吉野家 -新たな店舗形態と新たなお客様(前編) 

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第2回は、日本が誇るファストフードの至宝「吉野家」について、2回に分けてお届けする。

ミシュランに輝かない星 -吉野家

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この記事を書いている今日、ミシュランガイド東京が「星」を発表。3つ星8店。2つ星25店。1つ星あわせて計150の「星を持つ店」が発表された。ミシュランが1つの都市に与える星としては、歴代最高。東京は世界に冠たる「美食の都市」の一角であることが、ここに示された。

とはいえ。3つ星8店といわれても、行ったことがある店がどれだけあるのか。カジュアルに使うには難しい店も多くあり、普通の人はそんなには触れたことがないはず。

たとえば、3つ星店のひとつ、濱田家。今回は150店中日本料理6割と、和食の店が多いことが特徴だが、その中のひとつが3つ星濱田家である。日本橋人形町に大正元年(1912年)創業。一人あたりの平均予算4万円。しかし伝統と格式を極めた独特の存在感を持ち、訪れる顧客にわずかな時間の中にもその価値を伝えきる。そんな店の一つが濱田家。

ところが。濱田家とよく似た?名前で、濱田屋よりもさらに古い歴史を持ちつつ、全く異なる価値を極めた存在がある。1899年、やはり日本橋での創業。牛丼一筋108年。株式会社吉野家(以下吉野家)である。

「日本のファストフードの至宝」というと、言い過ぎだろうか。しかしそう言ってなんらためらうところがないほどに、筆者はこの店を愛している。「早い」のみならず、「うまい」と「安い」をこれほどまでに高いレベルで共存させているその努力に敬服。一店舗のみの名店ならまだしも、大規模チェーンにおいても実現する組織力に敬服。マクドナルドが世界で稀有な存在であるように、吉野家もまた日本発の「宝」なのではないか。そう思っている。

学び多き、その深い歴史

私と近い世代ならば、「牛丼一筋80年」というフレーズを懐かしく思うのではないだろうか(ちなみに、アニメ「キン肉マン」では「牛丼一筋300年~♪」と歌われていた)。それから30年近くを経て、現在、創業108年。吉野家は、1世紀を越えるその年月のなかで、様々な出来事を経験してきた。

そもそもは、大阪・吉野町(現在の大阪市福島区吉野)出身であった松田栄吉氏が、当時東京・日本橋にあった魚市場に定食屋を開いたのがその始まり。文明開化の象徴であった牛鍋を、庶民の味にアレンジしたのが牛丼である。魚市場で働く、味にうるさい・時間に追われている常連を相手に、午前中半日で1000人を回す人気店として存在としたのが初期の吉野家だ。その後1926年の関東大震災後、魚市場とともに東京・築地に移転する。吉野家本店といえば築地というのは、ここに端を発する。

大きな転機は1958年。父の後を継いで二代目社長となった松田瑞穂氏が、「吉野家の多店舗展開」を目指し株式会社化した事にある。「うまい、安い」の名店であった築地の吉野家は、先進のチェーン・マネジメントのあり方を学びながら「早い、うまい、安い」の全国チェーンとなっていく。67年にメニューを牛丼に絞込み、73年にフランチャイズ1号店を開店。今の吉野家店舗の原型をつくりつつ、かつ多店舗展開をグイグイと進めていく。77年には100店突破。78年には200店突破。それまでと全く異なる「企業」としての新しいステージを、猛烈なスピードで進んでいく。

ところが。1970年代後半、積極的な拡大に店員の質や材料の調達が追いつかなくなり、徐々に商品が劣化していく。輸入制限外になるフリーズドライの牛肉と、輸送費削減のために開発したパウダー状のタレを使った牛丼に切り替えたことで、顧客満足と客足を落としていくのだ。そして80年。最大の危機が訪れる。徐々にキャッシュフローが気まずくなる中、値上げを断行。これが引き金になり、一気に客離れが起こる。結果、外食産業で初めて、会社更生法の適用を申請することになり、事実上、倒産した。

普通はここで、企業はオシマイである。実際、疲れ果てた社員たちは訪れた管財人に「いっそ潰してほしい」と言ったという。

ところが、奇跡の出会いが起こる。訪れた管財人が、野心なき実直な人物であったのである。

管財人の増岡章三弁護士という、吉野家の歴史で忘れられない名前。吉野家で食事などしたことのない(実際、当初「よしのけ」と間違えて呼んでいたという)その弁護士は、素朴に実直に粘り強く、社員に語りかけていく。「何故できない?」「何がおかしい?」「どうすべき?」…比較的体育会的な文化の中で、猪突猛進に仕事を進めきた社員は、ここで「腹に落ちるまで考え行動する」ことを知る。そして。その過程で、未来を感じていく。俺達は、まだやれるのではないか。

