家康が江戸を選んだのは偶然or必然?――脅威は機会に変えられる 

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今回は江戸幕府の初代将軍、徳川家康の関東移封について取り上げます。

徳川家康は前々回取り上げた織田信長の盟友であり、現代でも、信長にはやや及ばないものの、人気の高い武将の一人です。

家康、そして家康が開いた江戸幕府がその後の日本の歴史に与えた影響は多大なものがあります。往々にして、鎖国や幕藩制度といった政策・制度が与えた影響に我々は注目しがちですが、それ以上に大きな影響を与えた要素として、そもそも家康が当時は寒村とされた江戸を本拠地として選んだことが挙げられます(なお、当時の江戸が寒村だったというのは、家康を持ちあげるための後世の創作であり、当時すでに一定の規模はあったという説も最近有力ですが、開発途上の町だったことは間違いありません)。

さて、家康はもともと現在の岡崎市(当時は三河国)で生まれ、その後、三河に加え、遠江(現在の浜松付近)あたりを領国として支配します。本能寺の変が起きた1582年頃は、屈指の実力者でした。しかし、本能寺の変の首謀者であった明智光秀を討った豊臣(羽柴)秀吉が実権を握り、家康もその後、形の上では豊臣政権へ臣従することになります。

その家康が関東への移封を命じられたのは1590年(江戸幕府開闢の13年前)の北条氏征伐の後です。この時、秀吉は、自分の地位を脅かすかもしれない家康を関東に封じ込める道を選びます。当時、家康は、三河、遠江に加え、駿河、信濃、甲斐の五国を領国とする実力者になっていました。この五カ国を取り上げ、北条氏の旧領である関東八カ国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)を家康に与えたのです。見かけ上は石高も増えたわけですが、長年本拠地としてきた三河を失うことに加え、当時政治や商業の中心であった京や大阪(大坂)からも遠ざかってしまうため、家康にとっては非常に厳しい命令でした。

しかし、当時の情勢としては、秀吉と戦うわけにもいきません。しぶしぶではあったと思いますが、家康は関東への移封を受け入れます。

そこで問題になったのが、本拠地をどこに置くかということです。秀吉は江戸を勧めましたが、当時の江戸は、湿地帯が広がり、必ずしも農耕に向いた地域ではありませんでした。また、当時は利根川が直接東京湾に流れていました。海運上はプラスですが、関東地方は比較的開発が遅れていたため、しばしば大きな水害が起きていました。

我々は、家康は秀吉の勧めるままに江戸に移ったと思いがちですが、実際には他にも選択肢がありました。具体的には、北条氏の本拠地であった小田原です。小田原城は天下の名城であり、堅牢さも抜群です。北条征伐でも、城はほとんど無傷でした。関西との交通の便も江戸に比べると比較的よく、城下町としてすでに町も出来上がっていました。農産物や海産物にも恵まれています。なにより、家康の元々の領地である駿河に近い距離にありました。

一方で、家康に対するアレルギーが強く、また、それまで北条氏が年貢をそれほど取り立てず、領民に優しい方針をとっていたため、本拠地として治めるには難しい側面もありました。江戸を選ぶにせよ、小田原を選ぶにせよ一長一短があったわけです。実際には、鎌倉などその他の選択肢もありますが、ここでは江戸と小田原が具体的な候補だったと考え、比較してみましょう。そうすると表のようになります。


 

こうして見てみると、非常に微妙な判断だったことが分かります。決定的なノックアウトファクター(その項目が×だと、他の項目が良くても採用を諦めざるを得ない要素)は特にありません。もし表に示した評価軸を同じ重みで考えると、むしろ小田原が有利なくらいです。秀吉との関係維持や、領民の反発さえ押さえることができれば、小田原は選択肢として十分にあり得そうです。

しかし、家康の判断は異なりました。あえて当時としては開発が遅れており、治水などの負荷も大きい江戸を選んだのです。ここに家康の「逆転の発想」がありました。江戸は関東平野の真ん中に位置します。確かに当時は農耕に適さない寒村だったかもしれませんが、言い方を変えると、開発さえしっかり行えば、広々と広がる豊穣の地を手に入れられる可能性があるのです。

