始皇帝の栄光と蹉跌――大敵は「間違った欲」と「甘言」 

ヒストリーの経営学
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今回は中国の初代皇帝である秦の始皇帝について取り上げます。なぜ初めて天下を統一した英雄の国家が、わずか十数年で瓦解してしまったのでしょうか。

始皇帝は紀元前259年、戦国時代(中国の諸王が群雄割拠していた時代。後に燕、斉、楚、韓、趙、魏、秦の戦国七雄に絞られていく)の中国に、秦の王家の血筋として生まれました。諱(おくりな)は政です。ただ、生まれた時には父は趙に人質としてとられていたため、政もまた少年期を趙で人質として過ごしました。このあたりは、少年期を人質として過ごした徳川家康を彷彿とさせるものがあります。

その後、秦に戻って王の位をついだ政は、秦の国力を上げながら、ライバル諸国を滅ぼし、紀元前221年に初の中国統一国家を作り上げます。始皇帝という名前は、この統一後に名乗った名称です。「皇帝」は王を超越した存在であり、それまでの諸国の王とは別格であるという意味を持ちます。

戦国の七雄の中でも、秦は最も遅れた内陸地域に位置する国でした。現在の中華人民共和国の地図で見ても、最も開発が遅れている地域です。その秦がなぜ文明的には先を行くライバルに勝つことができたのでしょうか。

1つの理由は、いち早く封建主義を捨て、法と官僚制による統治を行うとともに、郡県制を採用したことです。後の科挙の時代(6世紀以降)に先駆け、家柄によらず出世出来るという実力主義に基づいた人材の登用制度と、システム化された官僚制を構築したのです。これが、人治主義で官僚制も未発達、家柄重視のライバル国に対して大きなアドバンテージを持つことになりました。

もう1つは、遅れていたがゆえに、他国の進んだ技術(灌漑技術や鉄器の技術など)を採用しやすかったということがあります。現代でも新興国の方がかえってスマートフォンの普及率が高いということがありますが、まさに秦は弱みをあえて強みに変えたわけです。SWOT分析では、一見W(弱み)に見えることをS(強み)と出来ないか、T(脅威)と思われていることをO(機会)とできないかを考えることが重要とされますが、始皇帝はそれを実践したのです。

天下統一の末に不老不死と神仙を求める

こうして広大な中国を初めて統一した始皇帝でしたが、これは崩壊の始まりでもありました。事実、11年後に始皇帝は亡くなり、そのさらに4年後に秦は滅亡します。秦の崩壊の理由としては、万里の長城や始皇帝稜を始めとする巨大土木事業に力を入れ過ぎるあまり人民が疲弊し、反感を買ったといったことがよく言われます。それも重要な要素ですが、理由はそれだけではありません。

それ以外の重要な理由として、最高の位に上り詰めた始皇帝が、さらなる欲を持ってしまい、政治以上にそれに力を入れ過ぎたことがあります。それは不老不死を手に入れることでした。当時は、中国を統一してしまえば、それ以上に版図を拡大することは考えにくい時代です。版図の拡大は通常、王や皇帝であれば誰しもが持つ欲ですが、それが早々に満たされてしまったのです。

それに代わる欲が不老不死、あるいは神仙の力を手にすることでした。こうして、始皇帝の周りには、不老不死や神仙術を説く怪しげな取り巻きが寄ってくるようになりました。彼らを方士と言います。始皇帝は彼らの声をいれて、しばしば不可解な行動をとるようになっていきます。たとえば、匈奴(きょうど/モンゴルで栄えた遊牧騎馬民族)を過剰に恐れ万里の長城を築くきっかけになったのも、方士からの進言がきっかけと言われています。

ちなみに、始皇帝の巨大な陵墓の近くで発見された「兵馬俑」は等身大の兵士や馬の模型がおよそ1万も並んでいたことで世の中の人を驚かせましたが、この「兵馬俑」は、不老不死が手に入らなかった時のリスクヘッジのために、あの世で始皇帝に仕える軍隊を作ったものだという説もあります。

