転に出向く。「今週は成功しますように」と祈るが通じない。「ごめん」と、現場の人たちに謝りながら、リカバリーの手伝いをし、深夜まで反省会。夜中3時ごろ帰路につき、街道沿いの、そっけないラーメン屋に立ち寄る。

「また駄目だったなあ」。重苦しい雰囲気。疲れと悔しさで身体が重い。味も良く分からないまま、醤油ラーメンをすすった。「絶対いける。必ず成功する。諦めずにやりきろう」。伊藤さんは、絶対に弱音や愚痴は口にしない。ただ内心、覚悟を決めていた。「うまくいかなかったら責任をとって会社を辞めよう」と。

逃げない姿勢が呼び込んだ逆転劇

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銀行から来た素人に何が分かる――。毎週のようにシステムの試運転に来てはエラーを出し、現場をリカバリー作業に奔走させる2人に対し、センター側の反応は、冷ややかだった。

せっかくの週末にリカバリー作業が発生する繰り返しに、「伊藤さん、あんた何を考えているんだ。もう来ないでくれ」と、ついにはセンター長が罵声を上げた。しかし伊藤さんは食い下がった。「もう一度だけチャンスをくれ」。そのとき偶然に、商品の名寄せがうまくいった。

2005年11月。計画から遅れに遅れてのシステム本稼動。ところが、「そこからがまた地獄だった」。

試運転と実際のビジネスとは異なり、どれほど時間を経過してもダンボールの大半が満杯にならず、いつまで経っても配送可能なダンボールが出てこない。配送トラックを待たせ通しにはできないので、見切り発車で“ダム”を開ければ、今度はものすごい数のダンボールが配送口に積み上がる。「箱の中身はグチャグチャ、名寄せも終わっていないから、配送コストは少しも減らない」。ついには「会社としてこれ以上の投資はできない。元に戻したらどうだ」と、上層部も匙を投げた。

「ヒントのようなものがある」。声をかけてきてくれたのは、物流子会社プラスロジスティクスのシステム企画部長、勝田芳之さん(45)だった。「現場の意見を聞かずに勝手に役に立たないシステムを創ったあいつらに協力できるか」という空気のなか、勝田さんにとって、伊藤さんに協力することは同僚を裏切るような気持ち悪さがある。しかし、こめつきバッタのように謝り倒し、説明に回る懸命な姿に思わず、「一緒にやりませんか」と、手を差し伸べた。

成功のカギは、ダムを開けるタイミングの設定にあった。日がな一日、ダンボールが満杯になるのを待っていては、いつまで経っても梱包のラインが流れない。かと言って、すぐに梱包してしまっては配送コストの削減は実現できない。藤田さんは早朝に、こっそりと出社しては、時間と容積の兼ね合いを取る最適なパラメータを推し量っていった。毎日、設定を少しずつ変えながら効果を検証し、パラメータの数値と結果のレビューをもとに、伊藤さんとともに議論を重ねた。

3週間後。数字がついに割り出された。積載効率が確実に上がり、しかし、ラインはスムーズに流れていく――。魔法の数字は、「0.8」だった。

蓋を開けてみれば、新システムは、年間1億円にも達する削減効果を実現していた。「よくも、あの状態からリカバリーしたな」。そんな評判が社内を巡り、ビジネスモデルの先進性で戦ってきた社内に、コスト構造改革の新風を吹き込んだ。

「諦めないでよかった。皆の協力がなかったら、どうしよもなかった」と伊藤さんが言えば、勝田さんは、「伊藤さんが上からの反対を跳ねのけてくれたおかげだよ」と返す。3人の戦友は飽くことなく互いの武勇を称え、飲み明かした。

快進撃は続いた。

06年4月に着手した物流センターのライン改装では、センターを稼動させながらの工事を実現させた。通常、物流ラインを一新する場合には、一旦、古いラインを別な建物に移し、そちらを稼動させながら、旧来の建物に新しい什器を搬入、つなぎ合わせていく。ところが、伊藤さんらは、まるでパズルでもするように古いラインに新しい什器を一つずつつないでは動かし、徐々に全体を刷新していった。

ところてん方式で、毎週オペレーションが変わる。全30回の工程。現場の負荷はただ事ではない。しかし、「あの伊藤が言うなら」と皆、全面的に信じ、協力してくれた。一般的な改装工事と比べ、3億円のコスト削減。見学に来た物流機器メーカーの担当者が、「この規模のセンターで、稼動させながら改装するなど聞いたことがない」と、目を丸くした。

右脳と左脳のシナジー 心と頭がフル回転

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伊藤さんと仕事を共にした人が判で押したように口にすることがある。それは、「彼は、やると言ったことは絶対にやる」ということ。そして、「どんなことがあってもチームや部下を守ってくれる。絶対に最後まで逃げないし、諦めない」ということだ。「だから、協力する人が現れる。私自身も、伊藤さんだから最後まで付いていこうと思えたのです」。システム開発で戦友となった長谷川さんも言う。

一旦やると決めた以上、やり抜くのは、銀行マン時代から変わらぬ信条だ。古くさいかもしれないが、仕事は結局、気合いと根性の部分が大きいと思う。土壇場で尻に帆を掛け逃げる男にだけは、絶対になりたくないと思う。

