ある牛飼いの覚悟 

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雲にものらない 雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
固い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
(高村光太郎「牛」)

「牛削蹄師(ぎゅうさくていし)」という名刺を持っていた阿部俊幸の姿を、最近グロービスで見ない。そう思っていたら、阿部が新しい牛舎を立てたと聞いた。誰かがFacebookにアップした一枚の写真が、私の目を捕えた。

牛たちを見つめる阿部。しかし歓喜の表情ではなかった。写真の阿部は、静かな表情を浮かべ、優しい目で牛を見ているようだった。

この表情は何を意味しているのだろうか。彼は今、どんな気持ちで牛舎の経営をしているのか。そして彼がこの表情にたどり着くまでに、いったい何があったのか。

それを知りたいと思って、私は彼の牛舎を訪れた。

(出典:浅野拓也氏Facebookより転載)

人生を決めた平手打ち

高校生の時、姉と殴り合いのケンカをするまで、阿部は酪農家になることを決めていなかったという。

牛が好きとも思っていなかった。ただ、小学生の頃から、牛には触れていた。餌をやる。たい肥を牛舎から運び出す。それで500円の小遣いをもらっていた。

両親からは、勉強しろとも、牛をやれとも言われたことがない。ただ、働かざる者食うべからず。それが阿部の家の掟だった。小学生の頃から、耕作機械を動かしていたという。

お前を大学にいかせる金は、うちにはない。両親はそう言い切った。であれば、仕事に直接役に立つ技術を高校で身につけた方がいい。阿部は40km離れたところにある、農林高校の農業技術科に進んだ。同じ高校に進んでいた、姉の影響を受けていたのかもしれない。

この農林高校は、かつては男子校だった。共学になって最初の年に、阿部の姉が進学したのだ。姉は、「農業クラブ」の部長を務めた。農業の実習や研究を行い、研究結果をまとめて学会に発表する。農林高校の学生たちにとって、このクラブは花形であり、姉は有名な存在だった。

卒業後、姉は酪農関係の大手企業で働いていた。

高校3年の時、祖父が胃がんで入院した。これから牛舎をどうするか家族内で話し合った。牛舎は赤字続きで、多額の借金を抱えていた。

姉は「自分が牛舎を継ぐ」と言った。

その時、突然阿部の中にムラムラと怒りが込み上げてきた。結婚が決まっていた姉。嫁いだ後に牛舎はどうするのか。

「牛舎は俺が継ぐ」と言った。

言い争いになった。手が出た。姉から平手打ちが飛んできた。それまで仲の良かった姉との、生まれて初めての殴り合いのケンカだった。

ケンカが終わった時、阿部には酪農家として一生を生きる覚悟が生まれていた。人生を変えたケンカだった。

幻の黒字転換

「継ぐ」と言ったからには、技術を身につけなければならない。阿部は、県の農業実践大(2年制)に進んだ。酪農の実習を毎日行いながら、3つの国家資格を取った。牛の繁殖のための「人工授精師」、家畜の売買を行う「家畜商」、そして牛の爪を切り清潔に保つ「牛削蹄(ぎゅうさくてい)師」だった。

卒業後、阿部は牛舎の経営を立て直そうとした。そしてその間に、牛削蹄師としての仕事で現金収入を得ようと考えた。

農業実践大学で、牛の削蹄の仕方を教えてくれた講師がいた。そこに弟子入りし、削蹄の実践を始めた。

阿部が今でも「先生」と呼ぶ人物である。年は50代。

その指導は厳しかった。

始めたばかりの頃、阿部は牛に後ろ足で蹴られた。瞬間、息が止まった。痛み止めの薬を飲んで、そのまま作業を続けるように先生に言われた。後で病院に行ったところ、肋骨が折れていた。

牛に頭を蹴られたこともある。5-6分意識を失っていたらしい。気づくと、牛舎の隅で横になっていた。先生に「めまいはするか」と聞かれた。しないと答えた。「じゃあ、作業に戻れ」と言われた。削蹄の仕事を終えて自宅に帰ると、頭痛がひどい。病院に行くと頭蓋骨にヒビが入っていた。

阿部は先生から学びながら、懸命に働いた。朝5時に起き、自宅の牛に餌をやり、乳を搾り、それから牛削蹄師としての仕事を夜まで続け、18時に帰宅し、その後、また牛に餌をやり、搾乳を終えると、23時になっている。

阿部は、自分が引き継いだ牛舎をどうすれば黒字化できるのかと日夜考えていた。

当時の牛舎には、高年齢の牛しかいない。乳量が少ない。餌をやって飼育するが、収入がコスト割れする状況だった。

阿部は、自舎の飼料を分析した。専門家に頼んで、餌の成分を全て調べてもらった。その上で、削れるところを探し、新しい「飼料設計」(餌の組み合わせを計画すること)を行った。約15種類の飼料設計のそれぞれについて、原価を計算し、財務予測を立てた。