諌める儒家を抹殺し、後継者の育成にも失敗

もう1つの理由は、始皇帝の側近のパワーバランスの変化です。もともと始皇帝は主に法家(諸子百家の一つで法治主義を説く)で占められる法吏と呼ばれる官僚たちの声だけではなく、儒生と呼ばれる儒家の学者の声もよく聞き、バランスの良い判断を行っていました。しかし、天下統一の過程で法家の声が強くなったこともあり、始皇帝をしばしば諌める儒家の存在を煙たがるようになっていきます。

そうした延長線上で起きたのが有名な焚書坑儒です。書物は焼き捨てられ、儒生の学者たちは生き埋めにされ抹殺されてしまいました。現代でいえば、大統領を支えるブレーンやシンクタンクが偏ってしまった状況です。儒生は歴史に学ぶことを良しとしていましたが、そうした声が入らなくなってしまったのです。この時、方士の多くも同時に生き埋めにされてしまいました。

残ったのは法吏ですが、一般に、官僚は必ずしも主君を諌めることはしません。ましてや、そうした始皇帝の行動を見て、それでも進言する勇気を持つ官僚はほぼ皆無でしょう。こうして始皇帝の独裁はますます強くなっていきます。

始皇帝は、サクセッション・プランにも失敗しました。焚書坑儒に苦言を呈したのは、長子の扶蘇だけだったと言われますが、始皇帝はその扶蘇を疎んじ、北方防衛の仕事に左遷してしまいました。当時、始皇帝は40代でしたが、その頃の40代は現代とは異なり、すでに老人に近い年齢です。本来であれば後継者をしっかり育てておくことが必要だったのですが、その第一候補を辺境の地に追いやってしまったのです。ちなみに扶蘇は、後に弟の胡亥と長年にわたる始皇帝の側近の李斯に謀られ、自死せざるを得なくなったのです。

結局、始皇帝は紀元前215年に49歳でこの世を去りましたが、秦の国はもはやボロボロでした。後を継いだのは20歳の胡亥ですが、求心力は全くありません。一般の民は土木工事で疲弊し、また官僚組織や軍も混乱していました。そうした中、伝記でもお馴染みの項羽や劉邦が反乱をおこし、秦の国は211年に滅んでしまったのです。ただし、秦が採用した郡県制などは、その後、漢(劉邦=高祖が建てた国)にも受け継がれ、中国の政治のベースになっていくのです。

このケースからの示唆としては以下のようなことが言えそうです。

・トップが間違った方向に欲を持つと組織は崩壊しやすい。健全な志を持ち続けることが重要
・ブレーンのバランスには細心の注意が必要。一時の感情に任せてそのバランスを崩すと、誤った意思決定をする可能性が高まる
・後継者を育てることは、トップの最大の任務の1つである

東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。戦略系コンサルティングファーム、外資系メーカーを経てグロービスに入社。累計150万部を超えるベストセラー「グロービスMBAシリーズ」の著者、プロデューサーも務める。著書に『ビジネス仮説力の磨き方』『グロービスMBAビジネス・ライティング』(以上ダイヤモンド社)、『[実況]ロジカルシンキング教室』『[実況』アカウンティング教室』(以上PHP研究所)、『利益志向』(束洋経済新報社)、『ロジカルシンキングの落とし穴』『バイアス』『KSFとは』(以上グロービス電子出版)、共著書に『グロービスMBAマネジメント・ブック』『グロービスMBAマネジメント・ブックⅡ』『グロービスMBAアカウンティング』『グロービスMBAマーケティング』『グロービスMBAクリティカル・シンキング』『MBA定量分析と意思決定』『グロービスMBA組織と人材マネジメント』『グロービスMBA事業開発マネジメント』『グロービスMBAビジネスプラン』『ストーリーで学ぶマーケティング戦略の基本』(以上ダイヤモンド社)など。その他にも多数の共著書、共訳書がある。
グロービス経営大学院や企業研修において経営戦略、マーケティング、ビジネスプラン、管理会計、自社課題(アクションラーニング)などの講師を務める。グロービスのナレッジライブラリ「GLOBIS知見録」に定期的にコラムを連載するとともに、さまざまなテーマで講演なども行っている。

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