再建は顧客に・社員に・取引先に・世の中にメッセージを出すことからスタートした。その名も「どっこい、吉野家は生きている」キャンペーン。期間限定で値引きを行いつつ、劣化した商品と店舗サービスを一から見直し、一致団結して取り組んだこの全国セールが「俺達はまだやれる」を現場が本気で信じる起爆剤になっていった。

その後も、本気で真面目で当たり前の努力を徹底。肉の品質を戻す。タレの品質を戻す。一部赤字店舗は閉鎖しつつ、拡大の可能性のあるエリアへは着実に出店・展開。人材教育もあらためて身を引き締めて・・・吉野家、奇跡の復活がここから始まる。

この時代の吉野家の激闘は、その後何冊もの書籍に著されている。その中心人物は、現社長の安部修仁氏である。安部氏は、プロのミュージシャンを目指しながら吉野家でバイトする学生だった。豪気な人柄、築地店で作った、1000人の常連の顔を見ただけでその人の望む商品を瞬時に出す(「ツユダク」「トロヌキ」「ネギダク」。様々な消費者の好みがあるのが吉野家牛丼。これを瞬時に出す)という伝説。安部氏はやがて正社員になるとこの若い会社で一気に出世し、30歳を前に九州地区本部長になる。まさに吉野家次代の若手リーダーの象徴だった。

この安部氏と、(牛丼ビジネスを知らずとも)実直かつ辛抱強く物事を考える弁護士、増岡氏の出会いは、奇跡に近い。しかしそれにより、吉野家は生き残った。そして。また猛烈なスピードで、世の中に価値を出すことに邁進し続ける。真面目に誠実に、たゆまぬ努力を積み重ね、その後計画より早く全額を完済。日本の更正法の歴史でも、他に数例しかないと思われるほどの、巨大債権の早期完済を実現するのである。吉野家を愛する筆者は、この時の吉野家復活、そして今でもその存在が健在であることは、神様の贈り物とも思っている。

第2の、最大の危機

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この最大の危機を乗り越え、吉野家は20年にわたって快進撃を続ける。2001年には牛丼は280円に。当時、「ユニクロ」をブームに導いたファーストリテイリングの社長・柳井正氏と、吉野家社長・安部氏を並べ特集するビジネス誌のなんと多かったことか。吉野家は、デフレ時代の雄と呼ばれるようになる。

しかし。不意の事態が起こる。皆の記憶に新しい、突然の事件が。2003年末、米国産牛肉BSE問題である。「私が生きている間は、もうないだろうという最大級のアクシデント」と安部氏が語ったこの事件。「自社が育成した米国産牛肉の旨さあってこその、吉野家の価値」にこだわった結果、2004年「牛丼のない牛丼店、吉野家」が誕生する。

この時期が、どれほどの危機的な時期として吉野家内に認識されたのか。筆者はそれを知らない。しかし、一消費者としてその努力には、頭が下がる。

様々な商品開発の試行錯誤。何を新しい吉野家の象徴にするかというチャレンジの連続。その過程におけるオペレーションの見直し。例えば、複数商品を扱うが故に「伝票」が必要となったが、それ自体も古くからの吉野家文化的には心理的抵抗が大きかったはずだ(「お客様のご注文を暗記してこそ吉野家」)。そして、上記の過程で連発する様々な予期せぬ事態。現場は混乱を重ねる(例えば、牛丼用オタマでは、オタマにのる汁量が微妙な差異により、豚丼を旨い味わいでよそえない、などなど)。

様々な困難を前に。努力を積み重ね。真面目に実直に次々と立ちはだかる問題に取り組み続ける。吉野家のそんな姿には、敬服の念を禁じえない。しぶとく、がんばっている。その底力を感じたのが、この時期の吉野家だった。

これを経て。2006年に牛丼輸入再開。ところが。成田の検疫所で、特定危険部位がついたままの牛肉が発見され、吉野家も輸入再開延期をすぐさま即断。

極めて残念なこの事態に、安部社長が言った言葉は「アッタマにきた」。現場でこれを、この言葉のトーンで直接伝える。腹は立つが、気持ちで負けない。「危機にめげない経営、吉野家」。そんな言葉がビジネス誌を彩ったのが2006年初頭だった。

そのうえで、その半年後、いよいよ吉野家の牛丼は世の中に戻ってくることとなる。皆が待ちに待った、牛丼再開である。

BSE問題の会見で「2~3年は商売をしなくても社員の給料は払える」と言った吉野家。倒産の危機を乗り越えた教訓からか、底の分厚い経営をしてきた。しかも社員が一丸となる文化がある。本気で困難にチャレンジする文化もある。確かに、牛肉輸入禁止は、「最大のアクシデント」だっただろうが、その底力で見事それを乗り越えた。

が。気になる。そもそも、吉野家の危機とは何だったのだろう。それは、果たして本当に終わったのだろうか――。

後編はこちら

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