利根川の治水などは確かに大変でしたが、家康は、過去の経験から、流れを変えることはできると判断しました。利根川さえ流れを変えれば、その他の河川を海運などに活用し、交通の便のいい町を作ることが可能というわけです。事実、利根川に関しては大幅な治水工事を敢行し、その河口を現在の場所(茨城県)に移してしまいました。

こうした逆転の発想は、現在でも、SWOT分析などを行う際に励行されます。「企業規模が小さい」と言うとマイナスに聞こえますが、見方を変えると「小回りがきく」「フットワーク軽く変化に対応できる」とも言えるわけです。1つのファクトがあった時に、マイナスの意味付けだけをするのではなく、プラスの意味付けをするバイタリティが新しい世界を開きます。家康のケースでは、江戸のマイナス面を見るのではなく、江戸のポテンシャルを大きく見たことが重要なポイントでした。

もう1つ家康の意思決定で重要だったのは、その時間軸の設定です。1590年の段階で、家康は48歳、秀吉は53歳でした。ポイントは、その時点で秀吉には後継ぎとなる子どもがいなかったということです(秀吉と淀君の子で、後に大阪夏の陣で亡くなる豊臣秀頼が生まれたのは1593年です)。当時の48歳といえば現代の60歳くらいではないかと思われますが、家康は健康には自信があったのか、ここで焦りませんでした。もし焦っていれば、腰を据えて江戸の開拓を行ったりはせず、小田原に拠点を構えて、虎視眈々と秀吉の動きを探ったかもしれません。秀吉に子がいないことも見据えた上で、長期的な天下取りのシナリオを構想できたことも、江戸を選んだ理由だったのかもしれません。

江戸を選んだことは、思わぬプラスも家康にもたらしました。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に兵を出さなくてよかったからです。これは結果論ではありますが、相対的な家康のポジション向上につながりました。

その後、秀吉は1598年に亡くなり、1600年の関ヶ原の戦いを経て、1603年に江戸幕府が開かれたのです。

歴史に「if」はありませんが、もし家康が小田原を拠点として選んでいたら、現在の日本の地理は大きく変わり、それが政治や行政、さらには日本という国の国体や世界的なポジションにも大きな影響を与えた可能性もあるのです。その「if」の世界と今の世界を比較することはできませんが、空想してみるのも一興かもしれません。今回の学びは以下のようになるでしょう。

・一見マイナスに見えることも、考え方次第でいくらでもプラスに転じることができる。それを考えるバイタリティこそが大事
・時間軸を意識した大局的な判断が大切。急いては事をし損じる
・立地は戦略上非常に大きな意味を持つ。特にリアルの世界ではそれこそが明暗を分けることがある

 

東京大学理学部卒、同大学院理学系研究科修士課程修了。戦略系コンサルティングファーム、外資系メーカーを経てグロービスに入社。累計150万部を超えるベストセラー「グロービスMBAシリーズ」の著者、プロデューサーも務める。著書に『ビジネス仮説力の磨き方』『グロービスMBAビジネス・ライティング』『グロービスMBAキーワード
図解 基本フレームワーク50』(以上ダイヤモンド社)、『[実況]ロジカルシンキング教室』『[実況』アカウンティング教室』『競争優位としての経営理念』(以上PHP研究所)、『利益志向』(東洋経済新報社)、『ロジカルシンキングの落とし穴』『バイアス』『KSFとは』(以上グロービス電子出版)、共著書に『グロービスMBAマネジメント・ブック』『グロービスMBAマネジメント・ブックⅡ』『MBA定量分析と意思決定』『グロービスMBA事業開発マネジメント』『グロービスMBAビジネスプラン』『ストーリーで学ぶマーケティング戦略の基本』(以上ダイヤモンド社)など。その他にも多数の共著書、共訳書がある。
グロービス経営大学院や企業研修において経営戦略、マーケティング、ビジネスプラン、管理会計、自社課題(アクションラーニング)などの講師を務める。グロービスのナレッジライブラリ「GLOBIS知見録」に定期的にコラムを連載するとともに、さまざまなテーマで講演なども行っている。

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