チャーチルの能力開発――賢人は歴史と経験に学ぶ 

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今回は、本連載では初めての現代史上の人物、ウィンストン・チャーチルについて取り上げます。

1位 ウィンストン・チャーチル
2位 スティーブ・ジョブズ
3位 マハトマ・ガンジー
4位 ネルソン・マンデラ
5位 ジャック・ウェルチ

これは何の順番かご存知でしょうか? 2013年にプライスウォーターハウスクーパースが調べた「世界の企業経営者が最も尊敬するリーダーランキング」のトップ5です。

チャーチルが経営者に評価される最大のポイントはその決断力と構想力、そして交渉力です。彼は、第二次大戦中、ヨーロッパがドイツにどんどん征服される中、ヒトラーとの交渉を頑固として撥ね付け、ドイツと徹底的に戦うことを決断しました。

そして、ヨーロッパの戦争から距離を置いていたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を説得し、支援を取り付けます。また、戦後の世界秩序の構想を描き、それを実現していきました。

「もしチャーチルがいなかったら」は欧米社会ではよく語られる議論ですが、20世紀の後半の世界がある程度違うものになっていた可能性は少なくありません。

チャーチルは1874年、後に大蔵大臣となる父と、アメリカ出身の母のもとに生まれました。少年時代はあまり優等生とは言えず、名門のハーロー校には進んだものの、大学には進学せず(できず)、何とかサンドハースト王立陸軍士官学校に入学します。

面白いのはその後のキャリアです、当然まずは軍人の道を歩むわけですが、一方で新聞社の特派員の副業を持ち、20代前半にして多くの記事を書き、著書まで著しました。その仕事のためということもあったのでしょうが、20代には当時としても際立った量の読書をしたようです。後に政治家になった後も文筆を続けましたが、その蔵書数は目を見張るものがあったようです。だからこそ、1953年のノーベル文学賞受賞があったともいえます。

さて、チャーチルは、早々に軍人は性に合わないことを自覚し、政治の道を志します。最初の選挙では落選しましたが、名門出身ということもあってか、26歳にして庶民院の国会議員に当選します。

ただし、チャーチルの政治家としての初期から中期は、数々の大臣を歴任するなど、経歴こそ立派ではありましたが、必ずしも傑出した政治家とはみなされておらず、ましてや後世に名の残る人物とは思われていませんでした。大臣を務める一方で、何度も落選の憂き目にもあっています。

実際に、功績も上げましたが、数々の失敗も犯しました。その筆頭は、彼が大蔵大臣時代の1925年に行った金解禁です。これはイギリスの輸出競争力を大幅に落とすことになり、ゼネストなどを招きます。チャーチル自身も、「自分には経済が分かっていなかった」と言った趣旨の発言をしています。第二次大戦までは、チャーチルは旺盛に活動はするものの、「One of Them」にすぎませんでした。むしろ、議会の和を乱すとして煙たがられる存在でした。

時代がチャーチルを求めたのは大戦開始翌年の1940年です。それまでは前任のチェンバレン首相が対独宥和策をとっていましたが、これがヒトラーの増長を招き、ヨーロッパは大混乱に陥っていました。ポーランドは分割され、フランスも瀕死の状況でした。ユダヤ人の迫害も進んでいました。こうした中、対独強硬派のチャーチルが首相に任命されたのです。すでにチャーチルは66歳になっていました。

閣内でも議論は沸騰しましたが、チャーチルは断固としてドイツと戦うことを決断します。一時的には多くのイギリス人が犠牲になることも見込まれましたが、ファシストとは全面的に戦うべきというのが彼の信念でした。20世紀は映像の世紀でもありますので、彼が国民に向かってどのような説得を行ったのかはYouTubeの画像などからも確認できます。

ただし、ヒトラーと戦うにはイギリスだけでは無理です。アメリカを仲間にすることが必須でした。我々日本人は、第二次大戦で英米が自然に協力したものと錯覚しがちですが、当時の英米は必ずしも一枚岩ではありません。

