「知っている」が学ぶ心を妨げる 

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「内面のものを熱望する者は、すでに偉大で富んでいる」。 ───ゲーテ

研修事後アンケートの気にかかる声

企業で研修を行うと、たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、いわば成績表のようなもので、良い評価であれば励みにし、意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。いずれも見るのは楽しみです。しかし、そんな中でいつも気にかかるのが次のような感想です。例えば―――

「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「明日からの業務に直接役立つものではない」……といった類のものです。

もちろん私もこのような声が出ないよう、もっと知的満足を与える改善努力を重ねます。しかし、こちらの努力とは裏腹に、このような類の感想はどうしても出てしまうのです。その理由は「知識が学ぶ心を妨げている」からです。

私が行う「プロフェッショナルシップ(一個のプロであるための基盤意識醸成)研修」「コンセプチュアル思考研修」は、仕事やキャリア形成に関わるマインド・観を醸成する内容ですので、いわゆる知識習得・実務スキル習得ではありません。働く上での原理原則の観念をさまざまに肚に植え付けること、そして思索・内省の脳を大いに動かすことを狙いとしています。

私は、知識や技術以上に「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」と信じています。さらには、観念は価値を生み出す基となるものであり(そしてそれが信念や理念になる)、観念は人を結びつけるものであるとも考えています。例えば私が紹介する観念的なメッセージは例えば―――

「心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる」。 
(ヒンズー教の言葉とされる。元プロ野球選手の松井秀喜さんが星稜高校野球部時代に山下智茂監督から教わり、人生のモットーにしていることでも有名)

あるいは、
「悲観は気分に属し、楽観は意志に属する」。 
(アラン:哲学者)

または、
「チャンスは心構えをした者に微笑む」。 
(パスツール:細菌学者)

といったようなものです。これらわずか一文に表された観念を肚に落としてもらうために、ワークをやり、ゲームをやり、ディスカッションをやり、1日とか2日とかの研修プログラムをこしらえます。

原理原則を含んだ観念というのは、古典的な言い回しです。当然それらは一読して当たり前の内容であり、新規性のある情報や理論は含んでおらず、地味で説教じみたものです。そんなとき、「心が変われば運命が変わる?まぁ、教訓としてはそうですね」、「ああ、その言葉、聞いたことある、知ってる。(いわゆるポジティブ心理学でしょ)」、「チャンスは努力しないと来ないってことを言っているわけですね。それは当然といえば当然。(で、そのために具体的にどうすればいいの?)」……受講者の中で「知識狩り」「ハウツー情報狩り」の人の感想はこうなりがちです。

知識を狩るにしても、ハウツー情報を狩るにしても、それはひとつの好奇心の表れですから、まったく悪いというつもりはありません。しかし、自分の外側にある新奇のものばかりの収集・消費に忙しく、自分が既に持っている内側のものの耕作・醸成を放置していることが私は残念だと思うのです。

「ああ、それ知ってる」となるともう頭を閉じる

私たちはあまりに知識所有教育を受け、情報獲得社会に生きているので、「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、それ以降の「考えること」をしなくなります。そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲する傾向が強くなっています。

ここで、小林秀雄を引用しましょう。下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。

「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入(はい)って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。
(中略)
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。 

小林は、言葉が美を見る眼を奪ってしまうと言います。それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ。有名人の誰それがそれを使っていた」と、自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、その人はもうその言葉に興味をなくします。その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。

知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、本当の学び方を学びません。ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされるとそこが満足の終着点で、物事との本当の向き合い方を学びません。

とはいえ、人生とはよくできているもので、こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報狩りに忙しい人も、いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。人は何か深みに落ちたときに、断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱することができます。

そういうことがあるから、私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。いまはピンとこないかもしれないけれど、その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事だからです。

自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。

人の考え方を強く深くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。私たちは「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」をもっとやっていきたい。少なくとも教育の観点はそこを外してはならないと感じています。

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