「挑戦したい仕事があるなら、やってみろ。失敗しても俺が責任とるから。守ってやるから」。そんな言葉が口先だけに終わらないから、自然と人が付く。振り返れば、興銀の同僚だった真由美さんに結婚を申し込む夜。帝国ホテルのレストランで想いを告げ、外に出てみると、部下たち10人が上気した笑顔で待っていた。「やったぞ」とガッツポーズをすると、その場で胴上げされた。

「あんたじゃなきゃ、ダメなんだ」。会社の命運をかけたマンション開発に際し、名指しで伊藤さんに融資を求めてきたデベロッパーもいた。「分かりました、やらせてください」。綱渡りの勝負に勝ったときには、その会社の社長と手に手を取り合って男泣きした。

「やってみたい企画があるんです」。真剣な目つきの部下には、「よし、分かった。明日の経営会議で通して来てやる。資料つくる時間はないから、今夜、寝ずにプレゼン考えて、後はぶっつけだな。大体9勝1敗で来てるけど、もし明日がその1敗だったらごめんな」――。

そんなスタイルでやってきたから、以前は、「伊藤さんには左脳ってものはあるんですか?」などと冷やかされることもあった。ところが最近は、右脳と左脳のバランスが絶妙と評判だ。

「ヨイショするわけじゃないですが、これは、グロービスのおかげです」。

ジョインテックスで物流企画部長になりたての頃。自信を持って意思決定ができないことに、密かに悩んだ。銀行では「決まったパターンをものにしさえすれば、後は同じことの繰り返し」だったから、枠組みを払い、ゼロから物事を整理し、結論を導き出した経験が実は少なかった。

「ダンボールを止めて、オリコンに切り換えたい。でも、コストが1個あたり20円かかるんです。部長、どうしましょう」、「どうしましょうって言われても、おまえ・・・」。

部下から上がってくるアイデアを測る物差しを持たない自分が不安だった。業界に特有の知識がないのは仕方がないとしても、ものの考え方次第で結論を導き出す方法論はあるはずだ。

「世のため人のためのカリスマになる」

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そんな伊藤さんにとって、「まず、何を考えるべきかを考えましょう」から始まる「クリティカル・シンキング」のクラスは衝撃だった。学ぶごとに思考のスピードが速まる。前日にクラスで仮想体験したことが、次の朝には実践で活きる。物流センターのシステム開発に苦しんだ時期、物流クレームの多発という課題を、クラスでの学びを活かして整理し、解決の糸口をつかんでみせた。針のむしろに座る想いで出社していた時期だけに、「クリシンに救われた」との想いは強い。

それからは、マーケティング、経営戦略、オペレーション戦略、人的資源管理・・・と、何かに憑かれるようにして受講を進めていった。どれほど忙しくても、学ぶことだけは止めなかった。そうするうちに、「長く物流の世界にいる人のようには、プロセスの詳しい中身は分からない。でも、インプットとアウトプットを指針に、問題を探し解決への端緒をつける力はある」と、なにか吹っ切れるものがあった。物流のプロ集団における、自らのポジションが明確になった。

07年からは、マーケティング企画部長に転進。教育機関を対象に通販事業を展開する、プラスグループの教育環境事業本部とジョインテックスの統合も進めた。両事業は販売に携わる文具店など共通項が多く、親和性が高いにも関わらず、データベースも物流も別々。統合すれば効率性は高まるが、グループ内とは言え、両者の組織文化はまるで異なる。反発を一身に背負う覚悟で、「一緒にやろう」と声をかけ、08年5月、統合を実現させた。今の肩書きは、オフィス用品ソリューション企画部長、兼事業統合室長、兼秘書室特命担当――。週に数回オフィス隣のウィークリーマンションに泊り込むほど、奔走する毎日が続く。

こうして走り続ける先に何があるのか――。医者や芸術家といった職業の人と異なり、何か具体的に心に決めたキャリアがあるわけではない。ただ、「夢は何か」と問われたら、「総理大臣」と答える。「同じ働くんだったら楽しく働いた方がいい。どうせ生きるんだったら気持ちよく暮らせる社会作りに役に立っていきたい」。人生に対する立ち位置を突き詰めると、政治家に行き着いてしまう。

1990年4月。バブルで沸いた日本経済が傾き始めた頃に興銀に入った。銀行マンに憧れていたわけではない。当時は、バラエティー制作の仕事がしたいと、テレビ局を目指していた。興銀はいわば記念受験。ところが、「仕事は世のため人のため」「国家を論ずることなく、何が仕事だ」と、真剣に語る興銀マンの熱さに心酔した。

娘の明日香ちゃん(2)が生まれてからは、「大きくなったらパパの日に似顔絵を書いてくれるかな。この子が大人になったときの社会は、良いものなのだろうか。幸せでいてほしいな」。そんなふうにも考えるようになった。娘の寝顔を見ていると、「パパが、良い社会にしてやるからな」との想いがこみ上げ、思わず涙がこぼれることもある。

「俺、Jリーグの三浦カズと同い年なんですよ。カズは日本のヒーローだけど、俺も世のため人のためのカリスマになってみせる」。より多くの人の幸せのために、そして何より明日香の幸せのために――。最終ゴールを決め、最高の男泣きができるその日まで。キャリアの後半戦は、まだ、キックオフの笛が、鳴ったばかりだ。

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