アメリカは、以前ほど頑なではないものの、モンロー大統領以来の孤立主義を良しとしていましたし、当時のヨーロッパ列強の「収奪型」の植民地経営に対して嫌悪感を抱いていました。アメリカ独立戦争の記憶もまだ風化はしていませんでした。

こうした中、アメリカをイギリス支援へと説得するのは至難の業でしたが、チャーチルは粘り強く交渉し、時にはおべっかや巧みなレトリックも使い、ルーズベルトの心を氷解させていったのです。説得すると決めたらあらゆる手を使うのがチャーチル流でした。アメリカ人の母を持つということも有利に働いたのかもしれません。時にはインドの植民地経営などをめぐって厳しい指弾もされましたが、チャーチルはそれにも耐え、ひたすらルーズベルトの説得に注力しました。

そして、その後はソ連とも同盟を結び、連合国の形が完成します。チャーチルには戦後のビジョンが見えており、それに邁進していったのです。

結局、大戦は1945年に終了し、チャーチルはこの大戦を終了させ、戦後の世界秩序を作ったヒーローとなりました。ただし、皮肉なことに国内の総選挙では、「戦争の功績はチャーチルに、票は労働党に」と謳う労働党に惨敗し、首相を退くことになります(1951年に第一党に返り咲き、第二次内閣を組閣)。

さて、なぜチャーチルはここまでの実績を残すことができたのでしょうか? 理由は多岐にわたりますが、ここでは彼の歴史観や大局観を指摘したいと思います。

チャーチルは「決断の人」であり、同時に「説得の人」でもありました。それを支えるには強烈な信念とビジョン、「善」の判断が必要です。これは一朝一夕に獲得できるものではありません。歴史を学び、考え、自分なりの経験や他者との議論と突き合わせてさらに考えるからこそ確固たる信念やビジョンが生まれるのです。

彼が恐ろしいまでの読書家であったことと、このことは無縁ではないでしょう。読書を通じて、本質を見極め、人間の本性を知り、何が善かを考えたからこそ、有事において彼の決断力が際立つことになったのです。また、若い頃から長きにわたって文章を編むことをルーチーンとしていたことも、彼の構想力や説得力に寄与したはずです。

もし第2次大戦が起きなかったら、彼はちょっとした有力政治家で終わったのかもしれません。しかし、時代が彼を要請した時に、それに向けてしっかり能力開発と地固めをしていたからこそ、彼は歴史上でも傑出した人物となったのです。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・賢者は歴史と経験に学び、構想を練り、決断、説得の材料とする。その上で、読書と文筆の積み重ねは大きな助けになる
・人は時と場所を得なければ活躍できない。しかし、それはただ待っていてもやって来ない。幸運の女神は、準備するもののみに微笑む
・信念は繰り返し繰り返し伝えるからこそ人を動かす

 

東京大学理学部卒、同大学院理学系研究科修士課程修了。戦略系コンサルティングファーム、外資系メーカーを経てグロービスに入社。累計150万部を超えるベストセラー「グロービスMBAシリーズ」の著者、プロデューサーも務める。著書に『ビジネス仮説力の磨き方』『グロービスMBAビジネス・ライティング』『グロービスMBAキーワード
図解 基本フレームワーク50』(以上ダイヤモンド社)、『[実況]ロジカルシンキング教室』『[実況』アカウンティング教室』『競争優位としての経営理念』(以上PHP研究所)、『利益志向』(東洋経済新報社)、『ロジカルシンキングの落とし穴』『バイアス』『KSFとは』(以上グロービス電子出版)、共著書に『グロービスMBAマネジメント・ブック』『グロービスMBAマネジメント・ブックⅡ』『MBA定量分析と意思決定』『グロービスMBA事業開発マネジメント』『グロービスMBAビジネスプラン』『ストーリーで学ぶマーケティング戦略の基本』(以上ダイヤモンド社)など。その他にも多数の共著書、共訳書がある。
グロービス経営大学院や企業研修において経営戦略、マーケティング、ビジネスプラン、管理会計、自社課題(アクションラーニング)などの講師を務める。グロービスのナレッジライブラリ「GLOBIS知見録」に定期的にコラムを連載するとともに、さまざまなテーマで講演なども行っている。

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