オギノ式の数奇――イノベーションの活用法はユーザーが決める 

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今回は、大正から昭和にかけて活躍した医師で、いわゆるオギノ式避妊法で有名な荻野久作(1882-1975年)を取り上げます。

荻野は東京帝国大学医学部出身の秀才でしたが、家が貧しいこともあり、卒業からしばらくして新潟の医院で産婦人科の臨床医となります。その荻野を排卵・妊娠に関する研究に駆り立てたのは、当時の農村の女性の辛い立場でした。

当時の農村では子どもをたくさん生むのが当たり前の時代でしたから、子どもをなかなか授からない女性、特に後継ぎとなる男子を授からない女性は非常に厳しい立場に立たされました。特に新潟の農村部では、結婚しても最初は籍を入れず、子どもが生まれなければ夫側から離婚を申し出てもいいという風習がありました。当然、そうした女性が再婚をすることは容易ではありませんでした。子どもを授からないことを苦にして命を絶った女性も少なくありません。

こうした状況に心を痛めた荻野は、「何かしら妊娠の可能性を高める方法はないか」と考えたのです。

荻野は患者にヒアリングなどを行い、地道に研究を重ねました。そして思考錯誤の末、当時の医学界の常識が間違っているのではないかという考えにたどり着きます。当時の常識は、「(月経周期が4週間の女性の場合)月経後、14日目から16日目に排卵がある」というものでした。

荻野は、排卵痛と月経の関係に気づき、排卵は次の月経までの時間で決まるという仮説を得たのです。荻野はこう結論付けました。「次の月経の12日前から16日前が排卵期である」。当時としてはコペルニクス的な発想の転換でした。

ちなみに、荻野は、仮説検証の一環として、自分と奥さんとの夫婦生活でも「実験」を行い、バースコントロールに成功しています。

ところで、なぜか医学上の発見は、往々にして自分自身や身近な人物を仮説検証の実験材料とすることが少なくありません。古くは使用人の子供で天然痘ワクチンの実験を行ったエドワード・ジェンナーの例があります。近年では、胃潰瘍や胃がんの原因としてピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)を発見し、ノーベル医学生理学賞を受賞したバリー・マーシャルも、自分自身でピロリ菌の培養液を飲み込み、実際に胃潰瘍になって狂喜したと言います。仮説に自信を持つ研究者は、自分や身近な人物を一見リスクの高い状況に置くことも厭わないというのは、面白い人間の心理と言えるでしょう。

さて、荻野の発見ですが、順調に世の中に認められたわけではありません。地方の町医者がそのような発見をするとは誰も思っていなかったからです。日本では、論文を書いてからほぼ5年間、荻野の説は無視されたままでした。

そこで荻野は当時医学の中心だったドイツに渡ります。1929年のことでした。閉鎖的な日本で悶々とするくらいなら、「本丸」に乗り込んでそこで認めてもらおうということです。このあたりの話は、日本で受け入れられないなら世界で戦おうと考えた野口英世などの、明治、大正期の偉人を思い起こさせます。

ドイツでも最初はなかなか話を聞いてもらえませんでしたが、何カ月も地道に売り込んだ結果、ついに認めてくれる医学者が現れます。そしてドイツ語で論文を発表する機会を得たのです。

数奇な運命はここからです。荻野の説は話題を呼びましたが、その応用は荻野の予想とは違うものでした。荻野を研究に駆り立てたもともとの強い動機は「子どもを授からない女性が妊娠しやすくするにはどうすればいいか」ということだったのですが、オギノ式は避妊方法として紹介されたのです。

これを推奨したのが、この連載では悪役になることが多いカトリック教会です。カトリックの教義では、堕胎はもちろんご法度でしたし、避妊も推奨されてはいませんでした。聖書の冒頭に「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」という言葉が出てくるからです。そのカトリック教会が、ギリギリ妥協して許した避妊方法がオギノ式だったのです。そしてこの方法は日本を含め、世界中に広がっていきます。

荻野は非常に複雑な感情を抱きました。自分の研究が広く認められたのは嬉しい半面、本来の意図とは逆の使い方をされてしまったからです。

当然荻野は、この方法を避妊に用いた場合の当てにならなさを理解していました。本来は人助けのための研究だったものが、なまじ精度の低い避妊法として利用され、望まれない妊娠が起きてしまうことに、荻野は亡くなるまで心を痛めたと言います。日本でオギノ式という名前が避妊法として付けられたことも荻野には不満でした(英語ではリズムメソッドと言います)。荻野は、あくまで彼の発見は妊娠の確率を上げるために使ってほしいと希望しましたが、「ユーザー」がその声を聞き入れることはありませんでした。

さすがに近年ではこの方法のみで避妊を行うカップルは減っているかと思われます。それでも想定外の妊娠は少なからず起きているでしょう。泉下に眠る荻野は、今も「違う、そうじゃない」と叫んでいるのではないでしょうか。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・日本で認められないのなら、世界の中心に乗り込んで、粘り強く売り込むのが結局は早いことがある
・発見やイノベーション、製品の使い方は、結局はユーザーが決める(ユーザーイノベーション)。すべてを発見者や開発者がコントロールすることはできない
・最初の動機の崇高さは、必ずしもユーザーには伝わるわけではない。動機の押し売りはできないものと思っておく方がいい

 

東京大学理学部卒、同大学院理学系研究科修士課程修了。戦略系コンサルティングファーム、外資系メーカーを経てグロービスに入社。累計150万部を超えるベストセラー「グロービスMBAシリーズ」の著者、プロデューサーも務める。著書に『ビジネス仮説力の磨き方』『グロービスMBAビジネス・ライティング』『グロービスMBAキーワード
図解 基本フレームワーク50』(以上ダイヤモンド社)、『[実況]ロジカルシンキング教室』『[実況』アカウンティング教室』『競争優位としての経営理念』(以上PHP研究所)、『利益志向』(東洋経済新報社)、『ロジカルシンキングの落とし穴』『バイアス』『KSFとは』(以上グロービス電子出版)、共著書に『グロービスMBAマネジメント・ブック』『グロービスMBAマネジメント・ブックⅡ』『MBA定量分析と意思決定』『グロービスMBA事業開発マネジメント』『グロービスMBAビジネスプラン』『ストーリーで学ぶマーケティング戦略の基本』(以上ダイヤモンド社)など。その他にも多数の共著書、共訳書がある。
グロービス経営大学院や企業研修において経営戦略、マーケティング、ビジネスプラン、管理会計、自社課題(アクションラーニング)などの講師を務める。グロービスのナレッジライブラリ「GLOBIS知見録」に定期的にコラムを連載するとともに、さまざまなテーマで講演なども行っている。

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