予測は仮説にすぎない。実際に飼料を変更したらどういう効果があるか。牛舎にいた10頭全てについて新しい飼料を試すのは、リスクが高すぎる。そこで、2頭だけ新方式を試した。

3ヶ月間、新方式を試した。思ったような効果は得られなかった。さらに新しい方式を試す。こうして思考錯誤を繰り返し、阿部は2年間を費やして、自舎の牛に最適な飼料のレシピを作り上げた。

今度は自信があった。計算によれば、この飼料の方式を全頭に適用すれば、月間20万円の黒字が出るはずだ。

阿部はついに勝負に出た。新方式の全頭展開である。結果を見守った。

翌月の15日付で、酪農組合から前月の決算書が送られてきた。

25万円の黒字だった。

この月次決算書を見て、阿部は笑うしかなかった。

なぜなら、それが届いた時…2011年3月15日には、南三陸町の戸倉地区にあった阿部の牛舎は全て津波に飲まれ、牛は一頭もいなくなっていたのだ。

残された借金

大きな揺れを感じたのは、3月11日だった。阿部は川を見て茫然とした。家が上流に向かって流れていった。みるみるうちに、黒い濁流が川からあふれ出し、阿部の牛舎に迫ってきた。

巨大な建築機械が、津波に流され、ぐるんぐるんと回転していた。阿部の自宅と牛舎のあたりで、濁流は渦を巻いていた。自宅が飲まれ、牛舎が飲まれた。10頭の牛は激しい叫び声を残して、渦の中に消えていった。阿部は茫然とするしかなかった。

阿部は地域の高齢者(女性)をケアしながら、近くの山を登り避難した。目の前まで、波が押し寄せてきた。瞬間、この高齢者が足に水を取られ、転倒し、そのまま波に飲まれていった。阿部が伸ばした手をすり抜けて。

この女性が長年連れ添ったお爺さんに会った。

「ごめん。ばあちゃんを助けられなかった」

阿部は土下座したまま号泣した。

阿部のいた南三陸町戸倉地区(西戸集落)は、自衛隊も入ってきづらい場所にあった。阿部は地域の人たちと一緒に鹿を取って食べ、飢えをしのいだ。

阿部は町の人と協力し、がれきをかき分けて遺体を確保し、担架に乗せて数百メートルを移動させた。

合計40以上の遺体を運んだ。

牛の死体も見えた。しかし、後回しにするしかなかった。

2カ月後、ようやく牛の死体に着手した。

牛は水を吸い、重すぎて、自分が移動させることができない。自衛隊に助けの手を借りた。とにかく穴を掘って、そこに埋めようと思った。自衛隊の車両で、牛の死体を引きずって移動した。牛の身体がちぎれ、腐敗した内臓がこぼれ落ちた。

阿部は避難所を出て仮設住宅に移った。一瞬の単月黒字の実績を残して牛舎は消え、多額の借金という現実だけが残っていた。

静かな覚悟

阿部は、それでも牛をやりたいと思った。

当面は牛削蹄師として他の牛舎を回り、収入を得ようと思った。削蹄の先生のところに相談に行った。

この先生はその時に言った。お前はもう2年間も経験を積んだ。後は独立して、一人でやってみろ。

そして阿部は、「牛削蹄師」の名刺を刷り、独立して営業活動を始めた。

少しずつ資金をためながら、彼は牛舎の再建に着手した。様々な団体に支援を求めた。

資金調達は容易ではなかった。「100頭規模でないと、支援できない」「そんなに酪農をやりたければ、北海道にいけばいい」と農業支援団体に言われた時には、阿部は激昂した。

多くの人に頭を下げて書類の作成方法を教わり、数字をまとめ、金融機関に提出した。

最終的には、個人の支援者からの資金提供が決まり、そして日本政策金融公庫の貸付が預金口座に振り込まれた。震災が起きてから、4年が経過していた。

牛舎が再建された。牛が入った。まずは11頭である。

そして冒頭の写真が生まれた。

阿部に興奮はなかった。むしろ冷静だった。

牛たちを、そして自分をこれから待ち受ける困難に思いをはせていた。多額の借金のことを考えた。

不安があった。

しかし同時に、どんな困難も踏み越えていく静かな「覚悟」が、阿部の胸に宿っていた。

 

追記)阿部俊幸は現在、牛の頭数を20頭に増やすために、クラウドファンディングで資金を調達している。

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